温泉モニター その2
「おっほぁ……」
「うおお……」
いくら高級ホテルの温泉といっても、広さや施設の数・種類には限界がある。
ジェットバス、岩盤浴、打たせ湯にサウナ。
湯船が大き過ぎると温度が下がるからか、どれだけ浴場が大きくても分割されるのが普通だ。湧き出す湯量と温度にもよるだろうけれど。
それならば、どこで差をつけるのかというと……。
「すげえオーシャンビュー……と、露天周りの庭」
やはり、立地を活かした景色の切り取りと思われる。
計算され尽くした角度、光の入り具合に建物の高さ、そして夜間にはライトアップされるだろう露天風呂周辺。
ここから見える海岸周辺に点在する建物も、もう少し時間が経てば、夜景の一部となって目を楽しませてくれることだろう。
「全体的な造りが洋風寄りなのが、日本の景色からは浮いているけど」
「金! 金! そして手間! もひとつ金! って感じの景色だねぇ」
「言い方……」
秀平の言葉は下品だが、端的ではある。
下品だが。
「しかし本当、手がかかっているよ。今日はちょっと雲が多いけど、夕陽もいい感じに綺麗だ」
チェックインしたのが15時頃だったので、今は鮮やかな夕陽が目を惹く。
冬の空気は澄んでいて、上空で輝き始めた星とのコントラストが美しい。
「……」
俺が外の景色から視線を外すと、秀平は大浴場内をうろうろと歩いていた。
主に洗い場の上、天井付近の壁を見ているようだが――。
「何、きょろきょろしてんだ? 秀平」
「いやー、こういう温泉イベントってさ? 壁越しに女子の会話が聞こえたりするもんじゃん。男子にとっては、嬉し恥ずかしな内容のやつが」
「は?」
壁越しに……?
確かに、男女の浴場が隣り合っている構造自体はよくあるものだと思うが。
声なんて聞こえないだろう? 普通は。
「でも、ここは駄目だねー。壁が完全に埋まっているもん。常識がなっていない!」
「……どこの世界の常識だ、それは?」
むしろ、声が聞こえてきたら苦情が入るのではないだろうか。
だが、秀平は持論を引っ込めない。
「古い銭湯で、シャンプーとか石鹸を上から投げ渡しているのとか……見たことない?」
「あ、ああ……創作の話でならあるけど……」
「でしょ!」
何やかんやあって、最終的に桶が飛んでくるのが定番といえば定番か。
しかしここは高級ホテル、下町の歴史ある銭湯ではない。
プライバシーが最優先だろうし、防音もよさそうなので、どんなに反響しても音が聞こえることはないだろう。
おかしな夢を見過ぎである。
「アホなことを言っていないで、体を洗いに行くぞ。いい加減に現実を見ろ」
「そもそも、ここ自体が現実感のない広さだけどね! 馬鹿っ広!」
「まぁ、そうだけどさ……」
一つ一つの湯船の大きさの限界については、先程も触れた通りだが……。
網羅できていない入浴法はないのでは? というほど、種類が多い。
予約が必要だが、頼めば砂風呂なんかもやってくれるそうだ。
「……とにかく、もう行こうぜ。後から来る司も、俺らが先にお湯に浸かっていたほうがやりやすいだろ。さすがに、体を洗うときに隠しながらはしんどいだろうし」
「お、気遣うねぇ」
「あいつは繊細だからな。お前も適当にせずに、もうちょっと気を遣えや」
「気を遣わないことも気遣いなんだぜ、わっち!」
「……一理あるのがむかつく」
「うへへ」
まあ、二人合わせればバランスが取れているから、いいか……。
遠慮がないというのも、確かに大事ではある。
「わっち、後でサウナで勝負しようぜ。司っちも入れて、三人で」
「ああ。一通り温泉を試した後でな」
これだけ種類が多いと、正直わくわくする。
一度の入浴では、全て制覇するのは難しいかもしれない。
俺たちは軽い足取りで、触り心地のいい石の床を歩いて洗い場へと向かった。
「おーい! 亘ー!」
「……」
女子風呂の声が、何だって?
