【107】 二学期(文化祭④)
9月最後の月曜日。
俺はいつも通り制服に着替えて学校へと向かっている。
ただ今日はいつもよりも家を出る時間が早いし、歩く速度も速い。
先週の文化祭で八木は俺に告げてきた。
週末に佐藤さんの家に呼ばれ、それに親もいないと。
更に佐藤さんの顔が赤くなっていたという証言も戸塚さんから聞いてたし、もはやイチャイチャしたいという佐藤さんからの勇気ある誘いなのは明白。
ただ俺も童貞だし、八木に教えられる事はほとんど無かった。
だから戸塚さんに色々と助けてもらったのだが、戸塚さんから告げられたアドバイスは“とにかく優しく、ソフトタッチで”と“コミュニケーションをしっかり取ること”の二つのみ。
俺からは“ちゃんと皮が剥けるのか”という確認と“コンドームの使い方を知ってるか”の確認。
どちらも大丈夫らしく、こちらとしてはそれ以上何も聞く事はなかった。
そして今日は月曜日。
八木はそのイベントを終えた最初の平日。
教室を開けると、八木が座っていた。
両肘を机に乗せて顎を両手で作った拳に乗せてその視線はまっすぐ教壇の方へ向いている。
その横顔は大人への階段を上がったかのような清々しさで、「嗚呼……卒業したのかアイツ」と心の中でそう確信した。
「どうだった?」
俺は八木の後ろにある自分の席にカバンを置いて聞いてみる。
「素晴らしい体験だったよ」
「そうか」
「女子の部屋……いい匂いだった」
「ほう、それで?」
「それでってなんだよ」
「隠すなよ。エッチしたんだろ」
「してない」
「はあ?」
「実はな……親が帰ってきたんだよ」
「旅行に行ってたんじゃ?」
「未央の勘違いでな、日帰りだったらしい」
「……」
さすが佐藤さん、相変わらずのドジっぷり。
今回はドジというよりも勘違いだが。
「夜まで一緒に映画見てたら、親が帰ってきた」
「それは残念だったな」
「残念は残念だけど……それ以上に親と遭遇したことが恥ずかしかった」
「だろうな」
「それに俺達にはまだ早いと思ってたし良かったとも思ってる」
「そんな事言ってると、また佐藤さんに不安がられるよ」
「大丈夫。ちゃんとそういう話、出来るようになったから」
「ふーん」
なんだかんだ言っても良い関係を継続できてるみたいだ。
俺としてはリアルな初体験の話を聞けるチャンスだったから残念だけど。
「それよりよー羽切、お前と鹿沼はどこまで進展してるんだよー?」
「前にも言っただろ。付き合ってないから進展もクソもない。それに鹿沼さんの発作が無くなったら俺の事なんて忘れてもっと良い男捕まえてくるぜきっと」
「何じゃそりゃ。鹿沼さんは発作があるからお前に付き合ってくれてるとでも思ってるの?」
「そうだろ」
「やっぱバカだな。鹿沼さんは明らかにお前のことが好きだぜ」
「それは無いな」
「おいおい......。まあ発作が無くなってからが見ものだな」
「一年以上かかるかもって言われてるんだぞ」
「長けりゃ長い程、見ものだ」
来週にはもう10月。
俺の残りの時間は二ヶ月と25日。
鹿沼さんの発作が俺のいる間に治る可能性は0%では無い。
むしろそれなりに可能性はある。
ただ、最近もし治ったらと考えると複雑な気持ちになってる自分がいて変だ。
もし治った場合、鹿沼さんは俺から離れて普通の高校生活に戻る事になる。
あれだけ人気ならすぐに良い男を彼氏にできるだろうし、最高の高校生活を送れるはず。
俺の胸にあるモヤモヤはそういう意味でもモヤモヤするけど、もう一つの意味もある。
それは八木の言う通り、鹿沼さんが俺から離れない場合があるという事。
先週の文化祭で鹿沼さんは俺に、転校の最後まで一緒にいてほしいと言ってきた。
一応約束はしたけど、その約束は破らなくてはいけなくなる。
それは鹿沼さんの為でもあり、俺の為でもある。
もしも鹿沼さんの発作が治らずに転校の日を迎えそうならば、関係を薄らせつつも発作が起きた時に俺が対応するなど完全に関係を終わらせる事はしないだろう。
しかし発作が治れば関係を完全に終わらせる必要がある。
じゃなきゃ鹿沼さんの人生が先に進まないから。
発作もないのにいなくなる俺と関係を継続する事は不利益にしかならない。
「おはよー」
そんな事を考えていると、鹿沼さんが教室に入ってきた。
隣には戸塚さんがいて、クラスにチラホラと人が増え始めている。
「八木君、昨日はどうだった〜?」
「残念だけど、親が帰ってきて出来なかったよ」
「何だよそれ〜。その話を聞くのが楽しみすぎてこっちは寝不足なのに〜」
「もしそうなっても戸塚さんには教えてあげなーい」
「ええええっ、なんでよ~」
「だって戸塚さんに話すと、その程度~? みたいなこと言われそうだし」
「言わないって~」
朝っぱらからなんて会話だ。
「ところでそろそろ文化祭だね~」
「三週間後ってそろそろって言うかな?」
「言うでしょ~」
「ちなみに何が楽しみなの? やっぱりクラスの出し物とか?」
「私はやっぱりミスコンかな~」
「ミスコン……?」
って何?
