ある日森の中
夜の闇が支配する森。一部には街道らしきものが見受けられるが、宵闇のベールに包まれその全貌は見えない。唯一その街道を照らし出すのは夜空に浮かぶ月からの光だけだった。
「うぅ、ここは? あ! 身体がある!」
「っつぅ、あのクソジジイめ……こんなとこに放り出すなんて、傷だらけじゃないのよ」
そんな木を伐採して土を慣らしただけのごつごつとした街道に、二つの人影があった。慎とディアーナである。慎はあたりをきょろきょろと見回したり、自分の身体をぺたぺたと触ったりする。中肉中背、特に見た目がよいわけではないが、それでもやはり自分の体が在ると言うのはよいものだと実感した慎であった。そんな自身の境遇に思い入っている慎を他所に、ディアーナは夜空を見上げる。
「ちょうど夜ね! いくらなんでも権能をもってくなんてそんなことあるわけないわよね。 月よ! 我に応えよ! 我に癒しを!」
ディアーナは両手を天高く突き出し、高らかに詠唱する。本来ならばかすり傷程度ならば瞬く間に癒されるはずなのだが、待てど暮らせど一向に権能が発動されることはなかった。
「え? ちょ?! 嘘!? ホントに私の権能無くなってんの!? 我に癒しを! 我に癒しをぉぉぉぉ!」
ディアーナは何度も何度も叫ぶ。人通りの無い街道で夜空に手を広げ大声で叫ぶ様は、非常に危なっかしい光景だった。ディアーナの叫びは夜の森に吸い込まれるだけで、何かが起きることは無かった。
ディアーナは腕をだらりと下ろし、膝から崩れ落ちる。顔からは生気が抜け、目も虚ろだ。そんな様子を見ていた慎は、彼女があまりにも不憫で堪らず声を掛ける。
「あの……ディアーナ様?」
「は、ははは……私、の権能……神としての力、が……」
どうやら慎の言葉は耳に届いていないようだ。神がとか権能がとか神なのにとかぶつぶつとしきりに呟いている。そんなとき、慎とディアーナの傍の茂みがガサガサと揺れ、木々の枝が折れる音がする。
「なんだ? 動物か?」
慎はディアーナを背に庇いながら、警戒して音のした方に視線を送る。ディアーナも音に気づき、ふんと鼻をならし得意げに口を開く。
「動物なんて、この月と狩猟の女神ディアーナ様の敵じゃないわよ!」
「今、権能使えないですよね?」
「うぐっ!」
ディアーナは権能を使えないことを突かれ、口ごもる。二人がそんなくだらないやり取りをしているうちに音はどんどん大きくなり、遂に二人の目の前に音の発生源が現れる。
「ホーーーーーーーー!」
現れたのは熊の身体にミミズクの頭を持つ生き物だった。身体の大きさは優に三メートルを超え、丸太のように太い両手には鋭い爪がギラリと光っている。そして、ミミズク・熊は言わずもがなともに肉食である。つまり、この怪物も肉食である可能性が非常に高い。
「は? いやいやいや! な、なによこいつ!?」
ディアーナはぺたんと尻餅をつき、目の前に現れた怪物を間抜けな顔で見上げている。そんなディアーナを獲物だと判断したのか、怪物はぎらぎらした目でディアーナを見据え、ゆっくりと迫ってきた。
「何してるんですか! ディアーナ様! 逃げますよ!」
「あははは、それが、腰が抜けちゃって……」
「はいぃぃ!? 世話の焼ける女神様ですね!」
迫り来る怪物の迫力にずりずりと後ずさることしか出来ないディアーナ。見かねた慎は素早くディアーナを肩に担ぎ上げると、一目散に走り出す。
「ホーーホーーーホーーーー!」
目の前でディアーナを連れ去られ、慎に獲物を横取りされたと思ったらしく、怪物は大きな鳴き声をあげ大地を揺らしながら慎達を追いかけ始めた。
「いーーーやーーーー! なんなのよあの生き物! あんなのいるなんて聞いてないわよ!?」
「そんなのこっちが聞きたいですよ! ていうかあなたこういう世界に人間送ってたんじゃないんですか!? 何で知らないんですか!? あぁもう、そんなに暴れないでくださいよ!」
ディアーナは慎の腕の中でぎゃあぎゃあと喚き、暴れる。人一人を抱えて走る慎からしたら堪ったものではない。舗装のされていない道は慎の脚に思った以上の負担をかける。そうこうしているうちに怪物はどんどん間を詰めてくる。
「くそっ! このままじゃ追いつかれる! ……一旦降ろしますよ、ディアーナ様!」
「は? え? ちょ、ちょっと!」
慎はディアーナの問いに答えず、おもむろに脚をとめるとその場にディアーナを降ろす。ディアーナは道に降り立つと、慎を見上げておろおろとする。思ったより小さくて見上げるしぐさが意外と可愛いな、などと不謹慎にも考えてしまう慎。こんな状況でなければこの美しい女神と共にいることを喜べただろうに、運命の悪戯は残酷なものである。
「ディアーナ様はこのまま逃げてください! 俺があの怪物をひきつけます」
「な、何言ってんのよ!? あんたに何が出来んのよ!?」
「何も出来ません! でもあなたが逃げる時間を稼ぐくらいは出来るかもしれない!」
「ば、馬鹿なの?! ああもう権能さえあれば……」
「早く!」
重低音を響かせながら怪物がいよいよ迫ってくる。慎はディアーナを背に庇い、切羽詰ったように叫ぶ。ディアーナは拳を固く握り、唇を噛み締める。本来護るべき人間に護られ、挙句この場で言うままに逃げれば慎の命はないだろう。それは女神として認めるわけにはいかない在り方だった。
「あーーもーー! 私だって女神なのよ! 人間見捨てるわけにいかないでしょうがぁ!」
そう叫ぶと、慎の隣に並び仁王立ちで怪物を待ち構える。
「ちょっ! 馬鹿ですかあんたは!? 逃げろって言ってるでしょうに!」
ディアーナの振る舞いに度肝を抜かれる慎。自身が囮となって彼女を逃がすつもりだったのにそれが無駄になってしまう。そう思うとつい口調が荒々しくなってしまった。
「は? あんた今馬鹿って言った!? 女神に対していい度胸じゃないのよ?」
「んなこと言ってる場合じゃないだろ!」
「しかもタメ口なんて! 喧嘩売ってんの!」
「うるせぇ! 馬鹿女神!」
「また馬鹿って言った! 馬鹿って言ったほうが馬鹿なのよ!」
「小学生かあんたは!」
二人が足を止め言い争っている場に、一つの大きな影が落ちる。
「「あ」」
二人は間抜けな顔で冷や汗を浮かべながら影の先を見上げる。そこにはミミズク頭の熊の怪物が立っていた。慎とディアーナは喧嘩に夢中になり逃げる機会を完全に逸してしまっていた。
「これは……もう駄目じゃね?」
「えーと、あははは」
二人は恐怖からか、いつのまにかひしと抱き合いながら怪物を見上げていた。そして怪物の咆哮が森に響き渡ったそのとき、二人の耳に別の人間の声が飛び込んできた。
「君達! 伏せて目を塞ぐんだ!」
「え?」
「はい?」
慎は咄嗟に聞こえてきた声の指示に従い、道に伏せ目を両腕で塞ぐ。だがディアーナは反応できずぼけっと口を空けて声のした方を見つめていた。
そこには見知らぬ中年の男が立っており、何かを投げた動作を取った後であった。そして次の瞬間、夜の闇に包まれていた森の一部に目映い閃光が走った。