……あんなことを秀平に言った直後だというのに、どうしてこうなった。
先に体を洗い終えた俺は、まず露天風呂に向かったのだが。
「わたるー! そこにいるのだろう!?」
「……」
露天風呂は名前の通り、さすがに屋外だ。
屋外であるということは、壁越しに声が届く。
まさか声が届かないほど天高く壁がそびえ立っている、ということもないのだし。
無論、不逞の輩が登ったりできないような造りにはなっているが。
取っかかりは一切ないし、声こそ届くものの……。
登るのが不可能なレベルの高さは、きちんと確保されている。露天風呂を仕切っている壁は、そんな感じのものだ。
「おーい! 返事をしろー!」
「……」
「わたる?」
「……」
「亘! わたるー!」
「……」
「……いるのは分かっているのだぞ?」
「!?」
段々と未祐の呼びかける声がホラー染みてきた。
このまま放っておいたらどうなるのか、という悪戯心が頭をもたげるが……。
「あー、はいはい。います、いますよ」
「いるならさっさと返事をせんか!」
「悪かったよ。しかし、どうして俺だってわかった……?」
単純な三択といえばそうだが、未祐の声には確信めいたものがあった。
ちなみに、俺は今しがた返事をするまで一言も発しなかった。
お湯に入れば「あー」とか「うー」だとか声が漏れたかもしれないが、あいにく呼びかけられたのは温泉に入る前だ。
「愚問だな! そんなもの、足音と息遣いで丸分かりだ!」
「いや、まさか……」
それで誰なのか当てるって、かなり感覚が鋭くないか?
仮に俺が先に露天風呂にいて、未祐の足音がした場合は……あれ?
「と思ったけど、俺もわかるわ。同居人……未祐と理世、それから母さんなら間違えない」
「わかるんですか!?」
「あ、その声は小春ちゃん。喋っていないけど、そこに理世もいるでしょう?」
「はい、兄さん」
「すごい!?」
「すごくないわよー。私も小春の足音だったら、ちゃんと聞き分けられるわよ」
「お母さんも!?」
理世に呼びかけてから気付いたが、これってあまりよろしくない行為では?
一応、見えないとはいえ恰好が恰好なわけだから。
デリカシーに欠ける。どうやら、小春ちゃんのお母さんもいるようだし。
「で、何だよ?」
ここは、さっさと用件を聞いてしまうに限る。
話がしたくて呼んだ、というわけでもあるまい。
「うむ! 実は、石鹸を忘れてしまってだな……」
「石鹸って……もしかして、洗顔用のか?」
「そうだ! 亘のことだ、ちゃんと持ってきているのだろう!? 貸してくれ!」
未祐が洗顔に使っている石鹸は、俺と同じものだ。
部屋に戻れば予備もあるが、多分もう頭を洗っちゃったんだろうなぁ……。
その上で、顔だけ洗わないのは気持ち悪かろう。
以前、理世の使っているチューブタイプのものは合わないと言っていた気もするし。
「でも、いいのか? 新品じゃなくて、もう俺が一回使ったやつだけど」
「――!?」
「構わん!」
「あっそ。じゃあ、投げるけど……」
理世が何か未祐に文句を言っているみたいだが、俺はさっさと話を終わらせるほうに気が行っている。
桶に入ったお風呂セットから、ご要望の石鹸を抜き取る。
「濡れているから、受け取るときは気を付けろよ」
「ああ!」
「滑らせて頭の上に落としたりするなよ。結構硬いんだから、コブになるぞ」
「わかっている!」
「無理そうなら、いっそ落としたっていいんだから――」
「気遣いはありがたいが、早く投げてくれ! タオルは巻いているが、いかんせん半裸だ! 寒い!」
「それは言わんでいい」
寒いのは俺も同じだ。
いい加減、手がかじかんできたので温泉が恋しい。
早いところ入って温まりたい。
煙を立てる澄んだ湯が、俺を呼んでいる。
「よし、じゃあ行くぞー。ほいっと」
「わー!? 蜂です、未祐先輩!」
「えっ?」
壁向こうに石鹸を投げると同時、未祐が気を逸らす気配。
冬に蜂とは珍しい……残念だが、露天風呂に虫は付きものである。
そこは高級だろうと、普通の宿だろうと変わらない。
「――あっちに行け! このっ!」
おお、未祐が蜂を追い払っているっぽい。
だが、石鹸のキャッチ音も落下音も聞こえなかったのはどういうわけだ?
「あ、離れていきました……ありがとうございます! 格好よかったです!」
「そうかそうか! ……む? おかしい。亘が投げてくれたはずの石鹸が消えたぞ!」
「み、未祐先輩……」
「小春? どうした?」
うん? どこに消えたんだ?
どうやら、小春ちゃんからは見える場所にあるようだけど。
「あ、あの、む……ねの、あ、あい……い、言えません!」
「どこだ!? どこにあるのだ!?」
「こ、これ以上は言えないんです! あぅぅ……」
「まあ……すごいわねぇ……」
「ちっ……」
「……」
何も聞こえない、何も聞いていない。
壁から離れ、俺は耳を塞ぎつつ、真っ直ぐに湯を目指す。
そのまま頭に浮かんだイメージを振り払わんと、温かなお湯へと顔の下半分まで浸かるのだった。