ミスド的な?
学校でドーナツでも作るのが楽しみなのか?
「えっ、戸塚さんエントリーするの?」
「しないしない~、エントリーするのは景の方だよ~」
「えええっ!? エントリー!? 何に!?」
「だーかーらー、ミスコンだって~」
「ミスコンって何?」
「はああ~? いわゆる美人コンテストってやつだよ~」
なるほど、ミスというのはMsもしくは未婚女性を表すMissのコンテストというわけか。
「私はエントリーしないよ?」
「景がエントリーしないなんてありえないよ~」
「どうして?」
「それはね鹿沼さん。この学校のミスコンは自発的なエントリーじゃなくて全員投票制でのエントリーになるからだよ」
「どういう意味?」
「この学校にいる全員に投票権があって、まず予選として一学年から3人が選ばれる。そしてその3人3学年から選ばれた9人は文化祭当日に舞台で順番にアピールの場が設けられて、今度は全員からの投票で1位から3位まで決まるってわけ。少なくとも鹿沼さんは予選突破は間違いないだろうし、文化祭までにどんなアピールをするかの準備とか考えないといけないよ」
「ええ……」
鹿沼さんはあからさまに嫌な顔をした。
当然だ。勝手に投票されて勝手に大人数の前で何らかのアピールをしないといけないなんてパワハラに近い。
鹿沼さんの予選突破は間違いないから、その先どうするべきか考えないといけない。
舞台に上がるという事は当然、多くの視線に晒されるしスマホで撮影も当然される。
となると発作は間違いなく出るからだ。
「ちなみにミスコンは女だけじゃないよ~?」
「えっ」
「男部門は誰になるかな~?」
「一年だとC組の山田とか佐々木とか」
「佐々木君ねぇ……」
「景が他クラスの男子の名前知ってるなんて珍しいね~」
「だって告白されたし」
「もしかしてあのサッカー部の?」
「うん」
「確かにイケメンではあるね~」
「一年生だとその二人が最有力候補じゃないかな」
「亀野とか良い線行くんじゃない?」
「こういうのって大体、運動部から選ばれるんだよ」
「亀野って部活入ってるっけ」
「美術部」
「へー」
亀野はこのクラスではあるが、俺たちとは違うグループで活動している。
いわゆる意識高い系グループで、佐切さんがクラスに来た時だけ俺達のグループの一員となる。
学級委員長という肩書きもそうだが、少なくともこのクラスでは顔面偏差値上位に入る。
ただ八木が言うように部活動票はかなり重要で、やはり部員数の多いサッカー部、野球部は有利と言える。
「私は羽切君とかあり得るんじゃないかなって思ってるけどな〜?」
「戸塚さん、冗談でもそれは無いよ」
「羽切はイケメンってよりも女垂らしってツラだしな」
「どんなツラだよそれ。それなら尚更あり得ないだろ」
「まあ、外見だけのミスコンだとやっぱ勝ち目ないわな」
「生まれつきの外見で優劣つけられんのは結構しんどいよな」
「それな」
顔面偏差値も身長も運動能力も全てが劣勢なのは自分がよくわかってる事。
それを改めて認識させられる行事というわけだ。
俺も遺伝子で全て決まる系の事は諦めてるが、しかし完全にどうでもいいとはならない。
やっぱり何もかもが完璧でたくさんの女子にモテて、いっぱい抱きたいという気持ちは消えない。
いわゆるモテない男の夢というやつだ。
「さて、恒例のやついきますか~。八木君、景、手出して~」
恒例のやつというのは毎朝やっている、八木と鹿沼さんの握手。
これによって薬の効果が出ているのか出ていないのかを確かめている。
ちなみに鹿沼さんの薬は一週間ごとに薬を変えているが、世の中には無限に薬があるわけじゃないので、1か月ごとに一番最初の薬に再チャレンジすることになっている。
その時は二週間ごとに薬を変えて経過観察というわけだ。
「ん? んんっ?」
「あれ?」
目の前で八木と鹿沼さんが手をつなぐと、八木と鹿沼さんが声を出した。
「どうした?」
「震えてない」
「え?」
俺は立ち上がり、二人の繋いだ手を見てみる。
確かに鹿沼さんの手は震えていない。
「八木君に慣れちゃったのかな?」
鹿沼さんはノホホンとしているが、果たして本当にそうだろうか。
ゾワゾワゾワと心臓に鳥肌が立ったような感覚が込み上げてくる。
「亀野君~、ちょっとこっち来て~」
戸塚さんは亀野を呼び、亀野は俺たちの前へとくる。
「何?」
「景と握手してくれる~?」
「なんで」
「いいから~」
亀野は乗り気ではなかったが、鹿沼さんが手を出したのでその手を握る。
俺はその手を注意深く見る。
やはり鹿沼さんに震えは見えない。
すると戸塚さんはスマホを取り出して鹿沼さんへ向ける。
