岸上家の朝・休日編
目に刺さる日光と、誰かが動く気配で眠りから覚めた。
ぼやけた視界で壁掛け時計を確認すると、普段よりもかなり寝坊している。
でも、今日は朝の内は誰も出掛けないからな……多少の寝坊は許されるだろう。
そのまま半身を起こして部屋をぼんやりと見回すと、ベッドの傍で固まる理世と目が合った。
……。
「――あっ」
「何、してる……? 理世……」
「起きてしまいましたか、兄さん……残念です。まだ数枚しか……」
言葉からして、起こしに来てくれたわけじゃないのか。
その片手で握ったままのスマホは何に使ったのだろう?
「それにしても珍しいですね、兄さん。朝からこんなにゆっくりしているなんて」
「あー、まあ……昨夜の大会、結構時間を取られたからな。楽しかったけど、少し疲れた」
「良い事です。疲れた時は家事も私達に任せて全部お休みにして、ゆっくり遊んでいても構わないのですよ?」
「嬉しいしありがたいけど、そういうわけにも……ん? 私“達”?」
「ええ。今朝は明乃さんが朝食を用意してくれました。待っていますから、一緒に下に降りましょう」
えっ、本当か?
母さんが料理をしてくれるのなんて、一体何年ぶりだろう……?
俺は理世に先に行ってくれと声を掛けて、寝間着を脱ごうと――
「……あの、理世さん?」
「何ですか? 兄さん」
「いや、俺、今から着替えるから。出来れば部屋から出て行って欲しいというか」
「私のことならお構いなく。ここで待っていますから」
「うん、兄妹だからそういうの気にしないって理屈なら分かるし納得なんだが……そんなに血走った目全開でじっと見られてると、さすがに……」
「お構いなく! ――ああっ、なにするんですか! 離してください! いえ、むしろずっとこのまま離さないでください!」
梃子でも動かないという鋼の意志を見せる理世を、ひょいと抱えて持ち上げると部屋の外へと置いてくる。
こういう時は軽い体なので抵抗できないのだ。
呪詛を呟きつつ外からドアを引っ掻く理世が怖いので、手早く着替えて朝食を摂りに行くことにした。
トーストが焼ける香り、それとコーヒーの香りがリビングに満ちていた。
キッチンで鼻歌を口ずさみながら、縛った髪が機嫌良さげに揺れている。
と、そこで俺達の足音で気付いたのかこちらを振り返って微笑む。
「おはよ、亘」
「おはよう、母さん。朝食用意してくれたんだって?」
「簡単なのだけだし、たまにはね。でも亘、起きて早速で悪いんだけどなーんか物足りなくない?」
「ん? んー……」
示されたテーブルの上を見るとトーストの他にはハムエッグ、付け合わせに茹でたブロッコリーか。
野菜が足りないけどスープ……は今からだとちょっと時間が掛かるか。
それなら、そうだな。
「野菜ジュースでも作ろうか? 野菜の赤みが足りない気がする」
「あら、良いわね。理世ちゃんは何味にしたい?」
言いつつ、母さんはデレっとした顔で理世の頭を撫で回している。
今に始まったことじゃなく再婚前から娘が欲しかったそうで、理世が家に来てからは一貫してずっとこんな態度だ。
今日は二人で一緒に買い物に行くそうで、輪を掛けて朝から機嫌が良いのはそのおかげなのだろう。
理世も特に嫌がらずにそれを受け入れているので、我が家の家族仲は安泰である。
「……なら、オレンジベースのものが飲みたいです。確かまだ残っていましたよね?」
「あるある。じゃあ、後はシンプルに人参を入れて赤野菜をプラスしよう」
他の料理は出来ているので、ちゃっちゃと皮を剥いて適当なサイズにカット。
ミキサーに少量の水、レモン等と一緒に入れたら攪拌して完成。
オレンジも人参も一緒に買った同じ生産者の物は甘かったので、それ以上は特に手を加えなくても、このまま美味しく飲めるだろう。
三つのコップに中身を注ぎ、食卓にフレッシュな香りが加わったところで……
「「「頂きます」」」
三人で手を合わせた。
やっぱり人に作って貰った食事は違うな。
簡単な物ばかりとはいえ、久しぶりに母さんの料理を食べられて嬉しかった。
それを素直に伝えると、嬉しそうにしながらもこんな反応をされてしまった。
「でも、とっくに亘の方が料理が上手なんだから、緊急時以外に母さんが作る理由はあんまり無いわよねぇ?」
「まあ、仕事が忙しい母さんに作れと強制はできないけどさ。俺のばっかじゃなくて、自分好みの味で作りたくなったりはしないの?」
「アッハッハッハ!」
「何その笑い」
「うん、短距離走の世界記録を持ってる人に君の方が速い! って言われた気分。無いわよ、負けるのが分かってて自分で作りたくなることなんて」
また分かりにくい例えを……。
褒められている――のか? これは。
マスター配合のブレンドコーヒーを飲みながら、微妙な表情の俺を見て母さんが更に笑う。
「この前も、何だっけ? あの具沢山の、トマトのリゾットに似た――」
「ターゲンですか? 兄さん、土鍋で丁寧に作って下さいましたよね」
「それそれ。私が知らない美味しい料理まで作ってくれるし、お弁当もいつも綺麗で美味しいしで自慢の息子よ。それを知らない新人の子に、お弁当のおかずのレシピを聞かれるとウッてなるけど……でも、こんなに家事をしなくて済む母親も珍しいんじゃないかしら?」
「あー、褒めすぎ褒めすぎ。背中がむず痒くなるからやめてくれ」
「そういうところは瑞人さんそっくりねえ……」
瑞人というのは俺が五歳の時に亡くなった実の父親だ。
ちなみに理世の父は「悟さん」という人で、こちらは俺が中学生の時に……。
どちらも若くしての病死であり、そういう意味では母さんはとても運が悪いと言えるかもしれない。
そんな暗い過去を感じさせないパワフルさと見た目の若さではあるのだが。
もう再婚する気はないのかと訊いたところ「三度目はちょっとねえ」だそうだ。
「で、二人は食休みしたらもう出掛けんの? 昼は?」
「お昼はどこかで適当に食べてくるわ。亘は一緒に行かないんでしょう?」
「あー、未祐と秀平が家に来るって言ってたから。昼はその三人で何か用意して食べるよ」
「むう……兄さんが一緒じゃなくて残念です……」
むくれる理世を母さんがまあまあと抱きしめる。
こうして並んでいるところを見ると、血は繋がっていなくとも年の離れた姉妹と間違われるのも分からないでもない。
一緒に住んでいるからなのか、理世もどことなく雰囲気が母さんに似てきているんだよな。
不思議だなあ……。
「大丈夫よ、理世ちゃん。夜の亘はあなただけのものだから、沢山甘えるといいわよ?」
「え? ちょっと、何勝手なことを――」
「本当ですか? 明乃さん。じゃあ、今夜は兄さんと一緒に寝ても良いですか?」
「いいわよ!」
「結婚しても良いですか?」
「いいわよ! それなら理世ちゃんを何処かに嫁に出す事も無くなるし! 亘、ついでに未祐ちゃんも嫁に貰っちゃいなさい! あの子も良い子だから!」
「何でだよ!? 何から何までおかしいわ! しかも他所様の家の大事な一人娘を、ついで扱いすんな!」
この人、単に自分の手元に娘を置いておきたい一心で無茶苦茶なことを言っていないか……? 俺の意思は……?
実の息子として愛されているのか少し不安になる、そんな朝の出来事だった。




