花雪さんのためじゃない
掌編小説です。一話完結です。
「名前を教えて」
そう、名前も知らないひとはいう。
季節は冬、凍てつく寒さに道を歩いているときだった。
本来なら、さっさとこの場を離れるところだったけど。
ぼくは偶然にも彼女の名前を思い出していた。
「タツオです。花雪さんですよね?」
「ううん。それはわたしの名前じゃないの」
首を横にふり、彼女は目をふせる。
欠片ほどの白雪が街路樹の上に乗る。
「帰らないといけないんで。じゃ」
「待って!」
無理やり逃げようとした僕の肩が引っ張られる。僕が振り向くと、彼女はハッとした。
彼女はどうにも説明し難い表情へと変わる。
「伝えたいことがあるの。ちょっとだけ時間をください」
つかえつかえ話す様は、やはり昔の花雪さんにそっくりだった。
花雪さんはその名の通り、「花」と「雪」から生まれたひと。
人間に近い性質を持っているものの、決して人間ではない。
そのことで花雪さんは苦悩していた。
中学卒業以来、2度と会うことはないと思っていたけど。
たった1年過ぎただけで、再会することになるとは。僕はいう。
「10分なら」
「1時間、いいえ、2時間ください。そうじゃないと、ダメなんです」
花雪さんは真剣なまなざしでいう。
僕じゃ力になれないことくらい覚えているだろうに、食い下がった。
花雪さんを救えなかったのに、どうしてそこまで僕を頼るのだろう。
ひどく僕の劣等感を刺激した。
「2時間だけわたしの夢を見てると思ってください。何の変哲もない赤の他人の夢を」
いうと、花雪さんは僕の手を取った。
僕はとっさにその手を振りほどいてしまう。
「知らないひとの夢なんて見たくないよ。僕は好きなひとの夢を見ていたい」
「タツオ君が好きなひとって、一体だれですか?」
花雪さんは凍える声音だった。
「いつまでも苦しんで、人間になりたいと叫んでるだれかです」
これで僕の前から消えてくれれば良かった。
「あははっ、そうですね。そのだれかはきっとわたしじゃない。だから、わたしの友達の話を聞いてください」
なにが「だから」だ。なにが「わたしの友達」だ。
嘘で自分を守って、あまつさえ他人をも守ろうとする。
その姿勢が気に食わなかった。
だから、僕が彼女に手を差し伸べるのは詭弁だ。
花雪さんのためじゃない。