秘密
三章
「これ、お願いします」
唯一の趣味のような図書館通いも、最近はめっきり減ってしまった。理由は明白だ。翠がいるからである。あの日の一件は、なんとか無事に解決した。無事と言っても誤解を解くのに丸一日費やしたが。正直言って思い出しただけでも疲れが押し寄せてくる。そして納得されたかどうかは知らないが、代わりに蒼が翠の世話役に任命された。父母に理由を尋ねれば『だってお似合いじゃん』とのことだった。もう諦めたがやはり誤解は全く解けていないようだ。
また、翠についても一つわかったことがある。丁寧な言葉使いや静かな立ち振舞いに惑わされたが、実はかなりのやんちゃ者だ。実のところ、蒼はあれから毎日のように町のあちこちを案内させられている。元々小さな町を二日もかけて隅々まで散策したり無駄に広い田園地帯を一日中歩いたり。その時に、電柱に登ってみたいだとか水の張った水田に入ってみたいだとか言い出した時は流石に慌てた。日和も誘って山の中で数年ぶりに虫取をやったりもした。普通は、女の子は近づいただけで悲鳴をあげるような虫をわけもなくに手に取ったり(日和はもう性格や立ち振舞いから女だとは思えない)、毒はなく小さくておとなしいが立派な蛇を捕まえてきた時は逆にこっちが度肝を抜かれた。そんな中で、ふと気づいたことがある。普通に楽しいのだ。別に大したことをしているつもりはないし、むしろとうの昔に飽きたはずのことばかりなのに、不思議と退屈しなかった。さらに言えば、本来なら今日も駅前周辺をブラつく予定だった。だが一つ大きな問題が現れた。いや、正確には思い出した。
学校の本の貸出期限である。正直、自分自身が一番驚いている。今までは期限の前に借りた本を全部読み終わっていたことがほとんどで、今回のように期限日すら忘れていたことなど絶対になかった。
「珍しいよね」
「え?」
「いや別に。ただ空野くんが期限最終日に返却するなんて滅多にないことだから。それに今回は三冊した借りてないし」
それ見たことか。ただでさえ利用者が少ないのに常連のせいでにすっかり顔馴染みになってしまった図書委員からも不思議に思われている。
「あー、なんて言うか、ちょっとこの夏は忙しくなりそうで。ぶっちゃけ今回の貸出期限も忘れてたぐらいだったから、次は少なめにしておこうかな、と」
「へえ。それ、結構続きそう?」
「どうだろう?まあ長くても夏休みいっぱいだろうけど」
「ふうん。じゃあはい、これ。貸出期限延ばしといたから」
「え?」
貸出用紙を見ると、期限が九月二日、つまり登校日初日になっていた。
「知り合い特権ってやつかな。空野くんは律儀な人だし信用できるから。まあ、たまには、ね。ついでに他に何か借りてく?」
「いやあ、ほんと助かる。じゃあ悪いけど、何冊かつい……」
「おーい、空野いるか?」
「か……はい?」
よく見知った担任の教師が突然図書室に入ってきた。蒼と図書委員は顔を見合わせる。ただでさえ人の出入りがない図書室に担当でもない教師が顔を出すのは普通じゃない。
「何か、あったんですか?」
「いきなり悪いな。いや別に大したことじゃないんだが、なんか見かけない女の子がお前を探していたそうだ。心当たりあるか?」
「あー……」
該当する人物は、一人しかいなかった。
「一応あるにはありますけど、彼女今何してます?」
「職員室で預かってる。親戚か?」
「いえ、ちょっとした訳ありで……」
「恋人だったりして」
図書委員が呟く。
「からかうな。ちょっと悪いんだが先に迎えに行ってくる」
「はいはい。行ってらっしゃい」
「そんじゃ行くか」
そういうことで蒼は教師に連れられて職員室に入り、さらにその奥にある応接室に通された。そして予想通りそこにいた翠は、窓の外からグラウンドを眺めていたが、蒼に気づくとすぐに彼に駆け寄った。
「いったいこんなところに何しに来たんだよ?」
「ごめんなさい、どうしても蒼くんの通ってる学校が見たくなって、つい来ちゃったの」
そう言って苦笑して顔の前で両手を合わせる。普段から振り回され突拍子もない行動に慣れていた蒼は、ため息以外に出るものがなかった。
