1. あの日、なぜそういう話題になったのか
あの日、なぜそういう話題になったのか。俺はもう覚えていない。
三年も前の、酒の入った席での、しかも真夜中の三次会での話など、普通はシミリーどころかメタファーとしても利用価値はない。
俺はその日も心地よく酔っていたはずだ。ビールからはじまり焼酎にすすみ、ベルトコンベアのように、またはマシンにでもなったかのように、定められたものを定められた流れに沿って受け入れ続けたはずだ。そうして三次会、いきつけのバーで数人の気心の知れた仲間だけとなってから一息つき、そこでようやく俺は愛飲するジェントルマンジャックを口にできたはずだ。
その日、スツールに座る俺の隣には室井がいた。同じ年に入社し、紆余曲折を経て俺のいる課に室井が異動して以来、三次会でこうして膝を突き合わせて飲むことはよくあることだった。
薄暗い照明の下、室井は長い足を優雅に組んでいたはずだ。彼女は決まってパンツスーツを身に着けている。見たことはないが、艶のある滑らかな布の下にしなやかな足が隠れていることは間違いない。でなければ足を組んであの優美さを醸し出すことはできない。女にしては長身の彼女にその仕草はとてもよくなじんでいる。
室井はこの店に来ると決まって赤褐色のクラフトビールを頼む。だからその日も彼女の手元には赤褐色の液体で満ちた細長いグラスがあったはずだ。
ここまでの描写はすべて俺の推測でしかない。たぶんこうだったろうと思うことを記したまでだ。
だが室井と交わした言葉についてはすべて思い出せる。
ずっと忘れていたが、一つのきっかけさえあればそれはすぐに思い出せ、そして二度と忘れることはできなかった。
最初は――そう、こうだった。
「どうしてあなたはそうやっていつも頑張れるの」
問われ、心が沸き立ったことを覚えている。質問形式ではあったが、その実、俺を賛美する言葉としか捉えられなかったからだ。褒められてうれしくない男などいるわけがない。しかも相手は室井だ。
そう、俺は室井のことを好きだった。足に見とれていただけの愚者ではなく、淡い恋心を長く抱いていたのである。
だが入社してはや十年、これだけの期間を同期として共に過ごせば、俺はこの恋を成就させたいとは思えなくなっていた。室井は俺のことをなんとも思っておらず、入社三年目には大学時代の友人と結婚してしまったから。
だからその夜の突然の賛美に、俺はどう答えようか迷ったはずだ。どの程度真剣に悩んだのか、そこまでは覚えていない。だが俺は室井に無様なところを見せたくないと願ったはずだ。俺と室井、二人の左手の薬指には指輪がはめられていたが、銀の輝き程度では欲望を抑制しきることは難しい。
ではなぜ俺は『そう答えてしまった』のか。
それはもう抗えない運命だったのだろう。
「よく夢を見るんだ。悪夢を」
室井が片方の眉を上げて俺を睨んだ。それを俺は「そういう顔をしても綺麗だなんてずるいな」と思った。もちろん口には出さなかったが。
「昨日も見た。ひでえ夢。暗闇の中、俺は鍋の中にいる」
「話をすり替えてる?」
「いいや。至極真面目に答えている」
「そう。……鍋と言った?」
「ああ。いや、でもあれは皿かもしれない。どっちだろう。だがどっちだっていい。どっちでも変わらない。とにかく俺は円形の大きな何かの中にいるんだ。そしてその何かには、俺と、俺によく似た奴らがぎゅうぎゅうに押し込められているんだ。俺は怖くて怖くて仕方がない。次に何が起こるのかを知っているから」
「次って?」
そう言いながら、室井の上半身が俺のほうに近づいてきたこともよく覚えている。パーソナルスペースは完全に侵略され、はっきりと心臓が警告音を発したからだ。真正面から視線が合い、俺はごまかすように手元のバーボンを口に含んだ。グラスを置いても室井は俺の至近距離にいて、琥珀色の液体はグラスの中で揺らめいていた。
「次はこう。真っ暗な空からにゅっと指がでてくる。指先には作りものみたいな長い爪がある。そろそろ切らないとやばいんじゃないかっていうくらい長い爪だ」
「長い、爪」
「真上から巨人みたいなばかでかい指が近づいてきて、鍋の中は騒然とする。その指は俺達の中から一人を選びだそうとしているからだ。選ばれた者の末路はみんな知っている。そして俺はこの夢の結末が決まっていることを知っている。俺は観念して指が降りてくるのを待っている。予想通り、指は俺に向かって迷いなく降りてくる。下から見上げると、爪はまるで死神の鎌のようなんだ。ぐっと曲がった先はどこまでも細く、鋭い。夢だって分かっているのに、近づいてくるのを待つ間、俺はいつもちびりそうになる」
「もう三十五なのに?」
「そう。お前と同じ三十五なのに」
