彼女の動機
マッサージしてくれる時の理世は至って真剣だ。
いつもは真っ白な頬を紅潮させながら全身全霊を込めて押してくれる。
余りに全力なため、お願いする回数はそれほど多くない。
「筋肉痛の時は、指圧せず撫でるように。血行が改善されるよう促すといいそうです」
「良く知ってるなぁ……あ、程々でいいからな? もう結構押してもらったし。俺が治っても、お前が疲れ切ってしまったら意味がないんだからな」
「兄さん……」
程々でいいと言ったばかりなのに、理世の手に一層力がこもる。
押してもらっているのは腰なので顔は見えないが、今の発言は失敗だったかも――
「ふふ、うふふふふ……」
「!? ど、どうした!?」
「ああ、すみません。兄さんの言葉が嬉しくて……つい、気持ちが昂ってしまいまして」
「大丈夫かよ……」
部屋のベッドで押してもらっているのだが、理世が発する空気が尋常ではなく振り向けない。
場の空気を誤魔化すように、顔の横に置いたスマートフォンを確認すると……うん、時間切れか。
このまま眠ってしまいたいくらいだが、まだやることがある。
理世の手が緩んできたところで声をかけた。
「理世、そろそろ未祐が風呂から出るんじゃないかな」
未祐がこの状態を見れば、「私も押してやる!」とかいう絡み方をしてきて俺が酷い目に遭う。
あいつにマッサージをお願いするとしたら、それは肩がバキバキに凝っている時くらいのものだ。
理世もそれは分かっているので、手を離して静かに体をどかす。
「もうそんな時間ですか……折角の至福の時が。何なんでしょうかね? 都合よくお風呂が壊れるなんて」
「都合よく……? 」
「いえ、こちらの話です。壊れたのはシャワーヘッドだけなんですよね?」
「ああ。でも、あいつの髪ってあの通り長いだろう?」
「長いですね」
「シャワーなしで洗うのは厳しいだろうから、仕方ない。ただ、壊したのは昨日なんだから、今日忘れずに買いに行けば良かったのにな」
「忘れたんですか?」
俺がゆっくり起き上がってから頷きを返すと、理世が「あの鳥頭……」と毒づいた。
そんな訳で、今夜は未祐も我が家にいる。
やがて風呂場のほうから物音がしたのに合わせ、俺たちはリビングへと向かった。
それから三十分ほど過ぎたころ。
理世は残っている勉強を片付けると言い残し、自室へと戻った。
時間を割いてしてくれたマッサージに感謝だ。
そんな理世のマッサージが効いたのか、朝食・弁当の仕込みはスムーズに――未祐が髪を乾かしている内に済ませることができた。
洗った手を拭ってから、ソファで寛ぐ未祐の下へと移動する。
「そういや、お前に訊きたいことがあるんだけど」
「む、何だ? 亘」
豆乳をぐびぐびと飲んでから、風呂上がりの未祐が顔を上げた。
乾かしたばかりの長い黒髪が動きに合わせてサラサラと流れる。
「お前は鍛えなくても細マッチョ寄りだと思うぞ? 料理部だというのに……家事って凄いな!」
「そんなことを訊きたいんじゃねえよ! 大体、ボディラインを気にして鍛えているんじゃないからな?」
「冗談だ。で、何を訊きたいのだ? 豆乳飲むか?」
「それウチの豆乳だぞ……訊きたいのは、生徒会についてだよ」
俺の問いに未祐の目が光った……ような気がした。
立候補の期日が迫った今、しっかりこういう話を訊いておく機会はそうないだろう。
妙な反応をしているが、俺は質問を重ねていく。
「あーっと……どうしてお前は去年、生徒会の選挙に出たんだ? 今年もだけど」
「訊くまでもないことだな! 生徒たちの自治力を高め、己を律し、こう……こう……」
「……校紀か? もしかして」
「そう、その校紀? を、正しく導くために――」
「それ、お前じゃなくて緒方さんが考えた言葉だろう? なあ?」
「……」
未祐が露骨に目を逸らした。
確かこれ、緒方さんが去年やった就任挨拶……だった気が。
先生方に大層気に入られ、そのまま昨年の生徒会方針に使われたのを覚えている。
そして、未祐の回答を準備していたようなこの態度。
「……もし俺がこの質問をしてきたら、自分の言葉で話せって……緒方さん、そう言っていなかったか?」
「言っていた……くそう、私もゆかりんのように格好良く決めたかったのに!」
「やっぱり根回ししていたのか、緒方さん……」
道理で未祐の様子がおかしいと思った。
熱意は買うが、却って本音を聞き出す手間が増えてしまっている。
「未祐に事前に教えたら逆効果だろうよ。そういうところ、緒方さんはちょっと甘いんだよな……」
「ふむ。いつだったか、人心掌握は亘のほうが上手いとゆかりんは言っていたぞ。補ってやったらどうだ?」
「……へったくそな勧誘だなぁ」
「むっ……!? 下手で悪かったな!」
未祐がむくれてソファの上で横を向く。
その膨らんだ頬を突くと、空気が口からぽひゅっと抜けた。
「おー、柔らかい……」
「なっ、なぁっ!?」
「いいから、教えてくれよ。お前はどういう気持ちで立候補したんだ?」
未祐は頬を抑えて硬直していたが、やがて小さく咳払いをした。
話してくれる気になったらしい。
「今夜のお前は少し意地が悪いな。人の意見など参考にせず、自分で決めろと突き放してやりたい気もするが……ふむ。私の動機は至ってシンプルだ」
「うん、そのほうがお前らしい。どんな理由だ?」
「私が立候補した動機はズバリ……祭りの中心で騒ぐため! これに尽きる!」
「……は?」
予想外の言葉に面食らう。
しかし話の続きを聞けばなるほど、それは未祐らしい意見が凝縮されたものだった。
「退屈な授業の合間に行われる文化祭、体育祭、合唱コンクールなどなど……その辺りを企画する側に回りたかったのだ! そのほうが絶対に楽しい!」
「絶対かどうかは知らないけど……そうか。祭りの中心ってそういうことか」
「うむ! ……話は変わるが、亘。中学のその辺の行事はどうだった?」
「全体的に無気力でつまんなかったな。学校の雰囲気ってのもあるから、一人で盛り上がっても仕方ないし」
「今はどうだ?」
「高校のか? そうだな……」
俺は高校の行事を振り返りながら未祐の顔を見返す。
珍しいことに、少し不安そうな表情をしている。
……。
「高校の行事は楽しいよ。そこそこにみんなやる気があって、輪を乱すような連中はほとんどいない……もしかしたら、お前のおかげかもな」
「そ、そうか?」
「そうだよ。どうせやるなら楽しい方がいいもんな。お前の言葉、正直ちょっと感動した」
「そ……そうかそうか! わははははは! それならいいのだ、うん!」
嬉しそうに体を揺らして未祐が笑う。
釣られて俺も少し笑ったが……ふと、未祐の声が大きいことに気付く。
「――未祐、夜。今は夜だから」
「あっ」
その時、二階のドアが開いて階段をゆっくりと下りてくる音がした。
勉強中の理世は隣で騒いでいようが驚くほどの集中力を発揮するので、ちょうど終わったところなのだろうが……小さな足音に怒気が含まれているのを感じる。
これは俺も連帯責任だろうな……足音が止まり、リビングのドアが開かれた。