「だったら僕が出た時一緒に来ればよかったじゃないか……」
「しょうがないじゃん、蒼くんがいなくなってから暇になったんだもん。そしたらおばさんが蒼くんの通ってる学校にでも行ってきたらって言うから……」
「暇って……茜はいなかったのか?」
「茜ちゃんはなら、日和さんや遊びに来たお友達と一緒に街に行ったよ」
「あっそ……」
「迷惑、だったかな……?」
翠はおどおどとした口調で口のあたりを両手で隠しながら、上目遣いで見つめてくる。これは芝居だとわかっているのだが、いくらなんでも反則すぎる。結局、蒼はぐうの音も出なかった。
「とにかく、今さら来ちゃったものは仕方ないだろ。もう何も言わないよ」
「うん、ありがとう蒼くん」
するととたんに一変して綺麗な笑顔になる。やっぱり反則だ、と蒼は呆れた。
「あー、二人の世界に入ってるとこちょっとすまないんだが……」
教師が気まずそうに口を挟む。
「結局のところ、お前ら二人はいったいどういう関係なんだ?」
「彼女が僕の母の友人の娘で、今僕の家に泊まってるんです」
「ふむ……」
蒼の簡潔な説明を聞いた教師は腕を組み少しの間何かを考え、やがて何かを納得したようにポンと手を叩いた。
「なるほど。どうりで北上の調子が悪いわけだ」
「はい……?」
蒼はあまりの話の飛び方に着いていけてなかった。隣の翠も、わけがわからないと言いたげにキョトンとしている。補足しておくと、この教師、実は日和が所属する陸上部の顧問だったりする。今日は週に一度の休みだが、いざ練習になるとかなり厳しくなると彼女から愚痴られたことがある。
「いやな、最近の北上なんだがタイムがあまり良くなくてな。体調が悪いようには見えなかったんだがいまいち集中力に欠けているみたいで……。なるほどな、彼氏がこんな美人と一緒に住んでるんじゃ、確かに気になるわけだ」
「は?」
「え?」
「ん?」
一気に静まり返る。そして蒼はそれ以上に混乱していた。
恋人?僕と?日和が?
「あの、先生。一つ聞きたいんですけど……」
「なんだ。言っておくが、三角関係のアドバイスなんかできんぞ?」
「なんでそんな泥沼前提なんですか……。って、そうじゃなくて、どうして僕と日和が付き合ってるって思うんですか?」
ついでに言うが翠の視線が怖い。一見すると興味津々に無邪気な眼差しで見つめてくるようだが、その中にはまるで喉元に刀でも突きつけられているかのような殺気が感じられる。教師は気付いていないようだが、家庭内で培われた経験が最大級の危険信号を発していた。
「別に、僕達そんな関係じゃ、ナイデスヨ?」
奇妙な不気味さに思わず片言になる。自分のあまりの挙動不審に冷や汗がドッと出た。
「そうかぁ?」
だが、教師は納得していない様子だった。
「毎朝一緒に登校して来て、一緒に弁当食って、北上の部活が終わったら待ち合わせしてて一緒に帰って。こりゃ普通はデきてるって思うだろ?」
「それは、朝はあいつが毎回部屋に乗り込んできて無理矢理連れてかれて、昼だってこっちは一人で静かに食べていたいのに問答無用で押し掛けてきて、放課後だって方向が同じだからって勝手に決められて……。僕は仕方なく付き合ってるだけですよ」
それを聞いた教師は口をあんぐりとさせてポカンとなり、翠は逆に滲み出るプレッシャーが更に増した。
「だ、だから別に日和とはなんとも……」
不意に、教師が蒼の肩をポンと叩いた。
「へっ?」
「まあ、あれだ。お前ももうちょっと、北上のこと気遣ってやれ」
「は、はあ……?」
「それより、隣のお嬢さんどうすんだ?お前に任せていいんなら俺はもう行くが」
「……だ、そうだけど、み、翠はどうする?」
相変わらずの酷い威圧感が蒼を襲う。
「別に?私はどっちでもいいよ?一人で先に帰れって言うならすぐに帰るし、蒼くんの用事が終わってから一緒に帰ってもいいよ?あ、でも一緒にいたらまた変な誤解されちゃうかもね?」
「えっと、それじゃあ……」
「へえ、蒼くんってこんなに熱い中、女の子一人で歩かせるんだ?来るだけでも大変だったのに、もしかしたら倒れちゃうかも」
いったいどうしたらいいんだよ?
