二話担当:ポポネ
憂鬱。温蝶子はただ実に憂鬱であった。
委員会活動一日目より二日。フリルとリボンで着飾ったランドセルを背負い、通学路を歩む。通り道に過ぎ行く鮮やかな色は、誰一人落ち込んだ様子の彼女に声を掛けない。けらけらと上がる笑い声は、ただ他のものだ。いや、ひそひそと何か呟かれたかもしれない。彼女は人一倍目立つから。
でも彼女は少し晴れやかな気持であった。この数年、遠くから見られていた蝶子に友達ができたのだ。初めてであった。会話ができる。話を聞いて、ただ蝶子を蝶子だと認めてくれる存在。対面してから数日とは言え、友達になるという言葉は覆らない。それこそ鼻歌でも歌ってしまいそうだった。
校門へと一歩ずつ近づく。校舎が間近に見え、小屋が見えるたび蝶子思うのだ。
私はきちんとスライム―くぁせふじこの面倒をみきれるのかと。
ひたすらに考えた。家で幾度となくイメージトレーニングをした。何度も、何度も、繰り返し触ろうと試みた。けれども、どうにもあのぐにゃりとした感覚を思い出すと、背筋に嫌な寒気が走るのだ。
今日も蝶子は委員会活動を全うしなけらばならない。友達に会える嬉しさと、スライムの面倒をみなけらばならない憂いで気が狂いそうだった。
どうか放課後にならないで。いっそ台風でも来て学校が休みになればいいのに。往生際が悪いと自覚しながら、そんな事を願った。
蝶子には平美に相談するなどという発想はないのだ。
「冷ってあの委員会に立候補したらしいぜ!」
「まじかよ。気持ちわりぃ。」
ふひゃひゃひゃと窓の外、廊下を走り去る男子が品のない笑いを轟かせる。嫌な笑いだ。蝶子は不快感が込み上げ、机を蹴った。ごんと音が鳴り、机の上の消しゴムが落ちた。お気に入りだったのに少し汚れてしまって残念だ。
スライム育成委員会はここ数日、どの生徒からも注目の的だ。常日ごろ腫れ物扱いをされている蝶子でさえ、クラスメイトから浴びるように質問を受けた。曰く、一体どういった生物なのか。何をするのか。事細かに委員会活動の詳細を聞かれた。
どうやら六年生も同様だったらしく、風の噂で流れてきた。結局六年生に会ったことは無い。たとえ、最初の周回で六年生がいたとしても、蝶子は関わる勇気も技術もなかったが。
さて、委員会で最も悪い意味で有名になったのは冷平美だ。彼女は独特の雰囲気を纏っているためか、とんと仲間内の話を聞かない。友達を作ろうと思わないタイプなのかもしれない。もしかすると昨日の事は迷惑だっただろうか。いつか、彼女もと思うだけで身震いする。
「いいえ、いいえ。そんなことはありませんわ。」
勢いよくぶんぶんと頭を振る。傍から見れば変だったかもしれない、と蝶子はあたりを見回す。特に誰もこちらを向いていなかった。もとよりふりふりのロリータファッションは個性的である故、気にするものはあまりいない。言うなれば、あいつまたやってるよ、だろうか。
時がたち、頭に考えが巡るほど不安が募っていく。早く平美に会いたいと、先ほどまでとは打って変わって、早く終わることを願った。
チャイムが鳴る。少し日が傾いたようで、窓から差し込む光が眩しい。待望の授業が終わったらしかった。
蝶子はこれからスライムの面倒をみなければならない。面倒をみろと言われたとて、食料―砂を与えること以外に思いつかない。一体何をしろというのか。蝶子はただ平美会いたいだけなのに、と拾ってきた先生を恨んだ。
蝶子は覚悟を決めて、トボトボと廊下を歩く。流石に閑散としていて、生徒は皆帰ってしまったのだろうか。どうせ誰にも見られていないのなら、ゆっくり歩いたっていいじゃないか。
どうにも廊下が長く感じる。ここまで小学校とは大きなものだったか。空間自体が歪んでしまったかのように思える。
永遠とも思えた廊下を抜け、飼育小屋へと向かう。そこに人気はあまりなく、もしかしたら平美はまだ来ていないかもしれない。そう蝶子は不信感を募らせる。いや、確かにこの時間なら必ずいるはずだ。そもそもあのスライムに一番に愛着を持っているのは彼女に他ならない。ならば、この委員会で最後に残るのは彼女であろう。蝶子は歪んだ眼鏡を掛けるように、見えるもの全てが悲観的にみているのだ。
飼育小屋につくと、そこに平美の姿はなかった。辺りには人っ子一人おらず、ナメクジのような姿で砂の上を這っている姿だけが唯一動いている。スライムに敷かれている砂は巻き込まれているのか、少しばかり盛り上がっている部分がある。ゆっくりと全身を動かす様に、忘れていた寒気が背筋を這う。
意を決して小屋の中に入る。ぶわりと砂ぼこりが舞い、思わず蝶子はこほこほと咳を零す。常に砂の絨毯が敷き詰められたここでは、空気がぱさりと乾いていた。水は変えられておらず、今の今までここには誰も来なかった事を示す。やっぱり平美は蝶子に呆れ、仕事を放棄してしまったのだろうか。それとも、スライムのことを第一にせず、邪な動機で来たのが悪かっただろうか。もやもやは晴れず、曇っていく一方だ。雨一歩手前、湿った土のにおいが漂うような気分だ。
