今と昔の帰り道
午後の授業がはじまったと見えて、校舎内は静かだった。
他校の制服の男が休み時間に歩いていると、どうしても注目されただろうから、いいタイミングになったかもしれない。
ちょうど授業なしで空き時間だという担任の先生が来てくれて、保健室に向かって案内されていく。
物腰の柔らかい、眼鏡をかけた女の先生だ。
「……夏休み明け、二学期頃からでしょうかね?」
「え?」
軽い世間話……俺の高校に関してだとか、抜け出して迎えにきて平気だったかとか、そういった話の後に。
俺の人柄を推し量るようにしてから、理世のことを切り出した。
「周囲に無関心だった、理世さんの態度が随分と柔らかくなりまして」
「はあ」
「彼女と話すクラスメイトが、以前と比べて増えたのを憶えています」
「……」
これは……親とかにするタイプの話を若造の俺にしてくれている気がする。
今のところの印象だと、いい先生っぽい。
「もう高校生ですから、私ども教師が生徒の私生活や人間関係に口を出すのは難しい。ただ、きっと理世さんは勉強以外の部分で以前よりも充実してきているのだろうと」
「それは……そうかもしれません」
ゲームで交友関係が広がったんですよ、きっとそれが原因ですとは言いにくい。
それと、俺が知らない他の要因が……いや、ないか。
訊かなくとも逐一教えてくれるのが理世なのである。
さすがに新しい下着を買っただのは伏せてほしいと思うが。
「どうか、今後も伸び伸びとやらせてやってください。今回、体調を崩したのは残念ですが……」
「は、はい」
「大丈夫です。彼女の成績が落ちる様子はありませんから」
「はは……」
それは知っている。
というか、ゲームが適度な休憩になっているのか、前よりテストでのミスが減ったようだ。
知識や記憶の定着率が上がった、というのが本人の弁。
でも、ゲームをやっていたせいで変な寝方をしました、そのせいで体調不良です――とは言えないよなぁ。
……それはそれとして、進学校の教師がそんなことを言っていいのだろうか?
「意外でした。せっかく成績がいいのだから無理をさせるな、余計なことをさせるな――なんて言われると思っていました。理世、期待されていますよね? 難関大学への合格とか」
「進学校の教壇に立ちながら、言うことではないかもしれませんが。私は子どもに勉強だけをさせる教育方針には反対なのです。また、学校側の実績なんかも……と、失礼」
「いえいえ」
今、どうでもいいって言いかけたな。
この人、人としては信用できそうな雰囲気がある。
反面、組織人としてはちょっと心配だ。
上司に反抗して左遷されるタイプじゃないか? 大丈夫か?
行く末が心配になる担任の先生は、一度職員室に戻るそうだ。
そして俺は保健室の前に立っている。
……今のうちに理世を起こして帰り支度を済ませよう。
「失礼します」
中には養護教諭がいる……と思いきや、ベッド脇の椅子から立ち上がったのは女子生徒。
それも見知った顔だとわかり、俺は肩の力を抜いた。
「おにーさん! お早いご到着で! さすが!」
「やあ、楓ちゃん。授業は――」
「知らん! 知りません! 理世ちゃん優先!」
「――さいですか……」
ここ、進学校だよなぁ? いいのだろうか……。
基礎がしっかりしていれば多少の休みや遅れは関係ない、というのは理世が証明しているが。
でも、楓ちゃんの入試のときの成績って、確かギリギリだったと聞いたような……。
「ともかく。連絡と見守り、本当にありがとう。理世は……」
ベッドを見ると、眠る理世は血の気の薄い顔こそしていたものの。
浅い呼吸を繰り返すようなことはなく、安定して胸が上下していた。
心配だったが、これなら復調も早そうで安心した。
「微熱があるみたいです。咳とかはないので、感染するような風邪ではないと思います」
「そっか」
「だから安心して看病してください! しっぽりと!」
「そ、そうだね……しっぽり?」
楓ちゃんの言葉は時に――いや、割と頻繁に理解に苦しむ。
彼女が理世の味方で、理世のことを大好きということは伝わってくるが。
楓ちゃんは理世の顔に目をやり、自分の両頬に手を添える。
「はぁ……ちょい苦しそうですけど、それでも尚、かわいいですねぇ」
「そうだね」
「寝顔だけ妙にブサイ! とかでもギャップ萌えでかわいいですけど、理世ちゃんは崩れませんねぇ。寝顔まで美人さんかよぉ! 無敵かよぉ!」