「おい空野」
教師なんかは明らかに笑いを堪えていた。
「刺されるなよ?」
「はい?」
「あとお嬢さんも、あんまりこいつを苛めてやるな。これでも一応、悪気はないからよ。それじゃ、あとは若者に任せて中年親父は退散するか」
「え、ちょっと、先生!?」
教師は笑いを堪えたまま職員室に戻ってしまった。残るのは呆然とする蒼と機嫌が悪い(?)翠。蒼は愕然とし、最良と思われる判断を下した。
「えっと、とりあえず図書室で本借りてくるから、それ終わったら帰ろう」
「蒼くんに任せますよ」
そして、それからずっと気まずいまま職員室を通り過ぎ、蒼は図書室の扉を開けた。
「やあ、おか……何があった?」
蒼の顔を見た瞬間、図書委員が怪訝な表情をする。そこまでに蒼に顔色は悪いらしい。
「よくわかんないけど、変な揉め事に巻き込まれたみたい」
「……まあ、頑張れ。っと、向こうにいるのが例の?」
「あ、うん。今僕の家に泊まってる海原翠。よくわかんないけど、なんか今日は機嫌が悪いみたいだけど」
「ふうん。まあ、刺されないように気をつけなよ」
「…………」
教師と同じことを言う図書委員。これは単に自分が超が付くほど鈍いのか、もしくはこの図書委員の察しがよすぎるのか、蒼には判断が全くつかなかった。
それから数日、空野家には険悪な雰囲気が漂っていた。原因は、言わずもがな蒼と翠である。蒼が学校に行った翌日に、翠に今日はどこに行くか、と尋ねたら『私が一緒にいると迷惑かかるんじゃなかったの?』と一蹴されて、それ以来二人の間はギクシャクしていた。どれほど酷いかというと、蒼が車に跳ねられた時に腹を抱えて大笑いしていた茜が、あまりの気まずさに近づくことすら躊躇われるほどである。
無論、蒼が耐えられるわけもなく、彼は一人で山のとある場所に来ていた。
「あー、やっぱりここにいたあ」
木の上で寝転がっていると、下から茜の声が聞こえた。
そこは、蒼と茜と日和が昔に山のとある場所で作った秘密基地のようなところだった。蒼は前から何かしらショックな出来事があると、ここに来て時間を過ごすことが多かった。
「何しに来たんだよ?」
明らかに落ち込んでいる声色に、茜は思わず苦笑する。
「だって、最近の蒼兄と翠さんおかしいじゃん。みんな不思議に思ってるんだよ。いったい何があったのさ?」
「それがわかってたらこんな所でふてくされてるわけないだろ?」
「じゃあさぁ、せめて一体いつからおかしくなったかわかんないの?それだけでも全然違うんだけど」
「そうだなあ……。翠が学校まで来た日かなぁ……」
「いやそれはもう皆分かってることだから。私が聞きたいのは、その学校の中で何があったのかってこと!」
まったくもう、と茜は呆れてため息をつく。
「う~ん、どうだろう……。あ、そういえば」
「ん、何か思い出した?」
「まあ、関係あるかわかんないけどさ、日和の話になってから翠の様子がなんかおかしくなった気がするんだけど」
「あー、日和さん絡みか……。なーんかだいたい予想がつくけど、ちなみにどんな話だった?」
「うちの担任の変な勘違いだよ。なんか僕と日和が付き合ってるとかなんとか。そんなことありえないって言ったら、朝から下校するまでずっと一緒にいるじゃないかって言われた。そしたら翠まで機嫌悪くなったみたいでさ。こっちは無理矢理付き合わされてるようなもんなのに、わけがわからないよまったく」
「…………あは、あはははは……」
蒼の愚痴に、茜は顔をひきつらせることしかできなかった。
「ねえ蒼兄、本当になんで翠さんが変になったかわかってないの?」
「だから、それがわかってたらこんなところにいないって」