笑いをとろうとしたがあてがはずれたのを覚えている。室井は真剣に俺の話に耳を傾けていて、一向に俺から離れようとしなかった。嗅ぎ慣れた彼女の香水、ラストノートのムスクが俺のシャツに移りそうな距離で。
「さあっと二本の爪が降りてきて、俺はひいっと頭を抱えてうずくまる。だがそいつは容赦しない。そいつの爪は俺のシャツの襟を刺して一気にすくい上げてしまう。俺はあっという間に空中に持ち上げられてしまう。そして不安定な体勢で真下を見る。鍋の中の奴らがみんな一様に安堵した顔でいるのを見る。さっきまできーきー騒いでいたくせにぺちゃくちゃと楽しげに会話を始める奴らを見る。そして俺は連れていかれる。さらなる上空へ、さらなる深い闇の中へと。何も見えなくなっていく。浮遊感だけを感じながら。これからどうなるんだろうってすごく恐ろしくて……そして目が覚める」
この悪夢を誰かに語るのは初めてだった。話しただけで俺の腕には鳥肌がたった。夏でなくてよかったと安堵したことも覚えている。長袖のシャツの下、醜いほどの鳥肌を見られなくてすんでよかったと。
「で、さっきの質問。なんで俺が頑張るのかっていう理由は実はこれなんだ。鍋の中、似たような奴らといたらいつ誰に狙われるか分からないだろう。たとえ狙われても闘えるように、いやそれ以前に狙うべき弱者だと思われない人間になるために俺は神経をすり減らしてきた。会社はその最たる闘技場だと思っている」
「その夢を見るようになったのって入社してから?」
「……いいや?」
「ふうん」
室井は納得していないような顔をしていた。いや、納得などしていなかったはずだ。でなければ、この後、室井が俺にあんな話をするはずはなかった。
「私は鍋の中にはいない」
「だろうな。室井はうちの課唯一の女で、誰もが期待している」
「私はパセリみたいなものだから」
「どういうことだ?」
「あれば彩りがついて映える。けれどなくてもどうとでもなる」
「え。俺、パセリがあったら一番に食べるけどな。目がよくなるっていうし」
もう一度笑いをとろうとして、また惨敗。
この時に気づくべきだった。普段とは違う室井の様子に――。
「あなたはなくてはならない食べ物。私はあってもなくてもいい飾り。そこには何光年もの距離がある」
「お前、宇宙に興味あるの」
「ねえ。私とあなたの違いって何?」
「俺と室井の?」
そこで俺はようやく室井にきちんと向き合うことができた。室井がその身をややそらした。俺との距離が近いことに気づいたわけではなく、俺に検分されるために敢えて距離をとった、そんな気がした。だから俺はあらためて彼女をくまなく眺めた。
「髪の長さ。化粧の有無。胸の大きさ。って、いてえ」
スツールに乗せていた足、脛をしたたかに蹴られた。
「お前のパンプスは凶器になるが俺のシューズは違う。ああ、冗談だ。だけど俺とお前って似たようなものじゃないか。同期で今は同じ課で、院卒、肩書は主任。お互い結婚していて子どもがいないのも同じだな」
俺はお前をまだ好きだけど、お前は俺のことなんてなんとも思っていない。それが一番の相違点だと思ったが言わなかった。
「ああそうだ。お前は女で俺は男か。だけど働くという一点においては俺とお前に違いはない」
「そう見えるのね」
「もしかして何か悩んでいる?」
ここまできてようやく俺は室井の異変に気づいた。だが室井はただ首を横に振っただけだった。グラスをあげ、赤褐色の液体を流し込んでいく室井の横顔を、俺は酔いが回りはじめた頭でぼんやりと眺めていたことを覚えている。
すべてを飲み干し、泡のついたグラスを机に置くと、室井は俺に言った。
「この世界は狂っているわ」
それは普段明るくポジティブな室井には似つかわしくない発言で、俺はすぐに理解できなかった。だが室井は俺を置いて一人で語りだした。
「この世界はおかしい。ずっとずっと思ってた。一つのことに浸れる奴らがのさばって、複数のことに関わらざるをえない人間が虐げられる世界なんて」
「……室井?」
「私、ずっとずっと頑張ってきた。勉強もそうだし、就職してからも。だけど気づいたの。いくら頑張っても奴らは私のような人間を認めようとはしない」
何か憎い存在が実体化して目の前にあるかのような、鋭い目つき。俺は気おされ、ただ室井の突然の変化を見守るしかなかった。
「鍋の中でどうあがこうと無意味なのよ。この世界は奴らのための世界なのだから。奴らのルール下で戦ったって勝てるわけがないのよ」
「奴らって誰のことだ」
かすれた声で訊ねると、室井が「決まってるわ」と言った。
「爪の長い巨人よ」
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