ゾンビの女
つい先ほどから妙な女につけられている。
初めのうちは、ただ女と行く向きが同じであるだけだ、と思っていた。だが、それから十分間も、ずっと僕の後ろには女がいるのだ。こうなると、女が僕をつけているのは間違いない。不気味だったが、僕は決心して振り返る。
「あなた、誰ですか。どうして、僕をつけているんですか」
それまで静かだった住宅街の路地に、僕の少しどもった声が響いた。
振り返って初めて、ちゃんと女の姿を見た。夕焼けに赤く染められて、女は立っていた。凛々しい眉が目を引いた。その下の大きな瞳は蛍光色のような薄い青色だった。黒く長く艶やかな髪と、純白のワンピースの裾を風になびかせているその姿を見て、僕はただ綺麗だと思った。
こちらを射抜くように見つめていた彼女の唇が、動いた。
「私ってゾンビなの」
目の前の女が言った。
「え、」
意味不明な告白に、思わず間抜けな声が漏れてしまった。その声を、遮るように女が続ける。
「私、あなたが気に入ってしまったわ」
気に入ったとは、食料的な意味だろうか。
「だから、」
女はさらに言葉を続ける。
「私、あなたを食べてしまう。それくらい、あなたが好きなのだもの」
彼女の言うことが本当なら、僕は命の危機に立たされている。でも、彼女になら食べられてもいいかな、なんて思っていたりする。それに好きだなんて言われたら、弱ってしまう。
僕が立ち尽くす間に、彼女はスー、と歩み寄ってくる。その小さな手が肩に触れる。左から僕の背後に回り込んで、首の周りに腕を絡ませた。今、僕は背後から彼女に抱かれている。背中に彼女を感じるのはとても心地よかった。彼女に触れている部分からひんやりと石のような冷たさと、瑞々しい柔らかさが伝わってくる。それは彼女の言うことが真実であると、僕に教えていた。
背後の彼女が耳元で囁く。
「ねぇ、食べてしまうわ。いい? 」
「どうして、好きであると僕を食べるのですか」
余計なことを聞くのは気が引けたが、どうしても気になったことをうっかり訪ねてしまった。
「あら、知らない? ゾンビに食べられるとゾンビになるのよ」
「僕をゾンビにしたいと」
「好きな人とずっと一緒に居られるのだもの、素敵でしょ」
彼女は臆面もなく言った。
好きな人というのは今までいたことがないが、その提案は確かに素敵であった。彼女と一緒に居られるのなら残りの人生を投げ出すというのも構わないかもしれない。きっとそうだ。そうにちがいない。
「ねぇ、いい?」
彼女はもう一度、僕に尋ねた。僕は一つ頷いた。
彼女が笑った気がした。背後にいる彼女の顔は見えないが笑ってくれたのならそれは嬉しいことだ。
首筋に歯が突き立てられる。痛みは熱となって脳に突き刺さる。反射的に体が逃げ出そうとするのを押し込めて、動かないように己を律する。暴れて彼女に怪我などさせたら大変だ。ぽたりと、黒い地面に赤い液体が滴った。一滴落ちたかと思うと次々に流れ落ちる。あっという間に僕の足元には、真っ赤な染みができていく。今まで僕の中にはこれだけの血が流れていたのかと少し驚く。驚く間にも染みはどんどん広がっていく。
徐々に意識が遠くなる。血だまりの広がりにあわせて、僕の意識が薄まっていくようだった。膝から力が抜けてしまって、もう立っていることもままならない。崩れてしまう僕を彼女が支えてくれた。幸せだ。
これで僕は彼女と一緒になれる。次に目覚めるときはゾンビになっているのだろうか。いよいよ目の前が暗くなり、ついにはもう何も見えなくなった。