ふう、と深いため息が聞こえた。どうやら本人はかなり参っているらしいが、茜は逆にふつふつと怒りが込み上げてきていた。
「なーんで蒼兄ってこんな簡単なこと気づけないのかなあ。やっぱり根暗だから?根暗だからなの?っていうか日和さんも日和さんだよね。さっさと自分に正直になって突撃すればいいのに何やってるんだか。そうやってモタモタしてるから翠さんみたいな超強力なライバル出てきちゃったじゃん。あーこれどうするのまったくもう。蒼兄と翠さんって意外と相性良さそうだし翠さんがアタックしたら日和さんどうするのよ。ってこれ立派な三角関係じゃん。蒼兄みたいにヘラヘラしてるのってもしかしたら刺される?ヤンデレくるの?うわ、マンガだと面白いけど身内沙汰だと嫌だなー。面倒だけどなんとかしないといけないのかなあ…………」
下で茜が何か呟いているのだが、声が小さくてよく聞こえない。蒼は気になって木から身を乗り出して覗き込んだ。
「茜?」
「なに……?」
何故だろう、急に機嫌が悪くなったらしい。鋭い目つきでおもいきり睨み付けてくる。身に覚えがないのだが、翠の件もあるし、気づかないうちに何かとんでもないことをやらかしたのだろうか。
「いや、原因がわかったのかな~って思ったんだけど……」
「わかったよ?よぉくわかったよ?っていうかさっさとなんとかしろこの朴念仁!」
「……はあ?」
「あーもうなんで気づかないかなぁ。翠さんはね、ヤキモチ妬いてるのよヤキモチ!」
「…………は?」
正直、何を言ってるのかわからない。
「あのねえ、自分にすっごく優しくしてくれてる男の人がいてそれが嬉しいのに、その人が別の女の人ともイチャイチャしてたら、誰だって怒るに決まってるじゃん」
「そういう、もんなのか……?」
「そういうものなの!」
「そういうもんか……」
だが、いまいちピンとこない。第一、それがわかったところで何をどうしたらいいのかすらわからない。
茜は、妹だけあってそうした蒼の心境が手に取るようにわかった。
「あーもう、あれこれ言ってもどうせ無駄だと思うから結論だけ言うからね。今度は蒼兄の方から翠さん誘いなさい。『泊まっている友達』じゃなくて『海原翠っていう女の子』を誘うの。わかった!?」
「お、おう……」
あまりの気迫に頷くしかなかったが、正直何もわかってないのが本音だった。茜はそれを察したのか、白い目で睨み付けてくる。
「わかってないでしょ」
「あれでわかる方が凄くない?」
「あーもうどうして蒼兄はここまで乙女心を理解できないのかなあ」
「僕は男だぞ」
「いやそういう問題じゃなくて……、っていうか蒼兄って一緒に出掛ける時って翠さんの付き添いしかしてないけど、蒼兄のお気に入りの場所とかないの?」
「……別に、こんな何もない町にそんな場所あるわけないだろ?」
嘘だった。実のところ、一ヶ所だけ心に響くほど凄いと感じた場所があった。そこは山を歩いていて迷った時に偶然見つけた場所で、まだ誰にも話したことはない。無論、茜や日和にも言ってなかった。
茜がじっと見てくる。その目つきは心の奥底まで見られているようで蒼は視線を思わず逸らした。
「やっぱり嘘じゃん」
「だから……」
「残念、蒼兄って嘘つく時絶対に目逸らすからすぐにわかるんだよね」
「…………」
ぐうの音も出なかった。やはり、身内が相手というのはどうもやりにくい。
「まあ、蒼兄が私達に言ってないってことは何か理由があるんだろうけど、それって翠さんもダメなわけ?」
「それは……」
少し、想像してみる。すると、あの場所に翠が居ても不思議とあの独特の雰囲気は壊れなかった。
「そうだな、誘ってみる。いろいろありがとな」
