六花の妖精
それは新学期を目前にした、ある日のことだった。
家事を終え、自宅一階の和室で予習をしていると――。
「お? 誰だ?」
呼び鈴が鳴った。
未祐がいれば誰よりも率先して対応してくれるが、生憎と不在だ。
そもそもあいつ、居ついているけど本来はウチの子じゃないし。
理世は……。
「誰ですか? 私たちの時間を邪魔する不届き者は」
理世は俺の膝の上にいる。
少し前から飽きもせずに、ずっとこのままの体勢だ。
時折、頬を擦りつける仕草は猫のようである。
しかし、理世には来客に応対する気も、膝の上から降りる気もなさそうだ。
「よいしょ」
「ああっ!」
コンパクトさと体重の軽さから、理世を移動させるのは簡単だ。
といっても、本人がそうされてもいいような姿勢にそれとなく変えていたせいもあるが。
邪魔をするつもりはなく、単にスキンシップを取りたいだけなのだろう。
こたつを出るのは名残惜しいが、お客さんを待たせる訳にはいかない。
「はい。どなた――」
出ると同時に「どなたですか」と問うのは、もはや形骸化された文化である。
モニターで玄関前の様子は見えるので、知人・友人の姿があれば誰何の声は必要ない。
相手が業者やセールス、知らない人であれば今でも使う言葉ではあるが、少なくとも知っている人が映っているなら省略しても問題ない言葉だ。
これは電話の応答も近いものがあり、なにが言いたいかというと、ええと。
「フィリア、ちゃん?」
「えっ?」
言葉が途切れたのは、モニターに映る姿が意外かつ見知った人物だったからで。
俺の呆然とした呟きを聞きつけて、理世もモニターを覗きこみにやってくる。
「本当にフィリアさんですね……」
モニターの下のほう、かろうじて頭の上のほうが見える。
髪の色、目の色、髪型も違っているが、このジトッとした目付きで直感的にそうだとわかる。
冬の妖精が見せている幻覚……では、なさそうだ。
むしろこの子自身が妖精さんっぽい見た目をしている……のは、置いておいて。
こちらの困惑をよそに、フィリアちゃんと思しき少女は白い息を小さく吐いた。
「あー、ま、まずはー……自己紹介しよっか……?」
寒いので家に上げ、和室へと通し、茶を淹れて座るまでに五分程度。
暖房が効いて温まっている部屋で、沈黙に耐えかねた俺は自分からそう切り出した。
なぜか、来訪の目的を話そうとしないんだよな……どういうことだよ。
理世、俺の順番で、現実での名前を名乗って聞かせる。
「リィズが、理世」
「はい」
「……ハインドが、亘」
「そうそう」
「覚えた」
愛想は悪いが、愛嬌はある。
表情はあまり動かないが、仕草は割と雄弁。
口数自体は少ないが、決して無口ではない。
うーん、ゲームの中の印象と同じだ。フィリアちゃんだ。
ただ、いつまでもフィリアちゃんと呼ぶのは都合が悪い。
そろそろ――。
「私の名前、ひより。本庄ひより」
「ひよりちゃん。表記は、ひらがな?」
「ひらがな」
「いいね。読みやすいし、可愛らしい」
「……兄さん?」
ようやく明かされた名前に頷いていると、冷たい視線が飛んでくる。
もしかしてだが、今の発言は気持ち悪かっただろうか?
