旅行に向けて 後編
――秀平の課題が終わった。
時刻は日が傾き始めたところなので、おやつにはちょうどいい。
使わせてもらっているのは、健治の部屋……ではなく。
多人数がいても窮屈さを感じない、広めの和室だ。
湯気を立てるお茶を一口飲むと、健治は最中を摘まんでこちらを向いた。
「ところで、どうして最中なんだ? 亘。正月に関係あったか?」
ちなみに秀平だが……。
俺よりも数倍厳しい、鬼教官健治の指導で燃え尽きてしまった。
厳しい分だけ、早く終わったという風情ではあるが。
菜緒ちゃんが机に突っ伏して動かない秀平をツンツンしている。
「あー……最中って、二つ皮があるだろう?」
「あるな。餡を挟んでくっつけるんだもんな」
「――模型の世界では、前後とか左右で真っ二つのパーツをモナカ割りって呼ぶよね!」
うわ、急に秀平が起き上がった……と思ったら、何やら口をもごもごと動かしている。
どうやら、菜緒ちゃんが秀平に最中を食べさせてくれたらしい。
優しい子だよ、菜緒ちゃんは。
「うん。で、最中は二つの物を重ね合わせていることから、末永いお付き合いを――的な意味があったはず……多分」
「……多分?」
「慶事に用いる菓子として、変じゃなかったのは確かなんだけどな。間違っていたらすまん。ということで、健治。今年もよろしく」
「あ、おお。そういや、新年の挨拶がまだだったな。今年もよろしくな、亘」
初対面の人への挨拶の際とか、そういうのにも使われる――はずだ。
最中という名前は、昔の歌人が詠んだ月の歌に因んでいる。
こっちの知識は正確……だといいなぁ。自信がない。
「ま、細かいことはともかくだ。美味いぞ、亘。わざわざすまん」
「うまいぞー!」
「ははは、ありがとう」
菜緒ちゃんが口の周りをべたべたにしながら、最中を手に万歳のポーズを取る。
最中の皮をめでたいに引っかけて、鯛にしようかとも考えたが……。
菜緒ちゃんに鯛焼きと誤認されそうだったので、最終的に無難な選択になった。
鯛はいないが、形は円形・四角・ひょうたん型と、ある程度は目で見て楽しめるようになっているはず。
「にしても珍しいね、わっち。そういう曖昧な答え」
珍しい……だろうか?
そんなことはないと思うが。
「お前は俺を買いかぶり過ぎだ。そもそも、頭が冬休みモードだからな。あんまり働かん。理世に訊けば一発だろうけど」
残念だが、俺は人間データベースにはなれそうもない。
直近で必要な知識は、過去に学んだことがあっても目を通し直す必要がある。
しかし、今回のような料理関係はなぁ……好きなジャンルのことなので、なるべくだったら忘れないようにしたいところ。
「理世ちゃんかぁ……元気にしているか?」
理世の名前が出たことで、健治がそんな質問を投げかけてくる。
健治とは、妹を持つ者同士で話が合うことが多い。
菜緒ちゃんとの接し方で相談を受けることもある。
もっとも、理世はやや特殊なようで「参考にならん……」と言われることも多いが。
――と、質問に答えないとな。
「元気だよ。今日も、部屋に籠って白い顔で勉強しているよ」
リビングに用意しておいた最中、気が付いてくれただろうか?
