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もう一つの決戦

 エルガーたちとの戦いの翌日、午前。

 俺は朝から緊張でガチガチになっていた。


「……」


 それを紛らわせるために、家事に精を出す。

 シンクを磨き、スポンジを替え、排水溝にスプレーを吹きかける。

 テレビの埃を取り、空になっていたティッシュを補充し、床を――


「……兄さん」

「!」


 視線と気配、呼びかける声に振り向くと、理世が部屋着で立っていた。

 たった今来た感じでもなく、ゆったりと立っているんだが……一体いつから見られていたんだ?


「な、何だ理世? お茶でも飲むのか? だったら掃除はやめるから、換気して――」

「落ち着いてください。緊張を建設的な家事に転換する兄さんは素敵ですが」

「あ、ああ……え?」


 緊張をあらわにしていて褒められるなんて、中々ないんじゃないだろうか?

 そこは素直に、鬱陶しいから落ち着けって言ってくれてもいいんだぞ? 理世……。

 却って情けないような、複雑な気分になるから。


「そういえば、今日が例のお茶会でしたね」

「……そうなんだよ」


 しかも開始時刻が午後のため、朝からずっと気になって気になって仕方がない。

 練習を重ねはしたが、本番が特異過ぎる状況のためリハーサルなどはあまり役に立たない点が気がかりだ。

 予定としては昼過ぎに合流、そこから会場――マリーのお嬢様学校に向かうという手筈となっている。


「一般的なお茶会も15時頃開催なのですか?」

「いや、沢山の客を呼ぶ“大寄せ茶会”なんかだと長いって聞くけど……学校主催の茶会だからなぁ。普段のリズムを崩さないようにってんで、いつものお茶の時間と同じ15時スタート。で、今日だけそれをちょっと長めにやるんだそうだ」

「いつもということは、毎日15時にお茶ですか……それは普段、学校にいてもですか?」

「学校にいてもやるらしいぞ。掃除とかがなくて、終業前にお茶してから帰るんだそうだ」


 理世が訝し気な表情で、話を理解しようとこめかみに指を当てる。

 気持ちはよく分かる、よく分かるぞ理世。

 俺も司からその話を聞いた時、同じ反応をした記憶があるから。

 やがて理世が一言。


「別世界のお話ですね」

「別世界の話だよなぁ……」


 兄妹二人、リビングで窓の外を見て遠い目をする。

 女子高生が放課後にお菓子を持ち寄って駄弁るような、ありふれた光景とは全然違うのだ。

 横には使用人、座るのは豪奢なテーブルセット、飾った言葉で姿勢よく話すお嬢様たち。

 そしてその中で給仕をするにわか執事たる自分。

 ……うっ。


「……いかん、気分悪くなってきた。お昼は軽いもんでいいか? 理世」

「私は構いませんけれど……」

「未祐が納得しないか?」


 未祐は見たまんま、力の付くしっかりとした料理が好みだ。

 今日はクラスの女友達とショッピングだそうだが、昼には戻ってくるとのこと。

 しかし、午前の二、三時間で済む女子のショッピング……? あるのか、そんなもの?

