お嬢様の本分
マリーことヴェンデルガルト・マリー・シュルツの起床は実に優雅だ。
朝は静さんにゆっくりと揺り起こされ、目を覚ますためにモーニングティーを一杯。
少し遅めの朝食を摂った後も当然、紅茶を一杯。
その後はアイロンがけされた経済新聞に目を光らせつつ、更に紅茶を一杯。
昼食だけは忙しい合間を縫ってサンドイッチで簡単に。ただし、この時も一杯の紅茶は欠かさない。
三時になるとようやく一息、夕方の最後の一働きの英気を養うため、甘味と共に紅茶を――
「――みたいな感じじゃねえの?」
「全然違いますよ!? 想像の中のお嬢様、紅茶を飲み過ぎです!」
「って、未祐が前に言ってた」
「しかも未祐さん!? 師匠の想像じゃないんですか!?」
題して「ドリルの優雅な一日」らしい。
俺は今、暇になったので司が下宿している部屋を訪ねていた。
静さんに急用が入り、どうしても一時間だけ待ってほしいとのこと。
司がいてくれて良かった……顔見知りが徐々に増えてきたとはいえ、まだまだこの屋敷にとって俺は部外者だ。
「それだったら、マリーは休日をどんなふうに過ごしているんだ? 司とマリー、どちらか暇にしてるか訊いたらマリーは忙しいっていうから」
「それでボクのところにお越しになったんですね……」
「すまん。迷惑だったか?」
「いいえ、全然そんなことは! あ、そうだ師匠。何かお飲みになりますか?」
「そうだなぁ……」
司がパタパタと部屋の中を走って行く。
部屋はそれなりの広さで、八畳に風呂トイレ、そして台所が付いている。
間取りは庶民的だが、内装は……まあ、あの屋敷の一部なのだな、といったところ。
「じゃあ、カフェインの入っていないやつで」
「カフェインって……もしかして、師匠」
「ああ。紅茶の試飲のやり過ぎで、ちょっとな」
「だ、大丈夫ですか!? というか、そんな状態でよくさっきの妄想話ができましたね!?」
「うん、自分で言ってて軽く胃が痛くなったぞ」
「駄目じゃないですか……」
「駄目だな」
最初はTB内で練習していたのだが、茶葉も道具も違えば風味も変わってくる。
それでもある程度までは役に立ったのだが、やはり仕上げは現実で淹れて、飲んで、舌で鼻で触覚で味を確かめ、そして改善していかなければならない。
「えっと……じゃあ、リンゴジュースはどうでしょう? スーパーで買ったものですけど」
「ありがとう、いいチョイス。でさ、折角練習した紅茶なんで……司、試しに飲んでみてくれないか? 茶葉も少し貰ってきたし、ポットも借りてきたから」
「え、師匠がボクに淹れてくださるんですか?」
「一応、静さんから合格点はもらってるんだけど。司の意見も聞きたくてな」
「ぼ、ボクなんかの感想でよろしければ」
出してもらった市販品のリンゴジュースを半分ほど飲んだところで、俺は席を立つ。
やり方は最初に淹れた時とそれほど変わらないが、問題は茶葉を蒸らす時間。
ここで味が変わるので……よし。
「どうぞ、おじょ――お坊ちゃま」
「あはは、師匠ったら台詞まで沢山練習したんですか? ボクはお嬢様じゃありませんよ? えーと、それでは……いただきます」
危ない、思わず素で言い間違えそうになった。
司はオフということで今日は私服なのだが、まだまだ改善が必要なファッションセンスで――要は、とても可愛らしい。
ま、まあ、司は俺がマリーに紅茶を出してばかりだから言い間違えた、と取ってくれたようなのでセーフ……いや、駄目か。
司が色々と気にしていることを知っている以上、普通にアウトだな。
しかし、蒸し返して説明してもそれはそれで司が悲しみを背負いそうだし……卑怯だが、ここは心の中だけで謝罪を。すまん、司。
俺が心の中でグダグダ言い訳と反省、そして謝罪をしていると、
「ど、どうかしましたか?」
「あ、いや。何でもないんだ」
さすがに見咎められた。
こうならないよう、次からは重々気を付けることにしよう……。
姿勢を正し、司が紅茶に口をつけるのを待つ。
「……!」
「ど、どうだ?」
司がカップを傾け、目を見開いた。
できる限り丁寧な仕事を心がけたつもりだが……。
「美味しいです、師匠! 最初の時からお上手でしたけど……これは更に上の段階の味、という感じがします! 凄いです、お茶会のことが決まってからまだ四日しか経っていないのに!」
「決まる前からも練習してはいたけどな。司も何度か練習に付き合ってくれたし……ありがとうな」
「はいっ! ――あ、そうです師匠。折角ですから、お嬢様にこれをお出ししましょう!」
「へ? 俺が淹れた紅茶をか? いや、だって……マリーは今、忙しいんだろう?」
「大丈夫です! お嬢様はもう少しで休憩時間に入られますから。秋川さんや給仕担当の人にお願いして、師匠の紅茶を一緒にお出ししましょう!」
「お、おお……?」
妙な行動力を発揮する司に連れられ、俺は屋敷内を歩き回った。
ちなみに司は私服で屋敷内を歩き回れないということで、オフなのにわざわざ執事服に着替えてから部屋を出ている。
そしてサクサクと了解を取り付け……。
「あそこがマリーの仕事部屋か。っていうか、本当に普通に仕事してるんだな……」
確かマリーの年齢は俺や未祐と一緒だったはず。
そんな人間がアルバイトなどでなく普通に仕事をしているかと思うと、不思議な引け目のようなものを感じる。
足は止めたものの、まだ休憩の時間ではない。
俺は司と共に、紅茶の準備をしに二人で移動していく。
「旦那様によると、お嬢様に任せているのは小さな案件……とのことですけど」
「小さな、ねえ。どうせ俺が見たら目ん玉が飛び出すような額が動いているんだろう?」
「あ、はは……」
「否定しないってことはそうなんだな? というか、今更だけどシュルツ家が経営しているのって……貿易商みたいなものっていう理解で合っているか?」
実は、その辺りを直接質問したことはない。
ただ、屋敷の中にいると否応なく耳に入ってくる情報というものもある。
司は俺の当て推量にあっさりと頷いた。
「はい。ですが貿易商というよりは、どちらかというと日本で言う総合商社に近いかもしれません」
「そりゃまた、経営のスリム化が進む時代に対して随分と逆行しているな。しかも海外ではあまりない形態だよな? ジャンルを絞らない多角経営なんて」
「ですね。そんなシュルツ家が日本に来たのは必然だったのかもしれません」
「しかも一族経営って。まあ、優秀であれば誰も文句は言わないんだろうけど」
「ええ。一族経営ではありますが、業績悪化の折には退陣することになっているそうですし。ですが、お嬢様を見ているとそんな日はまだまだ来ない……と、使用人たちはみんな思っていますよ? もちろん、ボクもそうです」
「そこまでの信頼を得ているのか、マリーは……」
何というか、それ以上は言葉も出ない。
マリーのやつ、もう腰辺りまで社会人に浸かっているじゃないか。
遊んでいる時のはしゃぎようはその反動なのだろうか?
今のところは大丈夫なようだが、もしガス抜きに失敗したら……どうなるんだろうな? マリーは。
色々聞いている内に、どうにも心配になってきたな。