放っておくと休憩を取らないことがあるので、心配だ。
……時間的にちょうどいいので、メールを入れておいたほうがいいか。
「それは元気なのか……?」
「あいつの場合、青白い顔じゃなければ元気さ。寒さにも暑さにも弱いから、省エネモードなのは仕方ないんだ」
理世の健康のことを考えると、早く春になってくれたほうがいい。
故に健康促進のためにも、温泉旅行はありがたい限りだが……入浴前後は気を付けてやらないとな。
冷えて風邪でもひいたら大変だ。
「悪い、健治。ちょっとメールする」
「おお、了解。……秀平は、ここに来る前に亘の家に行ったんだよな?」
「あー、行ったし理世ちゃんにも会ったよ。今日も元気に毒舌が絶好調だったよ?」
「そ、それは本当に元気なのか……?」
健治が秀平と話し始めたのを確認してから、ポケットの中の端末を取り出す。
……ストップ、菜緒ちゃん。
これは玩具じゃないからね? 健治のところで待っていてくれるかな、うん。
「何? 健治。やけに訊きたがるけど、理世ちゃんのこと気になるの?」
「いや、そういうわけじゃない。抜群に可愛い子なのは間違いないが……ありゃあ、俺なんかの手に負えるような子じゃないだろう? 亘じゃないと無理だ」
「言えてる」
「未祐ちゃんもだけどな。亘じゃないと」
「言えてるー」
ええと……おやつ、を、リビングに、用意しておいたので、休憩するように。
体を、壊す、ようなことがあったら、泣くぞ……大袈裟なようだが、これくらい書かないと休まない可能性があるからな。うん。
根を、詰めすぎないように……と。送信。
――あ、そうだ。
「健治。そういや、温泉の件だけど」
実は、健治も温泉旅行に誘っている。
面子がTBのフレンドばかりなので、居心地が悪いのは承知で――である。
それだけ、健治は温泉というものに目がないからなのだが。
「あー、温泉な……」
しかし返ってきたのは、この渋い表情だ。
苦渋に満ちていると言い換えてもいい。
「行きたかったんだけどな。どうしても、親父とお袋が外せない用事があるらしくて」
「いつだ?」
「出発日と、二日目。だから、途中から合流ってのもな」
ちらりと健治が菜緒ちゃんを見やる。
ご両親がいないということは、必然的に健治が菜緒ちゃんの面倒を見なければならない。
どこかに預けるという手もあるだろうが、それでこいつが気持ちよく遊びに行けるかというと……答えは否だ。
俺たちの知る限り、健治はそういう男ではない。
「そうか……マリーと英語で話す健治、見たかったんだけどなぁ」
「おいおい、勘弁してくれよ亘。今の俺に英会話は無理だ。リスニングが限界だって」
「今の?」
「ってことは、先々は話せるようになる予定あるんだ。まさか健治、海外の山にでも挑戦するつもり?」
「……」
秀平の何気ない問いに、健治はニヤリとした顔で黙り込む。
おお、野望に満ちた目をしていらっしゃる。
「あるんだ……」
「あるみたいだな……」
多趣味とはいったが、メインは登山とミリタリーの二本立てだ。
さすが仲間内で、サバイバルに連れていきたい男ナンバーワンと言われるだけある。
「ま、そっちはそっちで楽しくやれよ。こっちはこっちで、前々からサバゲーの大会に誘われていたんだ。その日になれば両親も帰ってくるし、気にせず――」
「にーちゃ、おんせんいきたかった?」
言葉を連ねる兄の姿に、幼いながらも察するものがあったのだろう。
悲しそうな目で尋ねる菜緒ちゃんに、健治は一瞬黙り込んで……。
それから一呼吸置くと、笑顔で菜緒ちゃんの頭に優しく手を置いた。
「……いいや。温泉よりも、菜緒の元気な姿が兄ちゃんにとって一番の薬だからな」
「にがいの、やー」
「ん? じゃあ、甘いお菓子だ。この最中みたいに……ほれ、あーん」
「あーん!」
残念ながら、兄は心底可愛がっている妹に決して勝てない。
そういうふうにできているのだ、俺も健治も。
緩んだ顔で甲斐甲斐しく妹の世話をする友人の姿に、秀平が顔を背ける。
「……わっち。俺、恥ずかしくて見ていられないんだけど」
「そうか? いい光景じゃないか。口の中が砂糖でじゃりじゃりするくらいに」
「それ糖分過多じゃん!? 駄目じゃん!」
「別に、このじゃりじゃりは最中の餡から出てきたわけじゃないぞ? 俺が調理に失敗したんじゃないからな?」
「言われなくても分かってるよ!」
糖分過多となった空間に、俺と秀平は胸が一杯だ。
おかげで、冷めて渋くなった緑茶がひどく美味い。
まあ、だからといって最中の消費速度が落ちるということもなく。
「お、中に餅が……正月らしくていいし、柔らかいな。こっちも美味い」
「くりー!」
「あ、よく見たら俺のやつ白餡だ。味がお上品ですこと! ねぇ、わっちさん!」
「うぜえ……」
一つ一つが小さいこともあり、思った以上にみんな食べてくれた。
好評なようで、細かく中身を変えた甲斐がある。
「一種類でも大変だろうに……亘、相変わらずマメだな」
「だよねぇ。つまりわっちがマメに豆を煮込んで、この餡ができあがったと……」
「……」
「……」
「?」
「……お願いだから、誰か何か言って?」
こうして友人宅で過ごす午後の時間は、のんびりと流れていくのだった。