休日のバイト風景
「おはようございます。マスター、麻里子さん」
「ああ、亘君。おはよう」
「おはよう、亘ちゃん」
土曜の朝、出勤した俺は店主である老夫婦に挨拶してエプロンを装着した。
二人は店内の掃除をし、椅子を並べている所である。
マスターが日向史郎さん、奥さんが日向麻里子さんという名前だ。
商店街の裏路地にひっそりと建っている小さな喫茶店、ここが俺のバイト先。
かつては定番のコンビニチェーンやファーストフードの店員などもやったが、あの慌ただしさがどうにも肌に合わず……。
どんなバイトなら長く続けられるかと考えていた頃に、ふらりと引き寄せられるようにこの店に入ったのが最初の切っ掛けだ。
アンティーク調の落ち着いた雰囲気の店内、マスターの淹れるコーヒーの香りと美味さ――一目惚れだった。
「今日はサービスデーですからね。張り切って作りますよ!」
「無理しないでね。亘ちゃんったら、頑張り過ぎちゃうからオバサン心配よ」
「なんのなんの。麻里子さんが担当メニューを増やして下さったんで、随分と楽させて頂いてますよ」
「ふふ。では、本格的に開店準備を始めようか」
バイトは募集していなかったそうだが、無理を言って雇ってもらうことに。
というのも、この店「喫茶ひなた」は経営難により数ヶ月で閉店予定だったそうなのだ。
その後は色々な人の助けを借りながら経営を再建、今に至る。
このまま何事もなければ、高校卒業までこの店で働く予定だ。
「そういやマスター。ココアに塩とか胡椒を入れるとどうなります? 前に雑誌か何かで見たんですけど」
「うん? そうだなあ……塩なら甘さが引き立つだろうし、胡椒なら香りが良くなるケースもあるね。ココア本来の効能と合わせて、更に体も温まるだろう。亘君はスパイシーココアって知っているかい?」
「いえ。シナモンでも入れるんですか?」
「シナモンも正解。他には、生姜、唐辛子、ナツメグ、カルダモン……割と合わせるものはバリエーション豊かだね。味も香りも様々で、面白いよ」
「へえ。今度試してみようかな」
「ほーら、二人とも手が止まってるわよ。男の人ってすぐに蘊蓄を語りたがるから、やーね」
「あ、すみません」
俺の謝罪の横で、苦笑を残してマスターが看板を出しに行く。
俺はその間ひたすら調理を続け、生地を作っては型に流し込む。
それらが三個ほど焼き上がった時点で、いつも朝一で来店する常連さんが扉を開けて入ってくる。
「いらっしゃいませ」
「おはよう、マスター。モーニングのAセットね」
「かしこまりました」
注文を聞くと、マスターが手動のミルで豆を挽き始める。
暫くすると店内には良い香りが……はー、これだよこれ。
豊かな香りでありながら、調和のとれた繊細な――駄目だ、俺の語彙が貧しくてこの香りの良さを表現しきれない。
好みはあるだろうが飲んでも深いコクと後味の良い酸味が素晴らしく、俺はマスターの淹れるコーヒーが大好きだ。
朝の常連さんたちはモーニングセットであるトースト系やパスタ等の注文が多いので、一度そちらの準備メインに切り替える。
さっき焼いた物の出番は大体、午前十時くらいからになるだろうか。
調理と注文伺い、食器の洗いにテーブルの拭き掃除など忙しく動き回る。
朝食を兼ねた常連さんたちの波が引くと、ちらほらと若い女性の姿が増え始める。
「いらっしゃいま――あ、斎藤さん」
「オッス、岸上君。サービスデーだからケーキ食べに来たよー」
「ありがとう。今日は一人?」
「ううん、友達とショッピングに行くからここで待ち合わせ。後から二人来るよ」
「そ。では、テーブル席の方へどうぞ」
「はーい」
気持ち大きめに切り分けたシフォンケーキを皿に載せ、生クリームを添えてブレンドコーヒーと一緒に持っていく。
日替わりケーキセット、値段は500円のワンコインだ。
普段の値段はこれより100円高い訳だが……学生にとって100円の差は馬鹿にならないと個人的に思うのである。
なので、値段が下がる毎週土曜日は比較的忙しい。
朝からずっとかき混ぜ、型に入れ、大量に焼いていたのはこの日替わりセットの為のシフォンケーキだ。
このお店の弱点だった若い層の客の取り込み……その為に、ケーキを日替わりで安く提供することを提案したのはバイト開始から一週間後のこと。
元々店の食べ物系のメニューはトーストとパスタ系、甘い物は精々ホットケーキしか存在していなかったのが俺としては気になった。
手が足りないので常設メニューにチョコレートケーキ、それに加えて精々一種類までしか作れないので、仕入れによって日替わり提供という形になった。
そんなこの店のことを口コミで広めてくれた功労者は、実はこの斎藤さんだったりする。
インターネットが全盛になった今でも、オフラインでの直の口コミによる影響力は健在ということらしい。
今では、それが広がって地元の大学生なんかの姿も良く見るようになった。
「あ、キッシー私にもケーキセット」
「わたるん、私もー」
「岸上君、コーヒーおかわりー。シフォンケーキふわふわー。うまー」
「……はい、少々お待ちくださいませ」
どうして俺の呼び名は、人によってこんなにもブレブレなんだろう?
