3.新しい同居人と非同居人
私は祖父母と両親の四人といっしょに暮らしていたけれど、彼らはほぼ同時期に、まるでなにかに呼ばれるように命を落としていった。
そのころのことは、頭に霞みがかったかのように、あまり記憶がない。目が気持ち悪いと父に殴り飛ばされて、したたかに柱に後頭部を打ち付けた。
それからしばらく吐いたり熱を出したりをくり返し、気がつくと家族は誰もいなくなっていた。そのとき、わたしは十歳だった。
親族同士でどのような話し合いがなされたのかはわからない。
けれども、わたしが誰かの家に移り住むようなことはなく、生まれてからこれまで育った家に、まるまった背のおばあさんが越してきた。
週に一度、彼女の息子である独身のおじさんが様子を見に来た。
おばあさんはとにかく忘れっぽく、たまに暴れたりもするので、わたしたち二人は厄介払いされたのだろうなと思っていた。
おばあさんは「爆弾が落ちてくる!」と泣き叫び、子どものように癇癪を起こして、暴れることがあったのである。
けれども、基本的にはおっとりした上品な人だった。
体も丈夫で、朝は夜の明けないうちから起きて、食事をつくる。ほかほかと湯気をたてる味噌汁が目の前に置かれたとき、わたしはほろりと涙をこぼした。
それまでは祖母と母が食事づくりをしていたけれど、私には買い置きのパンがひとつ置かれるだけで、給食以外の温かい食事というのはもう何年も食べていなかったのだ。
おばあさんは、意識がはっきりしているときは、わたしにいろいろなことを話してくれた。
彼女の中では、私は子どもだとか孫だとかいう年齢のそれではなく、対等な女友達のような立ち位置だったのではないかと思う。
大正生まれ。かなり裕福な家庭で生まれ、戦前は生粋のお嬢様だったらしい。
そんな彼女が思いつくままに、刺繍のいろはだったり、俳句のつくりかただったり、フランス風の常備菜作りだったり。
夕飯やお風呂を終えたあと、彼女の具合がよければ、そういうものを教えてもらった。
しかも、戦後は縫いものを生業にしていたらしく、それまで黒いボロボロのワンピースばかり着ていた私に、おばあさんはたくさんの可愛い服を縫ってくれた。
白に近い薄いピンク色の布に、黒いラインが入り、袖がお姫様のようにぽわんとふくらんだワンピースを見たときは、顎が外れるかと思った。
淡い水色の地に、マーガレットの花がプリントされたノースリーブのワンピースにも感動した。それに真っ白な総フリルのワンピースときたら! いくつになっても忘れられない、夢のような可愛さだった。
とはいえ、呪われた子が着ていると何を言われたものかわからない。それでなくても、わたしときたら、この陰鬱な見た目なのだ。
家の中と神社に行くときしかこのお気に入りの服たちを着る機会はなく、学校には今まで通りの黒いワンピースを着て通っていた。
あるとき、学校帰りにおじさんとばったりでくわした。おじさんはわたしを見るといまいましそうに顔をしかめた。けれども、翌日家に帰ると、新品のシンプルな黒や紺色のワンピースが十枚あった。
おじさんはサイズがわからなかったらしく、そのうち二枚は小さすぎて着られなかったけれど、学校にあのかわいい服を着ていくのはもったいなかったので、とても助かった。