カシャカシャと何度も写真を撮った後に俺は鹿沼さんの手を握ってみるが、やはり発作が起きていない。
という事は……。
「景、薬の効果出てきたみたいだね~」
「嘘……」
鹿沼さんの驚いた瞳と目が合う。
発作が無くなった。
さっきまで考えていたことが現実になってしまった。
「ホームルーム始めるぞー。席座れー」
教室に先生が入ってきて、気づくとクラスにはもう皆んないた。
何を言えばいいのかわからない俺は、鹿沼さんの視線を切って席に座った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「それじゃ、また明日〜」
「ばいばーい」
六限の授業が終わり、美香と別れて家までの帰路を歩く。
体調には全く変化がないが、今日一日過ごしてみて薬による発作の抑制は間違いなく効果を発揮している事が分かった。
これで発作を恐れて今まで出来なかったことも出来るようになるかもしれない。
そう考えるとちょっとウキウキしてくるし、同時に発作で出来なかったことって何だろうって考えてみる。
まずは“インストグラム”のアカウントを作って自分の写真をあげてみようか。
それとも少し露出の多い服を買って、街中を歩いてみようか。
やっと本来の自分に戻れた気がして、気持ちはもう舞い上がっている。
何をしてみようか考えながら歩いていると、前に羽切君が歩いているのが見えた。
周りにはもう学校の人も居ないので、小走りで近寄り横に並ぶ。
「今日は何食べる?」
「もうお腹すいたの?」
「そうじゃなくて、何作るかによっては材料買わないとダメでしょ?」
「......」
羽切君は何故か黙った。
チラリとその横顔を見ると、羽切君は少し俯いて元気がなさそう。
私の発作が抑えられたと知ったとき羽切君はもっと喜んでくれると思っていたのだが、全然そんな事はなかった。
今日一日どこか上の空で、疲れているというより思い詰めているように見える。
「あのさ鹿沼さん」
「うん?」
「もう一緒にご飯食べるのやめようか」
予想外の言葉に私は足を止める。
「どうして?」
理由を聞くのが怖かったけど、振り絞って言葉にする。
羽切君は私よりも五歩ほど歩き、振り向いた。
「さっき母さんから連絡があって、あっちの高校の入学手続きが終わったらしい。それと転向の日程も決まった」
羽切君の転校時期は知っていたけど、まさかもう入学手続きが終わったなんてあまりにも早すぎる。
次は海外という事もあって、羽切君自身じゃなくて羽切母が手続きをしたから時期が早まったのか。
もう羽切母から告げられた条件をクリアするのが無理なのは分かっていた。
それは羽切母もわかっているはず。
なのに連絡一つして来ないのはあまりに不親切ではないだろうか。
「発作も抑えられたし、鹿沼さんが俺に時間を使うのは無駄だと思う」
今までほとんど見せて来なかった、羽切君のなんとも言えない表情。
その表情は、今日発作が抑えられたパーティーを二人で開催してワイワイしようなんて事も考えていた私には鋭く胸に刺さった。
羽切君が自分に自信が無くて、何か変えれるんじゃないかと期待を持ってイギリス行きを決断したのは知ってる。
私はもうそれを止められない。
それを止めることは羽切君のためにならないと思うから。
では私はどうすればいいのか。
羽切君を好きにさせる理由も羽切君の転校を止める方法もなくなった。
私はこれからどうしたい?
自分の心に問いかけてみても全く良い答えが返って来ない。
最終的には羽切君が居なくなってしまうという事実が、何をしても悲しみに終わるという現実が、私の欲望も願望も全てに蓋をしてしまっている。
海外転勤だと半年で日本に帰ってくる事はないだろう。
平均は二年。
一年で帰ってくるかも知れないし、五年十年と帰って来ないかも知れない。
今どんなに羽切君のことが好きでも流石にそんなには待てないし、多分それだけの時間が空いたら発作のない私は別に好きな人ができると思う。
だったら羽切君の言う通り、今彼に時間を使うのは無駄?
もっと合コンとか行って別の誰かを探す方が有意義?
わからない。
胸がモヤモヤして気持ちが悪い。
もし羽切君の転校を阻止できなかった時、こういう事になるかもしれないって想像はできてた。
でもまさかこんなに早く来るとは思ってなくて、準備も出来てないし、答えも出てない。
何を答えれば良いかわからず突っ立っていると、羽切君は再度歩き出した。
今までに無い、羽切君との亀裂。
私はその背中を静かに追いかける事しか出来なかった。
そして晩御飯を一緒に食べる事も無くなった。