「ふっふん、感謝しなさい崇め奉りなさい。とにかく、さっさと仲直りしてよね。こっちも微妙に迷惑なんだから」
「そうするよ。もしこれがダメだったら土下座でもするさ」
「蒼兄の土下座……ちょっと見てみたいかもってそうだった。そういやお母さんから頼まれ事あって来たんだ、忘れてた」
「おいおい……」
頼りになると見直した途端にこれだ。やっぱり、茜はどれだけ賢くなっても結局のところ茜だった。
「これ、お弁当とお茶。ここに置いとくからね。あとお母さんからの伝言。夕食までには帰ってきなさいって」
茜がリュックを蒼がいる木の根元に降ろす。すると、すぐに帰り道に歩き始めた。
「おい、食べていかないのか?」
「これから友達と遊ぶ予定があるの。その子の家でご馳走になるから大丈夫」
「そうか、気をつけてな」
「蒼兄も、さっさと食べちゃいなさいよ。じゃね」
駆け出してすぐに茜は見えなくなった。蒼はもうすでに空腹を感じていたので言われた通りに木から降りて早速弁当箱の蓋を開ける。
「ん……?」
ふと、何か違和感を感じた。別に明らかに食べられない物が入っているとか異臭がするとかいうものではなく、ただなんとなく普段作ってもらっている弁当と違うように感じられた。そして、しばらく眺めているとその違和感の正体が見えてきた。見た目が綺麗だった。
蒼の母親は一言で言えばいい加減をそのまま人間にしたような人物で(蒼の家族は大体そのような気もするが)、それは無論弁当の中身にも影響していた。昨晩の夕食の残り物なんかは当たり前で、日の丸弁当も珍しくなかった。酷い時には弁当箱の中に手紙が一枚、『作るの面倒だったから自分でなんとかしてね!』なんて書いてあった日があり、同情した日和におかずを分けてもらったこともあった。逆に、良くてもせいぜい冷凍食品の詰め合わせで、今蒼が持っている弁当箱の中身とはかけ離れていた。
まず、おかずの種類が一つじゃない。卵焼きにウインナー、ミートボールにポテトサラダもある。ご飯も日の丸状態ではなく、小さく海苔に巻かれておにぎり状になっていたのが三つ並んでいた。
試しに、おにぎりの一つを手に取り口の中に入れる。塩味がほどよく効いていて美味しかった。
「普段のも、これくらいだったらなあ……」
蒼はばそりと呟き、やっぱり無理かと結論が出ると思わず苦笑した。
そして夕方になり、蒼はいつものように家族で食卓を囲んでいた。もちろん、翠もいる。というか隣に座っている。そして反対側に座っている茜から、せわしなく何度も足をつつかれていた。『早くしろ』コールだろう。だが、話の切り出し方がわからない蒼は、ただタイミングを待つことしかできなかった。
「あ、そうだ。ねぇ蒼?」
母が何かを思い出したように話しかけてきた。
「何?」
「今日のお弁当、どうだった?」
やはり何かいいことでもあったらしい。蒼は素直な感想を口にした。
「驚き半分戸惑い半分。でも美味しかった」
「ふーん、へえ~……」
母の顔がニヤついている。こういう表情の時はろくなことにならないのは経験から知っていた。
「じゃあさ、今度また食べるなら今までのとどっちがいい?」
「それは、今日の方がいいに決まってるけど……」
「だって、翠ちゃん」
「ゴフッ!?」
「うおっ!?」
隣で水を飲んでいた翠が突然むせた。
「ちょっと、大丈夫か?」
「ケホッ。うん平気、いきなりで少しビックリしちゃっ……」
そこで、翠は久しぶりに自分が蒼と普通に話していることに気づき、顔を真っ赤にする。
「ご、ごちそうさまでした!」
「あ、ちょっと……!」
慌てて席を立った翠の手を、蒼は無意識のうちに掴んでいた。
「…………」
