第71話 蠱毒の檻
時系列:物語開始の2年前
場所:とある樹海の奥
俺は向井淳。平凡な大学生だった。少し前までは。
今は何の因果か、デスゲームの真っ最中だ。
「この森の中で、3日間生き延びてみろ。そうすりゃ、恋人と話をさせてやってもいい」
初老の白髪の男にそう言われ、フェンスと鉄条網に囲われた広大な樹海に放り込まれた。
放り込まれて数時間、今はとりあえず、茂みの中に身を潜めている。
誰か、近付いて来ている。足音は1人。
やがて木々の隙間から僅かに人の姿が見える。40代の女性、神経質そうに周囲を頻りに見まわしている。危険はなさそうに見えた。
「あの…すいません」
俺は隠れていた茂みから抜け出して、女性に声を掛けた。
女性は振り返る。その手には鉈が握られていて、両手で短い柄を持ち、その手は震えているように見えた。
「あ、あ、ああ、あ」
と女性は声を出す。驚かせたかな、と思ったが様子が変だった。それ以降、何も話さずに俺に少しずつ近付いてくる。
「あの、とりあえずその鉈を降ろして…」
俺は女性を落ち着かせようと声を掛けるが、何か意を決したように、一瞬だけ目を瞑った。そして目を見開き、鉈を振りかざして襲ってきた。
間一髪。俺の顔面をスレスレで鉈の刃が振り下ろされた。
俺は驚きのあまり、そのまま尻餅をついて、腰を抜かしてしまった。
「や、やめて、くれ」
俺は情けない声でそう懇願する。すると女性はようやく口を開いた。
「息子が、殺されてしまうの。今、ここで、あなたを殺さないと…!」
ヒステリックな金切り声で叫ぶ。
そうか、この人も俺と同じなのか。
『早くやれ。ヨシキくんが死んじゃうぞ』
と、女性が持っていた携帯電話から声がした。
「待って!!今やる、だから…」
携帯からする声に応える女性。そして俺の方を向いて。
「ごめんなさい、ここで、死んでちょうだい!!!」
そう言って女性は鉈を俺に向けて振り下ろす。
抜けていた腰も、いつの間にか動くようになっていた。身体を転がすようにしてなんとか鉈の刃を避ける。
「逃げないで…避けないで…なるべく…痛くしないから…!」
女性は狂気に駆られたように、俺に向かって走ってくる。逃げ場はない。
もう一度、鈍い動きの振り下ろしを避ける。40代の女性の動きは、そんなに機敏ではなかった。
全力で振り下ろした鉈は空を切る。女性は思わず踏み外してよろける。俺はそんな女性にタックルを浴びせた。
衝撃で、女性はよろけた体勢のまま勢いよく地面へと倒れる。なんとか受け身は取れたようだが、その手から鉈は離れ、地面へと転がっていた。
急いでそれを拾い上げ、女性の方を見る。
「あ、あぁ」
鉈を取り上げられては、もう手も足も出ないと思ったのか、完全に戦意を喪失している。
『残念だったなぁ、ほら、最後の声を聞かせてやる』
女性は倒れたまま、近くに落ちた携帯電話を耳に当てる。
「お願い…殺さないで、なんでもするから…」
『なんでもするって言って、できなかったじゃないか』
「お願い…お願い…」
『母さん!助けて、助けぁぁああああああ、ぁああああああ!』
携帯電話から、若い男の声の、絶叫が聞こえた。
「あ、あ、うぅ、うぅぅぅ、うぁ」
女性は携帯電話を落とし、嗚咽を漏らしながら泣き始めた。
俺はどうしていいかわからなかった。ただ、倒れたまま泣き続ける女性を眺めるしかなかった。
すると、しばらくして、女性は泣き止んだ。そして、俺を睨み、立ち上がる。
「あなたのせい、あなたのせいで、うちの子がぁあああああああああ!」
そう言って掴みかかって来た。最初は胸倉を、そして首を。
「や、やめろっ!」
俺は咄嗟に女性を付き飛ばそうと腕を前に出した。鉈を持ったまま。
「ギャァ」
という声がして、首から女性の手が離れる。
「い、痛い、痛いぃ、うぅ、うぅう」
どうやら俺の鉈の刃が、女性のわきの下辺りを切り裂いたようで、女性は傷を抑えてその場でしゃがみ込んだ。
「あ、お、俺は、あの、そんなつもりじゃ…」
弁明するように声を掛けるが、返事はない。
すると今度は俺のポケットに入っている携帯電話が鳴った。この携帯、俺のじゃない…ぞ。
画面を見ると非通知の表示。通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「もしもし…?」
『向井だな。その女を殺せ』
…は?言っている意味が分からない。なんでそんなことを。
『俺はこの娘を、殺したくはない。成人してまだ間もない、まだ少女じゃないか』
「なに、を…」
『その鉈で、お前の目の前にいる女を殺せ。そうじゃないと、俺はこの悠陽という少女を殺さねばならん』
「…くっ」
この声、俺をここに放り込んだ初老の白髪の男か…
『俺は、最後の声を聞かせてやるような残酷なことはしない。殺し方も、なるべく痛みのないやり方でやる』
「…やった、殺した。これでいいか!?」
俺は咄嗟に鉈を振り下ろしたフリをして、携帯電話に話す。だが。
『見ているぞ。早く、殺せ。時間がない。俺に引き金を引かせるな』
「クソ」
俺は周りを見渡して、誰かに監視されていないかを確認する。誰も、いない。
…空を見上げる。あれは、ドローンってやつか?
『ほう、良く見つけたな。そう、上空から見ているぞ。その場で、その女を、やれ』
「クソ、クソ、クソォ!!!」
俺は携帯電話を手放して、両手で鉈を握る。短い柄を力いっぱい握りしめる。
悠陽を死なせるわけにはいかない。唯一無二の愛しい人を。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、うるさいほど心臓の音が聞こえる。心拍数はどんどん上がって行く。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
全てを振り切るように、俺は絶叫しながら、うずくまっている女性の頭に向かって、全力で鉈を振り下ろした。
俺は、人を殺した。
そして次の日も、また次の日も同じように。自分や恋人に迫る死から逃れるために。