 未祐のことかという俺の問いに対し、理世はあっさりと首を横に振って否定する。


「いえ、未祐さんは全然どうでもいいのですが。兄さんのスタミナが持つかどうかが心配です。ただでさえ緊張なさっているので、体力を消耗してしまうのではないかと」

「それはそうなんだけどな……」


 匂いのきついものは論外にしても、消化が良くて力が出るもの……。

 なくはないが、どうにもしっくり来ない。

 根本的な解決を図るにはやはり――。


「兄さん」

「うん?」

「コーヒーを淹れてくださいませんか? 少しお話しましょう」

「……分かった」


 この賢い妹は、きっと気を利かせてくれたのだろう。

 俺の緊張が解れるよう、話し相手になってくれるらしい。

 排水溝の状態を確認し、さっと薬剤を洗い流してからしっかり手を洗う。

 無駄に磨かれたシンクの上でコーヒーを淹れる準備をし……。

 やがてリビングに嗅ぎ慣れた良い香りがふんわりと漂う。


「……美味しいです」

「そりゃ良かった」


 コーヒーを啜る音と互いの息遣いが聞こえるだけの、静かな時間。

 それだけでも、少し不必要に昂っていた気分が落ち着いてくるのが分かる。


「……兄さんは」

「お? 何だ?」

「兄さんは人の世話をするのがお好きですよね?」


 理世が両手でカップを持ったまま問いかける。

 ……そこからどんな話に持って行く気なのかは知らないが、理世の問いが無意味だったことはないもんな。


「好きっていうか、性分っていうか。つい手が出るっていうか……迷惑な顔をされないラインを多少見分けられるようになるまでは、ちっと面倒な奴だったかもな……」


 人には立ち入られたくないラインがそれぞれ存在している。

 そこをうっかり踏み越えてしまうと、大抵は良い結果を生まないものだ。


「過ぎると単なるお節介ですものね」

「……耳が痛いよ」

「でも、私は兄さんが焼いてくれる世話をそう思ったことは一度もありませんよ?」

「そうなのか? えーと……ありがとう?」

「ふふっ……この場合、お礼を言うべきなのは私のほうだと思いますけど」

「あれ、そうだったか?」


 そう考えると、今こうして理世と仲良く話せているのは結構不思議だ。

 よくもまあこれだけ好き嫌いが激しく、そのラインの見極めが難しい理世から嫌われずに済んでいたな、過去の俺……。

 開放的な性格の未祐は常にドンと来い状態だったが、他の人はそういう訳にも行かないのである。


「……今回の件も兄さんの得意なサポートの延長戦だと私は思うのです。そう緊張なさることはありませんよ」

「あー、でも、今回のお茶会は実質執事チェックの場になっているからさ……」

「そうだとしても、ですよ。執事の本分は主のサポートでしょう?」

「う……そうだよな。そこを忘れるのはそれ以前の問題だよな……」


 影のようにひっそりと、しかし寄り添うように。

 そんな存在がガチガチに硬くなっていたら、いざという時に一歩も動けない。

 まるで役に立たないだろう。


「それと、椿さん――以前、競馬に臨むサイネリアさんに、ハインドさんが仰ったことを思い出してください」

「……あっ」


 そうだ、思い出した。

 自分が主役だと思うから緊張するのだ、馬が主役だと思って力を抜けと……確かにそう言った。

 格好つけて分かったような顔で、騎手であるサイネリアちゃんに。


「そっか、そうだよな……自分で言ったことくらいできないと恥ずかしいよな。それに周囲がどんな目で見ようと、マリーが主人で執事の俺はオマケ。俺がミスをしたらマリーが恥をかくってのは変わっていないが……」


 俺の立つ横――というか斜め前には、マリーが座っているのだ。

 さっきのイメージで、少しでも俺はマリーの姿を込みで思い描いたか?

 ……駄目だな、こんなんじゃ。

 理世が猫の描かれたコーヒーカップを置いて、顔を上げる。


「実際には何も変わっていませんし、詭弁もいいところですが……」


 そんな妹の言葉に、俺は目を閉じて首を左右に振った。

 詭弁だろうと何だろうと、効果があればそれでいいのだ。

 そして何よりも、その気遣いがとても嬉しい。


「いいや、ありがとう理世。凄く落ち着いた」

「……そうですか」


 照れを隠すように、コーヒーカップを傾ける理世。

 もうそのカップの中身がないことは知っていたが、それは黙っておくことにしよう。


「……それにしても」

「?」

「最近の兄さんのお世話対象は、やけに女性の比率が高くはありませんか?」

「はい!? え、ええと……そんなことは……ないと思うが?」

「高いですよね?」

「高くないって!? 理世の観測範囲ではそうってだけで、学校では――」


 言い訳――じゃない、事実を理世に説明している内にいつの間にかお腹が空いていた。

 その後、俺は普通に三人でバランスの良い昼食をしっかりと摂り……。




 それから数時間後。

 シュルツ邸で執事服のタイを締め、司の部屋を出る。

 廊下で待ち受けていたのはパオルさんで……。

 俺の顔をしげしげと眺めると、やがて不快そうに眉を寄せつつ舌打ちした。


「フン……腑抜けた顔をしていたら、直ぐにでも俺が変わってやるつもりだったが」

「……」


 一応、今の顔は合格ということらしい。

 正直、性根はそれほど曲がっていないように思うんだよな、この人。

 この攻撃的な部分さえ表に出さなかったらなぁ……。


「失敗は許されんぞ、岸上。もし失敗したら――」

「……失敗したら?」

「どんな手を使ってでも、貴様をこの屋敷――いや、金輪際お嬢様の傍に近寄れないようにしてやる」


 何という陳腐な脅し文句。

 それを実行するにはマリーの考えを変えさせたり、周囲に根回ししたりする必要があると思うのだが。

 今のパオルさんの信用度からすると……到底無理じゃないか?


「はあ……そもそもパオルさんで問題なかったら、俺の出番なんてなかったはずなんですけどね? バイトですよ、俺?」

「がっ、ぐっ……!」


 予想以上の反応に少し悪いことをした気分になる。

 それにしても、態度に出し過ぎだろう……執事としての作法・技術は出来上がっているらしいんだがなぁ。

 勿体ない。


「――と、とにかくだ! ……お嬢様のためにも、しっかりやってこい。話はそれだけだ」

「……はい」


 何だかんだで、最後の激励の言葉をかけることが主目的だったらしい。律儀な。

 それから外に出て例の高級車の前で待っていると、やがてマリーが肩で風を切って現れた。

 まずはパオルさんと同じように俺の状態にチェックを入れる。


「ふんふん……緊張していないようで何より、ですわ!」

「あー、まあ……色々あってな。それに、今お前の顔を見たら余計に落ち着いたっていうか」

「――!? それ、どういう意味ですの!? 褒めていますの!? それともけなしていますの!?」

「よっしゃー、行くぞー」

「無視!? しかもやたら緩いかけ声ですわね!?」

「人前ではちゃんとするって。どうぞ、お嬢様」


 車のドアを開け、中へと誘導する。

 マリーは咳払いを一つ、居住まいを正して澄ました表情を作ると、滑らかな動きで車に乗り込んだ。

 さすが生粋のお嬢様である。

 一方俺はというと、これはこれで何度も練習した動きだが、正直ちょっと恥ずかしさを抑え切れない。

 どうにか表情には出さないようになったが、今後の日常生活ではまず使うことはないだろうなぁ……。

 ――さて。

 今から一時間ちょっとだけ、それらしい執事になりきれるよう努力しますか。

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