旅行初日
旅行の出発日、俺は朝から忙しく準備に追われていた。
といっても、自分のためのものではなく……。
「これでいいかな、母さん? 新人さんのお弁当」
「ありがとう、亘! 愛してる!」
「はいはい……」
主に母さんのための準備だ。
前にお願いされていた、出来合いのものばかり食べているという新人看護師さんのお弁当作りである。
その新人さんの好みもしっかりと盛り込んだお弁当にしたが、気に入ってもらえるだろうか?
ついでに、母さんのために用意した作り置きのおかずなども再度チェックしておく。
「……二日分でいいんだったよね?」
「うん、三日後には温泉に行くからねー。楽しみー」
「それは分かっているけど、用意したおかずはしっかり食べ切っておいてほしいな。残しておいても傷むだけだから」
「そうやって私を太らせようっていうのね!? 酷い息子!」
「ちゃんとカロリー計算したっての……」
「あはは、冗談冗談。亘たちも気を付けて行くのよ?」
今回の旅行だが、偶然日程が母さんの温泉旅行と被った。
帰ってくる時期は大体一致しているが、鍵を持ち忘れた場合は悲惨なことになる可能性が……気を付けよう。
母さんの声に理世が洗面所から戻って返事をする。
「はい。明乃さんも、温泉でゆっくりなさってきてください。道中お気を付けて」
「んー、よそよそしさの中に見え隠れする優しさが堪らないわ! 理世ちゃーん!」
母さんに抱きしめられ、理世が困惑の表情を浮かべる。
助けを求めるようにこちらを見るが……短期間とはいえしばらく離れ離れになるのだから、母さんの好きにさせてやってほしい。
俺がそんな視線を返すと、理世は嘆息した後にされるがままになった。
「ところで亘、未祐ちゃんは起こさなくていいの? 今日も家に泊まってるんでしょ?」
「ああ、そろそろ起こすよ。って、いつまで理世を抱きしめたままなんだよ? 母さん」
「素晴らしいフィット感よねえ。腕の中にすっぽりで……亘もやる?」
「――!? 是非、是非! 兄さんも是非に!」
「……」
俺が答えあぐねていると、大あくびをしながら未祐が階段を下りてきた。
ナイスタイミング。起こす手間も省けた。
「おはよ、未祐ちゃん!」
「ぉはようございます……む、理世もいたのか。あまりにも明乃さんと一体化していて分からなかったぞ」
「放っておいてください。全く間の悪い……」
「?」
その隙に俺は朝食の準備のためにキッチンへ。
さてと、そろそろ朝食を摂らないとマリーたちが迎えに来る時間になってしまう。
「師匠ー! 未祐さん、理世さん! お迎えに上がりましたー!」
さらさらショートヘアの可愛い女子……ではなく、司が門の前で俺たちに手を振る。
母さんは先に仕事に出たので、しっかり玄関に鍵をかけてからそちらへと向かう。
「おはよう、司。今日は私服なんだな」
「おはようございます。そうなんですよ。お嬢様が、旅行中は自分の世話はほどほどで構わないと仰ってくださいまして。肩肘張らずに済むように、私服でと」
「ああ、なるほど」
真面目な性格だからな、司は。
マリーの気遣いが効果を発揮しているのか、確かに普段よりもいくらかリラックスして見える。
一方で、車内に見える静さんはいつも通りメイド服であるが。
「ああ、お前ワル――司だったのか。どこの女が私たちを呼んでいるのかと、一瞬勘違いしそうに――」
「こら、未祐!」
その発言に司は「はうっ!?」などという声を上げて衝撃を受けた。
失言に気付くや否や、未祐が慌てて頭を下げる。
「す、すまない! 司はそういうのを気にしていたのだったな……うっかりしていた。無神経で本当に申し訳ない!」
「い、いえ。はっきり言っていただけた方が改善のためには参考になりますから……今日のボクの格好、どこがいけないのでしょうか?」
そう言われ、俺たち三人は司の格好を上から下まで観察してみる。
頭にはお洒落なキャップ、柔らかな色のシャツにハーフジーンズから伸びた綺麗な生足……。
男が着てもおかしくない服装なのだが、司が着るとただのボーイッシュスタイルにしか見えない。
「とりあえず、この足を隠してみるか? それだけで多少は印象が変わるような」
「そうだな。というか、美脚過ぎないか? 生半可な女では太刀打ちできんぞ、これは」
「すね毛の一本もないように見えるのは私の気のせいでしょうか? シャツから伸びる腕も細いですし……」
「あ、あの……?」
三人であれこれと話していると、司が後ろを気にしながら問いかける。
いかん、マリーが何をしているのかとイライラした顔で車内からこちらを見ている。
車種は最初に現実で会った際にも乗っていた、大型乗用車だ。住宅街の景色からは非常に浮いている。
「悪い悪い。そうだな、今から買いに走る訳にもいかんし……司、試しに俺のお古のジーンズでも履いてみないか?」
「え、師匠の!?」
「嫌か? ちゃんと洗ってあるし、多少は男らしく見えると思うんだが……足が出ていないと暑いか?」
「あ、このハーフデニムは屋敷のメイドさんたちが選んでくださったものなので。長いデニムでも特に暑いということはないですよ」
司の言葉に俺たちは顔を見合わせた。
それ、周囲の環境にも大分問題があるな……確かに似合ってはいる、似合ってはいるのだが。
やがて司はおずおずと顔を上げ、
「そ、その、お願いしても……?」
「ああ、じゃあ司はちょっと家に上がってくれ。未祐はマリーに事情を伝えて、そのまま話し相手にでもなっておいてくれ」
「分かった。先に車に行っているぞ!」
「理世、確か俺の中学一年のころのジーンズが手つかずで残っていたよな?」
「ありますね。兄さんの背が伸び始めた時期のもので、数回しか履いていない、状態の良い物が。サイズも司さんに合うかと思います。ただ、正直兄さんのお古を手放すのは惜しいのですが……」
話をしながら俺は玄関の鍵を開け、一度荷物を玄関に下ろした。
司には洗面所ででも着替えてもらうとするか。
洗面所なら中から鍵もかけられるしな。
「どうしてお前は俺のお古をそんなに貴重品のように扱うのか分からんが……何が望みだ?」
「ジーンズの代わりに、今度兄さんのお古のシャツをください」
「変な交換条件……」
デニム生地をつぎはぎにして何かを作る計画でもあるのかと思ったら、どうも違うようだ。
シャツなんて何に使うのか分からないが……。
「とりあえず時間がないから、何でもいいよ。部屋からジーンズを取ってきてくれるか?」
「承知しました。少々お待ちを」
俺たちのやり取りに目を白黒させている司と共に待っていると、三着ほどのジーンズを持って理世が二階から戻ってくる。
それに洗面所で着替え、戻ってきた司は……。
「何だか、師匠のお古と聞くと尚更男っぷりが上がったような気がします! どうでしょうか!?」
「うーん……うん、前の服装よりはずっといいぞ。な、理世」
「ええ、そうですね。ハーフジーンズよりはずっといいでしょう」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
相変わらず男の子っぽい格好をした女の子にしか見えなかったが、相対的にはマシということで。
改めて、そこでようやく家を出るということになった。