「い、いや、違うって! ちょっと、クラスの難読ネームな友だちのことを思い出していただけで!」
「ああ……大変そうですよね、ああいうの。私も“りよちゃん”とか呼ばれたりしますが」
「……?」
あ、ひよりちゃんに不思議そうな顔をされた。
そうだよな、年々増えているものな……俺たちのクラスでも、比率としては――って、もうその方面の話題はいいか。
半端な知識と見識で語ると、火傷しそうな気がする。
「あー、あと、あれだ。今のところ、ゲームと現実でイメージが違う子に会っていないなと」
「それは生体データを反映する都合上、自然とそうなるでしょうね。昔の、自由に――アバターエディット、というのでしたか? 望む姿を作製できた時代のほうが、ギャップがあったのでは?」
さすが理世。
学業だけでなくゲームに関してまで、よく勉強している。
「言えてる。あの時代のネットゲームなら、性別を偽るのも簡単だっただろうからな」
「……亘、ネカマしたかった?」
「なんで!? そんなこと言っていないよね!?」
意外にも、昔のネットゲームの話題にしっかりついてくるひよりちゃん。
昔といっても、そんなに前のことではないが。
「兄さん……女装に興味があるのなら、私に言ってくれれば……」
「ねえよ! 話を広げるな!」
「どんな兄さんでも、私は受け入れますから」
「変なところで度量の大きさを示すな! もういいだろ!」
全然嬉しくない方向ばかり深掘りされていく。
俺は軽く咳払いし、ひよりちゃんに向き直った。
「と、ところで、ひよりちゃん。今日はどうしてウチに? 住所は……互いに、大雑把に教え合ったことがあったと思うけど。よく一人で家まで来られたね?」
「? 遊びに行くって、前に言ったよ……?」
「え?」
約束したよ? と、じっと見てくるひよりちゃん。
なんだろう、ここで「思い出せない」と答えたら、無言で悲しい空気を出されそう。
必死に記憶を探ると………………一瞬、脳裏に引っかかるものが。
「ああー、あれか!? あれのことなのか!?」
「多分それ」
「それか!」
「兄さん? かなり間の抜けた会話になっていますよ?」
理世にそんなことを言われたが、それどころではない。
感触が消えないうちに、つかんだ記憶の糸を急いで手繰る。
あれは野良パーティで、偶然会った時の別れ際。
確か、フィリアちゃんは妙に改まった様子で、こう俺に訊いたのだ。
――今度、遊びに行ってもいい? と。
「てっきり、ゲーム内の話だと思っていたよ! 現実ね!」
「そう」
「ギルドホームじゃなくて、リアルなホームね!」
「うん……あの」
言葉が足りなくて、ごめんなさい。
そう言って小さくなるひよりちゃんの姿に、俺も理世もそれ以上なにも言えない。
「……なあ、理世」
「なんでしょう?」
「ひよりちゃんは謝ってくれたけど。そもそもこの状況、おかしくないか?」
だから俺と理世は、矛先を変えた。
そもそも、最初からおかしいと思っていたのだ。
「フィリ……ひよりちゃんのお父さんは、筋肉量以外は常識的な人だ」
「そうですね。名付けチェックもクリアしましたし」
最初の印象こそ「変わった人」だったが。
急に現実での身分を明かしてくるし、そもそもすごい勢いだったし。
あれは、それだけセレーネさんの大剣が素晴らしかったからだ。
どうしても欲しかったのだろう。
その後の付き合いでは大人らしい落ち着きで接してくれたし、なによりも秀平に与えた影響が大きい。
秀平がまともに勉強するようになったのは、すべてあの人のおかげと言ってもいい。
「常識人で……しかも、娘を溺愛している」
「ええ。なんの連絡もなしに、溺愛している娘を他人の家に寄越すはずがありませんね」
仮にもここは、若い男がいる家である。
行き先が女の子の家ならまだわかる。
そう順序立てて考えていくと、俺たちの身近におかしな点がもう一つ。
それは――
「そして理由も告げずに、珍しく家に帰った未祐」
「……ひよりさんと現実でも交流があったのは、確か中学生の子たちでしたね。そして、その子たちが私たちの中で、最も気軽に連絡を取る相手は未祐さんです」
――それは、未祐の不在だ。
もうすぐ正午を回るというのに、昼食を食べにこない。
この時点で、はっきり言って異常事態だ。
「……」
「……」
視線を交わした俺と理世は、同時に立ち上がる。
それから窓のほうに向かうと、閉まっていた障子戸を同時に開いた。
「「ほあっ!?」」
ぱぁん! という木がぶつかる渇いた音と振動で、窓の外にいた未祐と……小春ちゃんが、驚いて跳びあがる。
この寒い中、人の家の庭でなにをやっているんだ。
このままだと声が届かないので、窓を半分ほど開ける。
「ああ、やっぱりバレた……すみません、すみません!」
「大体、十分くらいかー。まー、この兄妹相手なら、もったほうでしょー」
申し訳なさそうな椿ちゃん、他より重装備の愛衣ちゃんも二人の後ろに立っていた。
窓を開けたせいで、冷たい外気が部屋の中に流れ込んでくる。
暗い空を見上げると、白いものが視界に……まだ本降りではないが、雪がちらついていた。
うぅむ、寒いはずだ。
「……言いたいことは色々あるけど。ひとまず全員、ウチに上がって」