実を言えば、平美はただ来るのが遅れているだけだ。彼女のクラスで一つばかり問題が起き、解決に暫くの時間を要している。蝶子に他の友達―と言わずとも世間話をできる知り合いがいれば、情報が流れてきたはずだ。噂になっていたから。
ふと、思考から蝶子が戻り、視界が鮮明に現れると足元にスライムが見える。かといって蝶子の足に登ろうとしている訳ではないらしい。ほっと張り詰めた息を解いた。じっと、無い目で蝶子を見上げている。いや、無いのだから見ているか判断できないけれど。それでも、労わるような、心配しているようなスライムに愛嬌を覚えたのは間違いなかった。
「先に水を変えてしまいますわ。」
現状でできる世話は簡単だ。前日の水を捨て、新たに水道水を汲んで入れる。少なくなっていれば砂を足す。そして監視。こんなもの委員会がやる仕事だろうか。もっとやりがいのある仕事が良かった。ぶつぶつと文句をスライムに言ってみるが、何も反応は返してくれなかった。
こんなところで蹲っていても仕事は進まない。地に引かれる思いをよそに、水道へと向かう。
しっかりと鍵は閉めた。
たっぷりと水の入ったバケツは存外に重い。高学年になったとはいえ、ポリバケツ一杯の水を零さずに運ぶのは腕に限界がある。ゆっくり、ゆっくり、ずっしりとしたバケツを運ぶ。まだそこまでとはいえ、体から汗が噴き出す。腕が軋む。手に汗が滲む。手が汗と重さで力が抜けそうだ。
思わず、ぐいっと引き上げると、水面が大きく揺らぐ。ばしゃりと音を立てて、一部の水が地面に放られる。じわりと地面にシミが広がり、ぬかるむ。避けて通らねばならない。全く面倒臭い。空虚な無力感に苛まれる。さっさと変えなければ。
必死の思いで水を運んでこれば、檻の前、閉まった扉の前に平美が座っていた。蝶子に気付くことなく、スライムを見続けている。熱心に、黒い眼を輝かせて、凝視している。床は土だが、構うことなく三角に座っている。彼女は絶えることなく、スライムへの愛情を伝えてる、かのように見える。
ああ、やっぱり彼女は来てくれた。何も反故にすることなく、きちんと。一転、陽が差した。
「平美ちゃん、いつきたの?」
「さっき。やっと解放されたの。」
「そう。お疲れ様なのね。」
労わりの声を掛けた後、バケツを地面に置く。ポケットに仕舞った鍵をいそいそと取り出し、鍵を開ける。ガチャリと大袈裟な音と共に扉が開く。平美はそそくさと小屋へ入り、スライムへ駆け寄る。心待ちにしていたのだろう。スライムも期待に応えるよう、緩慢ではあるが、しかしながら素早く砂を這い平美の元へ進む。人間の区別がついているのかもしれない。
平美は膝を抱えてしゃがみ、ぐにゃぐにゃとスライムを揉んだ。潰されたり伸ばされたりするスライムは、痛みを訴える訳でもなく、ただ享受している。蝶子はその様を見て、感覚がぶり返し膝が笑う。情けないばかりだ。平美がこちらを見ていないのが幸いか。
震える足をよそに、バケツを持ち上げる。ぐらりぐらりと体が揺れる。零れそうになる水をどうにか納め、水を交換する。一人でやるのなら、なかなかにハードだ。
しかし、それが終わってしまえばすることは無い。時間内はスライムを見続けるだけだ。
平美と会えるのはとても嬉しい。なにせ唯一の友人、たった一人の共有者だ。今はスライムに盗られているけれど。
「全く。先生も何を考えていらっしゃるの。」
「蝶子ちゃん、今の活動は不満?くぁせふじこがやっぱり駄目なの?」
「いいえ、そういう訳ではないわ。言われたのは世話だけれど、これで本当にいいのかしらって。先生は何も言ってくださらなかったから。」
正確には、スライムが駄目なのは合っている。だからこそ悩んでもいるけれど、それを平美に言ったところで解決はしない。不快感を与えるだけだろう。それは困る。
「…今度、先生と六年生に聞かない?皆で一緒にしないとくぁせふじこが困るかもしれないし。」
「そうね。聞いてみましょう。」
大きく相槌を打って返す。取り合えずの方針が決まることは大変に喜ばしいことだ。半年とはいえ、どうせならば実績を残したいし、活躍したい。六年生と顧問に同時に合う。どこか意識の薄かった委員会としての側面を、酷く実感したような気がする。
スライム育成委員会の顧問は確か、平美のクラスの担任だったはずだ。若めの先生で、勢いのある様相にどこか苦手意識を覚えた記憶がある。蝶子は苦手だが、他の生徒にはとても人気があり、一時期大当たりとまで言われていた気がする。一回も担任を持ってもらったことがないので、関係はないが。
鐘が鳴る。これで委員会活動は今日は終了だ。後半はほとんど平美と世間話をしていた気がする。
どうも感性についていけず、彼女の『かわいい』に置いてけぼりにされた事は多々あった。蜘蛛がかわいい、どの蜘蛛がいいと語られた時には心底何を言っているのか分からず、頭が壊れるかと思った。想像してしまい、今日明日は蜘蛛を見たくはない。
今度は委員会揃って相見えるだろうか。友達が、今までの自分が、変わっていけるのだろか。胸に期待を膨らませ、平美に手を振った。