天空の塔・掲示板
冬場の水回りや、キッチンは寒い。
もちろん床暖房であったり、エアコンだったりもあるのだが……。
ついつい、長居するつもりがないときは寒さを我慢しがちだ。
「……」
鍋の中で野菜が煮えている。
量は少し多めで、具材はタマネギ、ニンジン、キャベツにジャガイモ、ベーコン。
ベーコンの塩味を考えて、塩胡椒は控えめにしておく。
さて、味見だが――実はちょっと口の中が、困ったことになっている。
「飴が溶けねえ……」
未祐にもらったこの飴、異常に溶けるのが遅い。
舌の上で甘味を発しながら、いつまでも転がっている。
新商品だとか言っていたが、何だこれ……。
寒いので、早く味を調えて自室に撤収したい。
さりとて、捨てるのは勿体ない。どうしたものかな。
悩んでいると、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
「兄さん」
扉を開けて入ってきた理世が、部屋の寒さに一瞬立ち止まる。
料理の熱で多少は温かいはずだが……理世が来たのなら、暖房を点けるとしよう。
理世は俺と違って体が弱いので、風邪でもひいたら大変だ。
「理世、いいところに来た。鍋の中身の味見をしてくれ」
暖房のスイッチを入れながら、理世にそう呼びかける。
小さな返事と部屋に入ってくる足音を聞きつつ、続けて俺はティーポットを手にした。
多分、水分補給に来たのだろう。
「ポトフですか?」
「ああ、お昼はそれな。寒いし、いいだろう?」
「ええ、メニューに異存はありません。ただ、量が多いように思えますが……」
「余ればシチュー、まだ余るようならリゾットに化ける予定」
要は煮込み野菜なので、色々と転用できるのだ。
最初のほうで匂いのきつい食材でも入れない限り、使いまわして問題ない。
食品が傷みやすい季節以外であれば、忙しい人にもおすすめだ。
「そうですか。兄さんが楽をできるのなら、結構なことです」
「いや? 珍しく終日家にいるんだし、夜は豪華にする予定だが……理世の好きなカボチャも、新鮮なのが手に入ったし。何かリクエストはあるか? 手の込んだやつもできるぞ」
「……」
喜ぶかと思いきや、さにあらず。
理世は何か言いたげな顔をした後、力を抜いてふっと小さく笑みを浮かべた。
仕方のない人ですね、という感じだ。
動いていないと落ち着かない性分だから、こればっかりはな……。
「……でしたら、茹でてペースト状にして使いませんか? チーズと混ぜて、クラッカーに乗せてみたらどうでしょう?」
「おお、美味そうだな。カボチャチーズか」
「残るようでしたら、冷凍保存しましょう。サラダなどにも使えますし、ポタージュにもできます。夕飯の準備は私もお手伝いしますから」
「ああ。ありがとうな」
かぼちゃは切ってあるものではなく、実は大きいものが丸々二個ある。
一個は八百屋さんのオマケで……規格外らしく形は少々悪いが、味は美味しいはずだ。
「それじゃ、そっちの下拵えもやってしまうか。よし、気合入れて――」
「待ってください、兄さん。一度休憩にしましょう」
「え? でも」
「休憩にしましょう」
「……」
昨日も似たような会話をした気がするが……進歩のない俺が悪いか。
珍しくスマートフォンなどを取り出しながら、理世が手招きしているのも気になる。
俺がエプロンを外して椅子に座ると、理世も今日は対面にすんなりと腰かけた。
「で、どうした? そんなものを取り出して」
「今日はTBの野良パーティで疲れた兄さんを、別アプローチで元気づけようかと思いまして」
理世は笑顔で、俺にもスマートフォンを出すように言ってくる。
元気づけるって……またか?
「待ってくれ。気持ちは嬉しいが、俺のメンタルはそこまで弱くないぞ……?」
何をする気なのかは知らないが、正直そこまで心配されるようなものではない。
本当に、最初は突然の暴言に驚いてしまっただけだ。
考えてみれば実生活でも、あれくらいのストレスはざらにあるものだし。
しかしそんな俺の言葉にも、理世の態度は変わらない。
「ご安心を。精神衛生にも、攻略にも役立つように抜粋してありますから」
「抜粋……? それでスマホって、まさか……」
「はい。TBの掲示板の一部を、私なりにまとめてきました」
秀平さんのものとは違った観点から集めています、と理世が一言を加える。
……そう言われると、俄然興味が湧いてくる。
それに、折角の厚意だ。
俺は自分のスマホをポケットから取り出し、理世から受け取ったデータを開いた。
どうやら「ランカー遭遇情報を語る」というスレッドからの抜粋らしい。
過去にちらりと覗いたことがあるが……噂と実態との乖離がどれくらいあるかを過剰に気にする、やや意地悪で攻撃的な人たちが多かった印象。
326:名無しの武闘家 ID:Qu4mB96
渡り鳥ハインドさんに会いました!
塔で! 野良で! 50階までの低階層です!
327:名無しの魔導士 ID:JR2fMw3
落ち着け、ハインドが鳥になってる
328:名無しの武闘家 ID:Qu4mB96
ああ、ごめんなさい!
