1.聖女リュカ
わたしの名前はリュカ。
リュカ・フォン・ヴォルハルト。
侯爵家の一人娘として生を受けた。神の愛し子だとか、聖女だとか呼ばれている。
この呼び名が定着してしまったのは、一年前、領地のある街を訪れたのがきっかけだった。
湖畔にあるその街は、まるで夢のような美しさを誇る。
空を沈めたような湖面にきらきらと光が輝き、それでいて透明度の高い水の中には魚の姿がはっきりと見える。
まるで魚が空を泳いでいるみたいに。
しかし、その湖が完全な状態で見られるのは希少だ。この国の中でもとくによく霧が出る場所なのである。
そして、その日もそうだった。
湖畔にある屋敷に来るのは数年ぶりで、リュカは浮かれていた。
湖のそばに美しい花畑があると聞き、護衛のマテオとともに向かった。屋敷から花畑までは、ほんの五分ほどだという。何かが起こるなどとは思いもしなかったのである。
とつぜん響き渡った悲鳴に驚いて目をやると、霧とはまた別の、黒い煙のようなものが立ち込めている。
人々はそれを見て叫び、逃げ惑っていた。
「魔獣よ! 魔獣がいる……!」
マテオがはっと身を固くしてわたしの前に出る。
魔獣とは実体なきものだ。
こちらからは触れない。けれども、腕を掴まれて水の中に引きずり込まれたり、魔術を放ってきたりもする。
また、何もないところから湧き出すように出てきたりもするのである。一説によると、魔獣による瘴気の影響で病気になったり、呪いを受けて不幸になったりすることもあるのだとか。
「お嬢様、早くこちらへ!」
マテオは真っ青な顔をして言った。
わたしの足もがくがくと震えた。魔獣を見るのははじめてだった。
けれども、怯える気持ちの中にふと、一滴の違和感が落とされたのである。
「あれが魔獣……? どう見ても……」
「お嬢様!」
薄目をこらしてみると、そこにあったのは黒い靄ではなかった。人間だ。下卑た笑みを浮かべたもの、うつろな顔をしたもの、憎しみを目に燃やすもの……。
「霊だ」
ぽつりと漏らした。
その瞬間、頭痛と共に膨大な量の記憶が流れ込んできた。それは、ここではないどこかで暮らした記憶。
おばあちゃん。
佐保里。
そして、ルカ……。
一瞬ふらついたものの、マテオに支えられてすぐに体勢を立て直す。
次の瞬間には、わたしはもう、ただのリュカではなくなっていた。
悔しさと不安がないまぜになって、目の前の悪霊たちに苛立ちをぶつけた。
はっと何も無いところに目をやる。
すぐそばに霊がいることに気がついたのだ。けれどもそれは、霊ではなくて……。
「佐保里……?」
親友であり仕事上のパートナーでもあった、佐保里だった。着古したグレーのジャージに、トレードマークの無骨な黒縁メガネ、短い髪は前髪だけをクリップでとめていて。
まるで、仕事中にそのまま抜け出してきたような……。
それから彼女はたびたび生霊となって、こちらにやってくることとなる。
リュカの考察メモ
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・魔獣の瘴気→単に憑かれて体調を崩しているだけでは?
・魔獣の呪い→単に憑かれて不運になっているだけでは?
・魔獣の魔法→???
こちらの人間は皆、魔力と魔法を持っているらしい。そのため、死後もその能力が使えるということ?
・魔獣の見た目→???
私も認識する前は黒い靄に見えていた。そういうものだと伝わっていて思い込みで見えている?
検証の余地あり。