「……何?」
翠に声をかけられて蒼はハッとする。
「あ……、明日って、暇か?」
すると、翠の目つきがスッと細くなった。
「なんでそんなこと聞くの?」
「ちょっと、付き合ってほしい場所があるんだけど……」
「別に私じゃなくていいでしょ?日和さんでも誘えば……」
「翠と行きたいんだ」
「…………!」
翠は呆然となり、次の瞬間、顔を真っ赤にさせた。そして掴んでいた手が強引に振りほどかれる。
やっぱりダメか、と蒼が愕然とした時、
「明日、十時にここで待ってる」
翠はそう呟くと返事も聞かずに急いで二階に上がっていった。
「天然って怖いわぁ」
茜のそんな独り言も、今の蒼には聞こえなかった。
「それで」
翌日、久々に二人で出かけることになった蒼と翠は山の中を進んでいた。
「私達はどこに向かってるの?」
既に二人は、かれこれ三十分は山の中を歩いていた。翠も少し息が荒くなっている。
「この先に秘密基地があるんだ。そこで少し休もう」
「秘密基地?」
「うん、昔に茜と三人で造ったのがあるんだ。って言っても木と木の間に拾ってきたトタン板で壁と屋根を付けたようなものだけど」
「ふうん。つまり、蒼くんが見せたかったものって日和さん逹との友情の結晶だったのねぇ、あっそう」
翠の声のトーンが一気に下がる。蒼はゾッとした。どうやらまた知らないところで地雷を踏んだらしい。慌てて取り繕う。
「いや違う、違うから。目的地までまだちょっと時間かかるからそこで休憩しようって話。翠だって疲れてるだろ?」
「……ごめん、変なこと言っちゃった」
「別に気にしてないよ。そんなこと言ったら日和の言ってることなんて半分以上意味不明だし」
「ふうん……」
また、一気に威圧感で押し寄せる。ついでにいえば、気のせいなのか翠の顔が妙にひきつっているようにも見えなくない。蒼は、必死にそれに気づかないフリをした。
「と、とと、と、とにかく少し急ごうか。それで秘密基地で弁当食べたらまた先に進もう」
「…………(プイッ)」
それから翠は、例の秘密基地に着くまで一言も口を聞かなかった。
「ふう、到着っと」
蒼は背負っていた荷物を地面に下ろし、地面から盛り上がっていた木の根に腰掛けた。そしてリュックから弁当箱を二つ取り出し、一つを翠に差し出した。翠はそれを無言で受け取り、蒼から離れた場所に腰掛け弁当箱の包みを開く。蒼は相変わらず気まずいままだが、解決案がまったく思いつかなかったので翠と同じように弁当箱の包みをほどいた。
「お、今日はこっちか。やった」
中身は、蒼が昨日に食べた彩り豊かな内容だった。しかも、前回より格段にレベルが上がっている。
「おおお。味ご飯なんて作れたのか、知らなかった。しかもこれきんぴらか?ハンバーグもこの大きさだと手作りか……。いけない、ちょっと見直したかも……ん?」
弁当箱の中身に感心して唖然としていると、ふと翠がこちらをじっと見ているのに気づいた。が、蒼と視線が合うと慌てて明後日の方向を向く。
「食べないの?もしかして、疲れ過ぎて食欲ない?でも少しは胃に入れておいた方がいいよ。あ、味のほうは大丈夫だと思う、母さんの弁当って今まで見た目に比例しなかったことなかったから」
「別に、食欲がないわけじゃないけど。それにちゃんと味見してるから食べられるのはわかってるし……」
「そっか、じゃあいただきま、す……?」
ふと、疑問に思う。何故翠がこの弁当の味見をしたのだろうか。つまみ食いをしたようには思えない。それに、改めて考えるとやはり何もないのに急に弁当が綺麗なるのはおかしい。よく思い返してみると、母親は一回も弁当は自分が作ったとは言っていない。ということは……?