「ソウダネ」
楓ちゃんの興奮を鎮めるのは大変だったが、合流した担任の先生の助力もあってなんとか成功。
二人は校門前まで見送ってくれてから、お大事にと言い残して校内へと戻っていった。
無事に理世を回収したので、駅に向かって再びの徒歩移動だ。
平日昼間ということで、人通りは少なく歩きやすい。
「よっ……っと」
途中、背負った理世の位置を軽く直す。
理世の通学鞄を肘にかけているので、少しだけ背負うのが難しい。
歩きで大丈夫かとか、車を出そうかと言われなかったのは、症状が軽いという理由もあるだろうが……。
おそらく理世が小さく軽いからだろう。
口が裂けても本人には言えないが。
「……ん」
背中で身じろぎする気配。
吐息が首筋にかかって震えそうになったが、必死にこらえる。
起きて早々、兄のそんな姿を見せるのは忍びない。
努めて平静な声で呼びかける。
「起きたか?」
「兄さん……」
頭の回転が速い妹だ。
起き抜けの頭でも、事態をすぐに把握したのだろう。
慌てるようなこともなく、微熱の残る体を背に預け直してくる。
「ふふ」
「なんだ?」
「兄さんの背中……最近は愛衣さん――シエスタさんに取られていましたけど、今日は取り返せました」
「そうだなぁ。昔は今よりずっと頻繁に、こうして背負って帰っていたもんな」
昔に比べて体格差ができたからか、現在の足取りは随分と軽いが。
俺のほうはまあいいとして、理世はなにを食べさせてもあんまり大きくならないんだよな……。
記憶を掘り起こしてみても、幼いころの姿と比較して、そこまで受ける印象が変わらないというか。
「懐かしいです。兄さんは今より少しだけ、ぶっきらぼうで無愛想でした」
「理世も身内以外の他人に対して、今よりもっと攻撃的だったぞ……?」
「そうでしたか? ……兄さんはゲームと同じくらい、外で遊ぶのが好きでしたよね」
「球技とかの運動が不得意だったのは変わんないけどな」
体を動かすこと自体は嫌いではない、ということなのだろう。今も昔も。
それはそれとして、理世はなにを言いたいのだろう?
互いの父のことを思い出すせいで、俺たちが昔の話を積極的にする機会は少ない。
「でも、どんなに外で楽しく遊んでいる最中でも……兄さんは、私が苦しそうだと帰らせるのを一番に優先してくれましたよね。ゲームをしている時なら、コントローラーを放り投げて診てくれました」
「そう……だったかな?」
幼いころの理世は、体調を崩す回数が今よりずっと多かった。
それは学業中に限らず、休日の家の中、外で遊んでいる最中などでも例外ではなく……。
ただ、そのことを幼少期の自分が割り切れていたかというと、そうでもなかったはずだ。
「どうして自分ばかりがこんな面倒を」なんて、内心で思ったことがないとは決して言えない。
そしてそれは聡い理世には伝わってしまっていたはず。
露骨に態度に出てしまっていたことも、きっと何度もあるだろう。
「そうですよ。理性の働きが弱い、感情的で幼いころからずっと。ずっとです。今だって」
「……」
「ありがとうございます、兄さん。大好きです」
それでも尚、理世は感謝の言葉を口にした。
……そんなの兄として当たり前ではないか、とは思ったが口にはしない。
だって恥ずかしいじゃないか。
改まってのお礼も、それに添えられた言葉も。
「小さかった兄さんも、いつの間にか、こんなに大きな背中になって……」
「……撫でまわさないでくれるか? いや、胸元ならいいとかそういう話じゃなく――なんでネクタイを緩める?」
「兄さんの汗の匂いを嗅ぎたいなって」
「素直に言ったからって、なんでも許されるわけじゃないからな!?」
いい話をしたと思った次の瞬間にはこれである。
もしかしたら、照れている俺に気を遣ってくれたのかもしれないが。
昨日に続いて体臭の話をされたせいで、俺の入浴法に重大な間違いがあるのかと疑いたくなってしまう。
「……まったく。一応このまま病院に寄って、問題なければまっすぐ帰るからな」
「はい。川田クリニックですよね? やはり診察券を持ち歩いていて正解でした」
「本当はないほうがいい習慣だけどな、それ」
病気や体調不良なんて「診察券どこにしまったっけ?」となる程度がいいに決まっている。
……帰ったらなにを食べさせようかな? などと考えつつ。
俺はそのまま、理世を背負って駅に歩を進めるのだった。