第33話 Encount on the ridge
奥沢井と名乗る老年の男性と山小屋に入る。中は比較的小綺麗で、電気も水道もないことを除けば快適と言えるだろう。
じいさんはリュックに乗せてあった寝袋を広げているが、俺はもちろん床で寝ることになる。
外は完全に暗闇に包まれ、小屋の中も視界がなくなる。夜の虫の音だけが響く。
朝。ほんの少し肌寒い。気温は20度前後くらいで、暑さに慣れていた身体には少々冷たい。
「起きたかい」
じいさんは既に寝袋を畳み、背負っていた。
「近くに水汲み場がある、顔を洗いに行かんかぁ」
「え、はい」
小屋から出て3分、少し斜面を下った場所で、金属パイプから湧き水が出続けている。そこでじいさんと一緒に顔を洗い、水を飲んだ。じいさんは水筒に水を、俺は空のペットボトルに水を汲んだ。
「よし、行こうかぁ」
じいさんはリュックをデカいリュックを背負って、歩き始める。俺もそれに続いてバックパックを背負い、追従した。
「ところでぇ、おまえさん、物騒な物を持ってるなぁ…」
「え?」
尾根を歩き続けること数分、前を行くじいさんがこちらを見ずに言葉を発した。
「じいさん…いや、奥沢井さん…」
「じいさんでいいよ」
「じいさん、俺のバックパックを調べたのか?」
ストックを畳んで弾倉を抜き、外から全く見えないようにバックパックの中に入れていた89式。水を汲んだ時には見えないようにしていたはず、ということは寝ている間に俺の荷物を調べていたのだろう。
「悪いのぉ、ちと気になったんじゃ。自衛隊の銃を持っとるってことはぁ、自衛官かい?」
振り返ることなくじいさんは話し続けている。
俺は何と答えようか迷った。が、下手に嘘を吐く必要もないだろうと判断した。
「元々はただの学生だったんだが…」
俺は今までの経緯を順を追って話していく。
「そりゃぁ、まさに事実は小説よりも奇なり、ってことじゃなぁ」
俺が歩きながら語り終えると、じいさんは立ち止まって振り返ってそう言った。
「少し休憩じゃ」
「ええ」
休憩のために止まったのは、ぼろぼろのお社がある場所だった。俺がそれを見ていることに気が付くと、じいさんが説明してくれた。
「ここは七ツ石神社じゃ。見ての通り、朽ち果ててしまってるがなぁ。平将門に所縁があるだとか、山犬を信仰していたとか言う話じゃ」
「…」
こんな事態になっていなければ、良い観光登山だっただろうな。ガイド付きの。
「ん?じゃあここは山梨県か?」
「お、良く分かったのぉ、そうじゃ、ちょうどここらが東京と山梨の境界じゃな」
その後、数分休憩をしてから出発。
しばらく平坦だった尾根は登りとなってきた。
それから登ること数十分、開けた場所に出る。
「雲取山…」
そこには東京都最高峰、2017.1mと表記されていた。
カラっと晴れた夏空、南西には富士山が見える。
その景色に見惚れ、まるで時が止まったような感覚に陥る。このまま山を降りればいつもと変わらぬ日常が待っているんじゃないかと思った。真夏の熱帯夜にうなされて見ている悪い夢なんじゃないかと。
目覚めれば何気ない顔をした悠陽と…
「お前さん、懐かしんだり、悲しんだり、憎んだり、忙しい表情じゃのぉ」
スっと現実に引き戻される感覚、少しガラついた声、それを発したじいさんの顔が視界の端に映る。
「10分も突っ立って、大丈夫かい」
「…」
「さっきの話の恋人かい」
「ええ、少し思い出していた、というか…」
「ワシも、随分若い時にぃ女房に先立たれてなぁ…それ以来、こうして山を歩いとる。どうも、家にいると思い出してしもうて」
「…」
それからまたしばらく沈黙の時間が流れる。
サァ、っと風が吹き、周囲の草木を揺らした。
「「ん?」」
風の音に混じる異音。これは、足音?
じいさんも同時に気が付いたのか、その音の発生源を探すよう視線を回す。
すると進行方向から誰かがやって来るのが見えた。
長袖の服に長ズボン、登山帽を被り、トレッキングシューズを履いている。登山者の恰好をした2人組のようだ。
しかし、そのうちの1人の足取りは覚束ない様子で、もう1人が肩を支えている様子だった。
俺とじいさんは顔を見合わせ、2人に近付きながら声を掛けた。
「あんたら、大丈夫か」
近付くと、2人とも女性であることに気付いた。登山帽で顔が見えず、服装も女性らしさがなかったため、顔が見えるまで気付かなかった。
2人は声を掛けてきたこちらを見て一瞬驚いた様子を見せるが、一瞬の間をおいてから表情の強張りを解いた。
「助けてください!友人が…!」
肩を支えてあげている女性が、そう言いながらこちらへと進んで来る。じいさんと俺は近付いて様子を確認するために2人へと駆け寄って行った。
俺はすぐに覚束ない女性のもう片方の肩を支え、その場にゆっくりと座らせる。
「何があったんですか」
俺は座らせた女性に声を掛けるが返答はない。意識が朦朧としているのか、その目は虚ろだ。
代わりにもう1人の女性が答えてくれた。
「噛まれました、正気を失った人たちに」
「…そう、ですか。それはいつ頃ですか?」
「ついさっき、ほんの5分くらい前です」
まだ間に合う、か。
俺は以前飲んだ抗生物質の残りを1錠取り出し、バックパックから水の入ったペットボトルを取り出して、女性に手渡す。
「コレを飲ませてあげてください。抗生物質です」
「は、はい、わかりました」
次に患部を探す。長ズボンが黒い色だったため遠目ではわからなかったが、右足の脛の辺りから出血していた。裾を上げて患部を露出させる。
幸い、傷は浅い。出血量も少ない。
「何か布とか持ってませんか」
「これを使うんじゃ」
女性に話しかけたつもりだったが、すぐに横にいたじいさんがリュックから包帯を取り出してくれた。
「これもじゃ」
ついでに消毒液も手渡してくれた。救急キット持ってたのか、抜かりないな。
先にペットボトルの水をもう1本取り出し、患部を洗い流す。そこに消毒液を垂らす。そしてやや圧迫しながら包帯を巻く。
「飲ませました」
何とか抗生物質を飲ませた女性がそう報告してくる。噛まれた女性は既に意識を失っているようだ。
「助かるかはわかりません。数日は意識が戻らないかも」
「…」
「ところで、噛まれてからどれくらいって言ってました?」
「…?えっと、5分くらい…」
俺はすぐに立ち上がって、2人の女性がやってきた方を見る。
3体か。
バックパックからライフルを取り出し、ストックを展開し、弾倉を入れて、チャージングハンドルを引く。