ギルド渡り鳥の、ハインドさんです! 本体さん!
329:名無しの騎士 ID:9w6T86n
分かった分かった
どうだった? 評判通りの動きしてた?
330:名無しの武闘家 ID:Qu4mB96
動画で見た印象より静かな人で、優しかったです!
全然怒らないし!
見たことない綺麗で美味しいお菓子もいただきました!
(効果も凄い!)
331:名無しの軽戦士 ID:bPAtVA8
ボケればツッコミ入れてくれそう
332:名無しの弓術士 ID:F3Mc3Ed
それな
誰かボケないと、ツッコミなんだからそりゃ静かよ
333:名無しの神官 ID:TUKUBte
ハインドはお笑い芸人だった……?
334:名無しの軽戦士 ID:YPZdrMn
あれ、いつものPS弄りはどうしたん?
このスレらしくないじゃん
335:名無しの魔導士 ID:JR2fMw3
古参の常連ランカーだし、PS面で突っつくのも無理があるし
何人かはそういう例外もいるよ、そりゃ
363:名無しの魔導士 ID:k93irQ5
ハインドをどうにか弄ろうとしている連中、
人間にはできない要求ばっかりじゃないか
そんなの機械じゃないと不可能だよ
364:名無しの重戦士 ID:6XQgWJy
……ちょっとサイボーグ化手術受けてくる!
365:名無しの弓術士 ID:9hyirQG
もう電脳世界に直接意識を送り込んだ方が早そう
366:名無しの騎士 ID:wcxskiX
というか、今のVRは既にそれに近い状態なのでは……?
367:名無しの魔導士 ID:PEsmYmz
元の体に戻れるよう、一杯リミッターがかかっているけどな!
368:名無しの騎士 ID:L3GTdDB
肉体という枷がある以上、超人にはなれんのだ……
ということで、俺もハインドの飯を食べたい!
(肉体から溢れ出す欲求)
369:名無しの神官 ID:3KTTk4r
VR内の飯じゃ、欲求満たせないんじゃ……
370:名無しの騎士 ID:L3GTdDB
VRで得た味を思い返しながら、
現実で白米を掻っ込む! これだ!
371:名無しの弓術士 ID:9hyirQG
上級者過ぎる……
372:名無しの重戦士 ID:86mNPpF
お店の調理場の匂いで、みたいな話だな……
373:名無しの武闘家 ID:F2Sjuin
サーラ住みだけど、
いつもハインド印のサンドイッチが売り切れで辛い
美味いんだよなぁ、あれ
374:名無しの魔導士 ID:H7izsba
野良に参加しているらしいし、
運よく会えたら飯をたかってみるか!
尚、実際に対面したら緊張して話せない模様
375:名無しの弓術士 ID:WTjTbFR
分かる
あのレベルのランカーが傍にいるとか、
自分が地雷にならないか怖くてしゃーない
この武闘家って、もしかしてあの人だろうか?
それと、俺がいると緊張するなんて人もいるのか……これは全く想像していなかったので、新鮮な気分。
ただ、これらのレスが何を意味しているのか判然としない。
画面から目を離し、理世に視線を向ける。
「……これは、どういう意図で?」
「兄さんに好意的な流れの箇所だけを抜き出しました。どうでしょうか?」
「甘やかしが過ぎる!?」
道理で、妙に意見が偏っているなと思ったよ! 間のレス番、ごっそり飛んでいるし!
不自然なくらいヨイショばっかりだもの!
そりゃ、こういうのを見て元気が出ないかと言われれば……我ながら単純なもので、出るのだが。
「兄さん、優しい世界はお好きではありませんか?」
「優しいってか、ここまでやると歪じゃないか……?」
辛い世の中だからこそ優しさが際立ち、沁みるということもあるんじゃないだろうか。
だからといってストレス歓迎、というわけではもちろんないのだが。
「……ちなみに、否定的な意見はどんな感じだった? 明らかに抜いてあるってことは、目は通したんだろう?」
「……」
「り、理世!? 否定的な意見は!? 何もしていないよな!?」
理世の笑顔は微動だにしない。
張り付いたような笑みのまま、俺の問いに答える。
「ご安心を。直接的には何もしていませんから」
「と、言うと?」
「周囲を扇動し、多数意見で圧殺しておきました。私がそうしたという事実に辿り着ける者は、稀でしょう」
「その言葉のどこに、安心できる要素があったんだ……?」
ネット上で相手を叩きのめす行為自体、建設的ではないように思えるが……。
俺を思っての行動ということが分かっているので、強くは言えない。
「ところで、理世。ファイルがもう一個あるようだが……」
「そちらもどうぞ」
「……」
「どうぞ。是非に」
「あ、ああ」
秀平のものとは別の意味で、不安を覚えるが……。
こうなったら、何があろうと最後まで見るとしよう。
わざわざ、忙しい勉強の合間を縫ってやってくれたのだろうし。
未だ溶けない飴を口の中で転がしながら、俺はスマートフォンを持ち直した。




