クリスマス・イブ その1
クリスマスにパーティといっても、24日にやるか25日にやるかは意見が分かれるらしい。
要はイブか、日付変更後かという話だが。
ウチの場合は、イブ……つまり24日の夕方から夜、パーティをすることに決まっている。
ちなみにイブは「教会歴」における日付変更が日没だったことから、クリスマス本番にしっかり含まれているそうだ。ややこしいが。
そんな必要か不必要かよく分からない知識を俺に教えてくれたのは、ゲーム好きだった父さんだ。
パーティ決行が24日という家庭内ルールを決めたのも、今は亡き実父であり――
「――っ!」
手元が狂い、床掃除に使っていたモップの柄が倒れる。
慌てて拾い上げ、床を確認。
幸いにも傷はついていなかったので、一安心だ。
「……はぁ」
……いかんな。
あれから随分経つっていうのにこれだ。
どうしても、未だに当日を迎えると心が平静を保てない。
「……」
「兄さん?」
今やっている掃除は、年末大掃除の前準備のようなものだ。
床は毎年ワックスをかけ直すのだが、今のうちにこうして汚れの大半を取っておけば、軽い掃除のみで実行に移すことができる。
他の場所も同様だ。
窓の汚れ、家具の裏側の埃、壁、天井、冷蔵庫、シンク、換気扇。
普段の地道な掃除が、長い目で見ると負担を和らげてくれる。
それから……
「兄さん……兄さん!」
「おうっ!?」
部屋にいたはずの理世が、いつの間にか近くから呼びかけていた。
締めてあったはずのリビングのドアも開いている。
「あ……ごめんな。モップの音、うるさかったか?」
「いえ。それ以前に……」
理世が言葉を切り、周囲を見回す。
俺は何となく、モップを持ったまま目線よりずっと低い位置にある理世のつむじ辺りを眺めた。
頭の動きに合わせて、色の薄い髪がサラサラと左右に流れる。
「掃除、やり過ぎではありませんか?」
「え? そうか?」
「午前中から、ずっとではありませんか。もう14時近いですよ?」
「これから階段と二階の廊下、納戸の片付けもやろうと思っていたんだけど」
「……埃一つなくて、眩しいです。少々、後ろを振り返ってみては?」
言われ、理世と同じように周囲を見る。
……そういえば、予定していたよりも広範囲を掃除してしまったかもしれない。
最初は窓掃除だけのつもりだったな、そういえば。
無駄にピカピカになったリビングを見ると同時に、急に疲労感が襲ってくる。
「……そういや、喉が渇いたな。足も痛い」
「今すぐ休憩しましょう。それと……私から触れたくはなかったのですが。あれを」
「?」
理世が指差す窓のほう、そちらは何故か暗い。
カーテンは全開、日差しが入る向きだというのに……。
振り向くと、不意に強烈な既視感。
同時に目に入る、窓に張り付いた何か。
答えは――言うまでもない。
「気付けぇぇぇぇぇぇ!」
「うわぁぁぁぁぁぁっ!?」
寒空の下、磨いたばかりの窓に張り付く未祐の姿だった。
いくら未祐とはいえ、12月の外気に長く晒されては無事で済まない。
こたつが置かれた和室で、震えながら非難の目を俺に向けてくる。
「今日のお前は駄目だな! 本当に駄目だな! ポンコツだな!」
「悪かったよ……」
インターホンは鳴らしたらしい。携帯もだ。
それでも気付かず掃除を続けるほど、今日の俺は未祐の言う通りの状態らしい。
理世の部屋はインターホンが聞こえづらく、しかも学校の友だちと通話中だったとのこと。
未祐には本当に悪いことをした。
俺は和室専用のちょっと古いストーブに火を入れ、上に水の入ったやかんをセットする。
体が冷えた未祐は、こたつに肩まですっぽりだ。
「窓に張り付くなんて行動、一年のうちに二度もすることになるとは思わなかったぞ! 春以来か!?」
