緒方由香利の出馬要請
緒方さんが俺を穴が開かんばかりにじっと見る。
そこに色っぽい意味は微塵もなく、俺と彼女の間には生徒会選挙の立候補届が鎮座していた。
「岸上君……もう多くは語らないわ。これが最後のお願いよ」
「提出期限が近付いているからね……ところで緒方さん」
「何かしら?」
「仮に俺が出馬したとして――」
「出てくれるの!?」
勢い良く緒方さんが席から立ち上がる。
昼休みの学食という場所柄、何事かという視線が集まってしまった。
緒方さんが小さく咳払いをして椅子に座り直す。
普段一緒に食べる未祐はクラスの女子と、秀平は健治のクラスにパンを持って飛び込んでいった。
間を取るためにテーブルに視線を落とすと、水筒の蓋に注いだお茶がゆっくりと湯気を立てている。
「いや、仮の話だよ? 仮の」
「そんなことだろうと思ったわ。で、何?」
「声音が急に冷たくなったね……あー、出たとして。勝てるの? 既に対抗馬が二人ほどいるみたいだけど」
「何だ、そんなこと」
緒方さんは周囲を確認してから声をひそめる。
表情からして、既に出馬表明している副会長候補にあまり良い感情を抱いていないようだ。
「あんな内申点目当ての有象無象、岸上君の相手にならないわよ」
「おお、凄い自信だ。その上なんて厳しい言葉なんだ。グサッと刺さりそう」
彼女のお眼鏡に適う候補者は今のところいないらしい。
我が校の生徒会メンバーの総数は七人。
俺が要請されている副会長の枠は二年の中で一つなので、複数人が立候補した時点で選挙となる。
「だって二人とも、本当に下心が丸見えなんだもの。その上、仮に当選したとしても全然仕事ができないタイプよ? それで立候補だなんて、冗談じゃないってのよ。そんな有様なものだから、言葉がきつくなっても仕方ないと思わない?」
「俺はあの辺の女子グループとは交流がないから、何とも言えない。で、俺が勝てるっていう根拠は? 相手がしょぼいってだけじゃ、根拠としては弱いよね?」
俺が重ねて問いかけたところで、緒方さんが声をひそめるのをやめる。
僅かに考えるような素振りをしてから、再び口を開く。
「そうね……では訊くけど、岸上君。あなた、今年に入って何人の女子から恋愛相談を受けた?」
「え? ……個人個人の名前は挙げられないけど、十人は確実に超えているはず。緒方さんがおおよその人数も知らないってことは、未祐はちゃんと秘密を守っているのか」
意中の相手がいる女子と男が二人でいるのはよろしくないということで、そういう時は大抵未祐も一緒である。
相談内容は様々だが、重いものでなくプレゼント用の編み物指導とか料理指導のお願いだったりする度にホッとするものだ。
「思った通り、立派な人数じゃないの。それから……岸上君、定期的に料理を運動部に配っているじゃない?」
「あれは俺個人の功績じゃなくて、料理部の活動じゃないか。得票数に影響しないんじゃないの?」
「副部長に亘君がいるからこそ、男子の運動部員も寄り付きやすいんじゃない。強いわよ、そういうのがあると」
「そ、そっか……話を総合すると、勝算ありってことでいいのかな?」
「大ありよ。出てくれれば楽勝よ。岸上君、お願い! あなたが参加してくれるかどうかで、生徒会の未来は大きく変わるわ!」
「……」
さあ! さあ! と言わんばかりに緒方さんが立候補届をグイグイ押し付けてくる。
とりあえずそれを受け取りながら、俺は難しい顔で唸った。
「時間に余裕があれば、受けないこともないんだけどね……それこそ緒方さんは本当に何度も何度も、熱心にお願いに来てくれた訳だし」
「時間なんてものはやり方次第よ。例えば――」
緒方さんが滔々と生徒会活動の改善案を並べ立てていく。
その中には俺もなるほどと思う案がいくつもあり、彼女の熱意のほどが窺える。
……緒方さんがいれば、あの時のようなことにはならないだろうか?
放課後の拘束時間の長さは、話をしている限りどうにかなりそうにも思える。
越えるべき課題が沢山在りはするが、実現不可能というほどではない。
となると……
「――という形に持っていければ、前生徒会のようにはならないと思うの。どうかしら? もちろん、岸上君がバイトと家事で忙しいのは重々……重々承知の上で、それでも私はあなたに副会長をやって欲しいの。お願い。お願いします!」
俺自身が彼女の本気に応えることができるかどうか、それが問題だ。
生徒会……生徒会ね……。
正直、あまりピンと来ない。今のままの状態で引き受けても、いい結果になるとは思えない。
俺は考えた末、緒方さんに向かってこう答えた。
「……提出期限は五日後だったよね? 確か」
「え? ええ。そうだけど」
「ギリギリまで考えさせてもらっていいかな? もし立候補しなかった場合でも、今まで通り生徒会が忙しい時は手伝いに行くからさ」
「それは助かるけど、今ここで決めてはもらえないのね……」
緒方さんの目に落胆の色が浮かぶ。
申し訳ない気分になるが、こういうことを軽はずみに引き受けるべきではない。
何年も前にそれは経験済みだ。
「ごめん。でも、ありのままの素直な気持ちを言うとさ」
「言うと?」
「現状、俺にはやる気も動機も足りないんだよね。生徒会なんて面倒だっていう気持ちのほうが完全に上回ってる。緒方さんのことは好ましく思っているけど」
「あらそう? 私も岸上君のこと、好きよ? だって有能なんだもん」
「そりゃどうも。何にしても中途半端は一番駄目だと思うんだ。だからもう少しだけ待っていてほしい……最終的にどうなるかは分からないけどさ」
「……」
緒方さんが椅子から立ち上がる。
それを契機に時計を見ると、もう予鈴が鳴る寸前だった。
「……分かったわ。だったら、岸上君の副会長就任を望む人たちを集めて――」
「それはやめてほしいかな!? どんな顔で応対すればいいのか分からないし、プレッシャーで却ってやりたくなくなるって!」
「ふふっ、冗談よ冗談。少しでも迷ってくれたのなら、未祐と生徒会についての話をしてみてくれると嬉しいわ」
「未祐と?」
「そう、未祐と。それじゃあ岸上君、話を聞いてくれてありがとう。五日後を楽しみにしているわ」
「ああ。期待しないで待ってて」
最後まで及び腰の俺に苦笑を残して、緒方さんは先に学食を出て行った。
さて、ひとまず答えを先送りにしたが……どうしようかな。
ここは緒方さんの勧めに従い、折を見て未祐に話を訊いてみるとするか。