注文の声が聞こえたのは、気が付くと女子三人に増えていた斎藤さんのテーブルからだ。
この時間は少し賑やかで……正午付近になると、また来店する年齢層が上がり店内は静かになる。
午後三時以降から夜の早い時間までは再び若い層が増えて賑やかに。
元の客層と合わさり、上手く店が回転しているのを感じる瞬間だ。
「ありがとうございました」
斎藤さん達が満足した様子で店から出て行く。
買い物した後にお金があったらまた来ると言っていたが……あの感じだと望みは薄いな。
勢いに任せて色々と買ってしまうノリですよ、ありゃあ。
一時期、若年層が増えすぎて静かな店の雰囲気を壊しているんじゃないかと心配したこともある。
しかし二人は、孫が沢山増えたみたいで嬉しいと肯定的なのが幸いだった。
以前からの常連さんと来店時間がそれほど被っていなかったこともあり、それによる客離れも無かったので当時は心底ほっとしたものである。
斎藤さん達を見送り、調理場に戻った俺にススッと麻里子さんが寄ってくる。
この人は年の割に動きも感性も若々しい。
なので、割とこんなことを俺に訊いてくる。
「亘ちゃんはモテるわねぇ。あの三人の中だったら誰が良いの?」
「やめてくださいよ、麻里子さん。大体、あれの三分の二は彼氏持ちですよ?」
「あら、残念ね」
「別に残念じゃないです」
リア充爆発――はしなくてもいいか。
どうせなら彼氏も連れて店に来て欲しいものだ。売り上げに貢献したまえ。
ちなみにフリーであるところの三分の一は斎藤さんだ。残念ながら、競争率は高いがね。
忙しかった午前と昼食時のピークタイムを終え、少し客足が落ち着いた時間。
そこにふらりと現れたのは、昨夜と違いすっかり元気を取り戻した秀平だった。
「よーっす、わっち。暇だから冷やかしに来たぜ!」
「……マスター、こいつにブルーマウンテンをストレートで」
「こらこら、亘君」
「ちょちょちょ! 一杯1000円近いコーヒーなんて、俺飲まないよ! そんな味が分かる高尚な舌じゃないし!」
「来たなら何か頼めよ。でないと、ブラックアイボリーを無理矢理飲ませるぞ」
「俺の一月分の小遣いが飛んじゃう! ……え、えっとー……ブレンドコーヒーとピザトーストで。わっち、暇なら話相手になってよ」
ちなみにブラックアイボリーは象の糞から採れる特殊なコーヒー豆で、一杯数千円からする最高級豆だ。
偶にスーツでバッチリ決めた常連の紳士が注文していくので、ウチの店でも少量取り扱っている。
秀平は他に誰も客が居ないのを見ると、テーブル席について俺を手招きした。
まだ勤務中なんだがな……マスター達の方を見ると、構わないよという優しい笑顔。
「亘ちゃん、行っといで。お昼まだだったでしょう? 賄い、何か作るわよ」
「あ、いいんですか? じゃあ……ナポリタンで」
「はいはい。席に持っていくから、ゆっくりしていて。お友達と一緒に」
「ありがとうございまーす! わっち、ほらほら」
「ああ、今行くよ。では、お言葉に甘えて休憩に入ります」
「うん、どうぞ」
秀平のことだしどうせゲームの話だろうな、と思いつつも。
自分の顔も少し緩んでいる自覚があるのが困りものだ。