「どちらにしても、最終手段としてはおかしいですがね……」
「まあ、効果はあったわけだから……無駄とは言えないのが何とも」
張り付いた窓には未祐のほっぺたの跡がしっかり残ってしまった。
後で、あの窓だけはまた拭いておく必要がありそうだな……。
外に放置してしまった罪滅ぼしとして、現在、俺は未祐のためにみかんの皮を剥いている。
そうして皮を剥き終えたみかんを未祐の前に差し出すと――あろうことか、持った指ごとみかんが口の中に取り込まれた。
「ちょ!? 手で取れよ! 直か!?」
「……んまい」
冬でもまるで荒れていない、艶のある唇に触れたのは一瞬だったと思う。
慌てて引っ込めると、唖然としていた理世の目が途端に険しいものになる。
「馬鹿ですかあなたは? ちゃんと手洗い、うがいはしましたか? 風邪なんてひいていないでしょうね? こんなことをして、もし兄さんに移したら承知しませんよ」
「うむ、ひほふだけほたえよう……ごくっ! 手は洗ったし、うがいもした!」
「そうでしたね。馬鹿は風邪をひかない、と」
「――ベタなことを言うな! 私だって風邪くらい、ひいたこと……」
「あるんですか?」
「ないが! 一度も!」
「……」
こっちの手も洗ったばかりなので、衛生的には問題ないだろうけれど……。
俺は肩の力を抜くと、若干湿り気を帯びた指をこたつの上に置いた。
正直、あまり汚いだとかそういうマイナス方面の感情は湧いてこない。
が、理世は怒涛の勢いでこたつから飛び出すと――
「兄さん。これで拭いてください」
「お、おう」
ウェットティッシュを持ち帰り、有無を言わせず俺の手を拭いていく。
勢いよく開け閉めされたせいで、ふすまには若干の隙間が。
未祐は理世の行動に一瞬むっとしたような顔をしたが、みかんを更に要求。
俺は籠に入ったみかんの中から、特に状態がよさそうなものを選んで掴んだ。
「――そうだ、亘!」
「何だ? 急に立ち上がって。みかんはまだだぞ」
「違う! あ、いや、みかんはほしいが! そうではない!」
未祐が立ち上がるのに合わせて、淹れてあった緑茶の湯気が横に流れる。
どうやら、冷えた体は完全に温まったようだ。
湯気の流れが垂直に流れ始めるほどの間を置いてから、未祐は再び口を開いた。
「私は別に、こたつに入ってみかんを食べるためにここに来たわけではないのだ!」
「私と兄さんの邪魔をしに来たんですよね?」
「それは否定しない!」
「否定してください」
「ずずーっ……」
「おい、亘! 茶を飲んでいる場合か!? 聞け! 聞くのだ!」
「ふーっ……聞いているよ。で、何しに来たんだ?」
うがいもそうだが、緑茶には優れた殺菌作用がある。
冬場の風邪を防ぎたいなら、まずは緑茶だろう。美味いし。
「クリスマスパーティ用の買い物! これから、行くのだろう?」
「あー……そうだな。行くつもりだったけど」
本当は、あまり当日に行くのはよくないのだ。
商店街は混むし、商品は微妙に高いし、普段見ない層が多く来ていて歩きにくいし。
ただバイトやらの都合で、どうしても事前に買い物に行くことができなかった。
未祐は続けて腕を組むと、俺に向かってこう宣言した。
「私も一緒に行くぞ! 連れていけ!」
「え?」
「もちろん私も行きます」
「理世も?」
珍しいことに、二人ほとんど同時に手を挙げ……だというのに、反目し合う様子がない。
些か妙な感じはしたが、わざわざ買い物に付き合ってくれるというのだ。
断る理由はない。
「……そうだな。じゃあ、三人で行くか」
「うむ!」
「では、準備してきますね」
そういえば、未祐の服装は最初から外行きっぽかったな。
理世は薄く化粧を……もしかしたら、準備の途中だったのだろうか?
観察力が落ちていることを自覚しつつ、俺は溜め息と共に後頭部を掻いた。