3.感染した力で
「それじゃあ、また次の打ち合わせで」
宮杉が靴を履こうとこちらに背を向ける。
いつもぴんと伸ばされた背筋も、重たそうにだらりと丸まっている。
ふう、とため息が漏れる。きっと彼女自身は気づいていない。
いつでもきっちりとした"女史"のそんな姿を見たのははじめてで、あたしの気持ちはとても不安定になった。
彼女も龍花のように連れて行かれてしまうのではないかという恐怖、それからそんな状況をつくりだしている目の前のヤツへの怒り。
いろんなものがごちゃごちゃになって、目の前が赤く濁って。
私は手を伸ばした。男の霊がぎょっとしたようにこちらを見る。
でも、もう遅い。
くたびれたスーツの衿を掴む。実際に触れている感触はないのだが、男は動けずにじたばたと逃げ出そうともがいている。
「あら、ここでいいですよ? お見送りしていただかなくても……」
背後で起こっていることになど気づかなかったのだろう。宮杉が呑気にそんなことを言う。
「──ちょうど一年でしょ? なんかさ、人恋しくて」
あたしが苦笑して言うと、宮杉は泣きそうな顔をして笑った。
あたしの小説が売れたのは、リアリティのせいだけではない。
「霊能者・龍花」の人柄に惹かれたという読者の感想をいくつも、いくつももらった。
今でも彼女が大好きだった安物のチョコレートが編集部に送られてくるのだという。
もしかすると命日である今日は(ーー先ほどあたしのSNSでも書いてある)、花などが届いているかもしれない。
宮杉と一緒にエレベーターで降りた。マンションのエントランスへ。
「では、失礼します」
宮杉が青白い顔でへにゃりと笑い、頭を下げた。あたしもうなずいて、ひらひらと手を振った。
手が離れたことで自由になった男の霊が、下卑た笑みを浮かべながら、ふよふよと宮杉のほうへ向かっていく。
あたしは再び手を伸ばしてそいつを掴んだ。
そして、霊体を上へ放り投げた。どう表現したらいいのかわからない。まだなにも視えなかったころ、龍花が言っていたが、確かにそうとしか言えなかった。
男は何が起こったのかわからないというようにうつろな目を見開いた。
そして、どんどん空へと落ちていく。声にならぬ声が響く。
そこに巨大な光が迫ってきた。帯のような細長い光だ。男の霊はその中に飲み込まれた。
そして、蒸発するように消えた。
これは、龍花の置き土産。
結界のような、自動除霊装置のような、ーーなにか。たぶん彼女にとって使い魔のような存在であった、蛇の「オロチ」じゃないかと思っている。
龍花がいたときは、美しい小さな白蛇として顕現していた。けれども、いまの「オロチ」らしき存在は、ただひたすら眩しいだけの光だ。
あたしはふらふらと四階の自室へ戻った。ごっそりと体力を持っていかれたような感じがある。
当たり前だ。元々、霊とは無縁だったのだ。
最強の霊能者と過ごしているうちに、感染して、なにかの回路が開いてしまっただけ。
龍花はこともなげに行なっていた浄霊。
でも、あたしの体にはひどく負担がかかるようだ。
ひどい目眩と吐き気をこらえながら、そのままベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
涙がひとすじ落ちて、枕を濡らした。
胸のあたりに、小さな猫を抱きしめているような感覚があった。その温かさに少しだけほっとして、意識がすうっと落ちていくのを感じたーー。
「会いたいな」
思わずそうこぼしていた。