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5. 夜の終焉、そして週末

 小人への殺意に反応した指先が従順に動いた。


 指の先端、ほんのわずかな動きだったものの、その瞬間、小人の姿が消え失せた。


「……なんだよ」


 身の内に急激に沸いた暴力的な衝動は発揮する対象物を失い、そのせいで俺はしばらく途方に暮れてしまった。この衝動は、この衝動を向けるべき相手にぶつけるべきものなのに。なのに俺は室井への想いとともにこの相反するものを咀嚼させられるはめになったのだった。


 とはいえ、小人は正しいことをしたまでだった。小人が生物であったなら。いや、生物であろうとなかろうと、くびり殺される行為は愉快なものではないのかもしれない。そしてそれは、実は俺にとっても言えることだった。触れることすらためらうような質感の外皮をまとう、醜い小人。もう触感に関する記憶は失われているが(覚えていたくもないが)、今日あらためて見ても小人は最悪の外見をしていた。


 もう二度と会うことがないことを祈りつつ、俺は巨人の待つ家へと戻った。巨人と、最愛ではない妻がいる家へと。室井のいない家へと。特段気に入ってもいない、広くも狭くもない我が家へと。



 ◇◇◇

 


 週末はそれぞれで勝手に過ごすこととなっている。


 俺も妻も働いており、子供もおらず、お互いにほれ込んでいるわけでもないドライな関係ゆえのことだった。


 昼前に自部屋から出てきた俺に(ベッドもそれぞれの部屋に置いている)、クロワッサンにかじりついていた妻が軽く眉をあげた。


「あら。もう起きたのね」


 妻は俺が帰宅した時間が遅いことを知っているようだった。だが後ろめたいことはない。遅くなった真の理由を説明する義理もない。妻自身もそれらを望んではいない。同居人への挨拶の類だった。


「寝すぎても週明けから辛くなるしね」


 言いながら、自分のためのコーヒーを淹れる。妻の手元のマグカップにはミルクティーがなみなみと入っている。たっぷりとしたミルクティーとクロワッサンは、妻の朝食の鉄板だった。


「君も遅かったの?」


 コーヒーに冷たい牛乳を少々注ぐのは俺のやり方だ。


「ええ」


 妻のミルクティーはあたためた牛乳に茶葉を淹れて煮だしたものだ。


「今日はこれからどうするの?」


 冷凍庫からベーグルを取り出し、レンジに入れる。軽くあたためたものを皿にのせ、コーヒーとともに妻の正面に腰をおろした。その間、妻は沈黙していた。返答を考えているのだ。


「図書館か本屋に行こうかな」


 それなりの時間をかけて紡ぎ出した妻の返答は無難なものだった。


「いいね」


 妻が何と言おうと俺の返答は決まっていた。


「あなたは?」


「俺? そうだな……まずはたまった洗濯ものを片付けようかな」


 妻は毎日洗濯をしているが、俺は週にだいたい二回しかしない。ちなみに汚れ物は自分の部屋にためている。脱衣室に汚れ物をためておくのは、同じ脱衣室を使う妻に対して失礼なことだからしない。妻もそのようにしている。同居し始めてからも、俺と妻はお互いが他人であり敬うべき他者であることを忘れたことはなかった。


「じゃあ。私はそろそろ」


「ああ、うん」


 立ち上がりかけた妻が手に持つマグカップ、そこにはまだ半分ほどミルクティーが残っていた。おそらくこれから自室で残りを飲むのだろう。妻は飲食物を粗末にするようなことはしない。ミルクティーを飲みながら、ゆっくりと化粧をし、服を選び、今日これから何をするかを熟慮するのだろう。俺のいない場所で。誰からの支配も受けない場所で。うん、それは妻にとって最良の休日の過ごし方だ。


 ワンサイズ大きいシャツのゆるい首元から、テーブル上の皿をとるためにややかがんだ妻の肩が覗き見えた。ブラトップの細い紐も。妻が家ではブラトップを愛用していることを知ったのはいつだろう、そんなことについ想いを馳せる。お互いが最愛ではなくとも抱きしめあえていたあの頃――だがもう、そのような行為をお互いが求めることはあり得ない。そこにお互いの価値はない。それどころか時間の無駄遣いだ。


 そして俺に向けた妻の背を見てなぜか思った。妻は俺のように外で他の誰かを抱きしめることはあるのだろうかと。それ自体に価値はないものの、その背中にうやうやしく触れてくれるような人がいればいいなと思った。そして、ふと疑問を抱いた。こうやって妻の幸せを望んだのはいつ以来だろうか、と。だが一人きりになったリビングで、ベーグルをちぎり、コーヒーを飲みながらじっくりと考えてみたものの、何一つ明瞭に思い出せなかった。いや、本当のことを言おう。食事を終えたから思索することをやめたのだ。理由は簡単、面倒だから。


 こういう人間だから俺は巨人に食われなくてはならないのかもしれない。小人につきまとわれなくてはならないのかもしれない。


 だがこういう人間でなければ室井との昨夜の時間はなかった。小人と出会い、巨人の話をしなければあの時間はなかったのだ。


 これが悪魔に魂を売るということなのかもしれない。


 ならば俺はこれからも巨人に食われる夢を見るのだろう。そして小人もまた俺の前に姿を現すはずだ。いや、そうでなくてはならない。そうでなくては二度と室井に触れることはできないだろうから。


 そう思うと少し楽しくなってきた。昨夜も当然巨人の夢を見ているし、今夜も見るはめになるだろう。だがこの恐怖を味わいつくしてやるのだ。そうする他ないのだ。それが室井に触れるための条件なのだとしたら。


 



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