「もしかして、これ作ったの翠……?」
翠の体がビクリとする。どうやら、図星らしい。
「もしかして昨日のも……」
「な、何よ。別に食べられないものじゃなかったでしょ?」
「いや、ちょっとビックリしただけで……。でも、なんでこんな……」
「な、ななっなんだっていいじゃない!暇潰しにどうかっておばさんに言われたから作ってみただけで、別に蒼くんのためにしたわけじゃないんだからね!」
ゼーハーと肩で息をする翠。興奮したせいか顔も少し赤くなり、髪も少し乱れている。何か違うような急もするが、また地雷を踏んだらしい。
「わ、わかった。まあ、確かに料理はできた方がいいからね。暇潰しにするにはいいんじゃないかな、うん」
気を剃らすために味ご飯を口の中に入れる。うん、美味しい。
「そうやって、簡単に納得されるのもなんかなあ……」
「ん?」
翠が何か言ったようだが、声が小さくてよく聞き取れなかった。
「ごめん。よく聞こえなかったんだけど、なんて言った?」
「別に、何でもない」
「そっか。ああ、言うのが遅くなったけど、弁当作ってくれてありがとう。昨日もおいしかったし、すごく嬉しいよ」
「ゴフッ!?」
「うおっ!?」
翠がいきなりむせた。はて、昨日のこんなことがあったような……。
「ちょっと、大丈夫か?」
「うん、平気。大丈夫だから気にしないで」
「そっか。昨日もむせてたけど、体調悪いなら無理しないでよ?」
「わかってる、本当に大丈夫だから心配しないで。…………ばか」
最後に翠がまた何か言ったようだが、蒼は特に気にしなかった。それから二人は最後まで無言で弁当を食べたが、それはついさっきのように息苦しい雰囲気ではなく、むしろ蒼は安らぎを感じていた。
再び山の中を歩き始めても、二人は何も喋らなかった。休憩前より険しい道が続いたが、二人の足取りは以前より明らかに軽かった。そして、蒼も少し息が始めた頃、
「着いた」
「え、ここ?」
蒼の少し後ろにいた翠には何もわからなかった。そこはただの獣道でしかない。すると蒼は道から外れて森の中に入っていった。翠は慌ててその後を追う。
「わぁ…………」
森は、数歩歩いたところでなくなった。代わりに視界に飛び込んできたのは、地平線まで見渡せる広大に風景だった。
一日中歩いた田園が遠くまで続いている。少し強めの風が吹くと重く実った稲穂が一斉になびき、その音と相まってまるで緑色の海できた波を見ているように思えた。その上を飛ぶトンボも、まるで魚のように自由奔放に飛び回っている。
「まるで、夢の中にいるみたいだろ?」
「うん……」
「昔、さっきの秘密基地に行こうとして迷った時に偶然見つけたんだ。それからは時々ここで一人でゆっくりしたりするんだ」
「一人で?」
「うん、一人で。この場所は誰にも教えてないから。もちろん茜や日和にも」
「え……?」
「あの二人って少し騒がしいだろ?別に普段は気にならないんだけど、なんかここでうるさくされるのが嫌でさ」
「そうなんだ……。でも、だったらなんで私に教えてくれたの?」
「翠ってわざわざこんな何もない田舎に来てくれただろ?なのに思い出の一つもないってのはなんか寂しい気がしてさ。だから少しぐらい特別なことしてもいいんじゃないかなって」
「そっか……」
「うん……」
それからしばらくの間、二人は静かにその景色を眺めていた。翠はこの幻想的な風景に見とれていて、蒼はそんな彼女の心情がよくわかっていたのであえて声は掛けなかった。
「海って、やっぱりこんな感じなのかな……」
それからどれくらい経っただろうか。翠がふと呟いた。
「私ね、本当は皆に嘘ついてたの」
「え……?」
意外だった。彼女はそんな人間に見えないし、第一他人だった蒼逹に嘘をつく理由が思い当たらない。
「会った時によく入院しってたって言ったけど、あれ嘘なの」
なんだそんなことか、と思った。蒼は別にたいしたことはないなと思い、
「本当はずっと病院の中」
一瞬、息が詰まった。
「お医者さんが言うにはね、都会は空気が合わないんだって。少しの間なら平気なんだけど、ちょっとでも長くいると喘息が出ちゃうの。だから一年中病院の外には出れなくて……。春にお母さん逹の同窓会が会ったんだって。その時蒼くんのお母さんと再開してここの話を聞いたの。で、最近思い出して話はトントン拍子で進んで今に至るってとこ」
「そう、なんだ……」
それは、蒼にズシリとのし掛かってくる。翠の言う『嘘』は予想をはるかに越えて重いものだった。
「だから、海も写真やテレビでしか見たことないの。本物の海も、あの田んぼみたいにすごく綺麗に見えるのかな……?」
「どうだろう。実は僕も間近で見たことないからわからないんだ。でもなんだろう。やっぱり、僕はこっちの方が好きかな」
「間近だと見たことないって……遠くからなら見たことあるの?」
「ここから見えるよ?」
「嘘!?」
「ほんと。空気が澄んでる時だけなんだけど、運がいいな。今日はよく見えてる。ほら、あの山の右の方に……」
翠は蒼が指差した方角を目を凝らしてじっと見つめる。すると確かに、地平線と空の間に両者とは全く別物の蒼い空間が広がっていた。それは、翠が前に写真などで見たことのある海と同じ色をしていた。
「本当だ……」
「僕も、初めて見つけた時は信じられなかったんだ。でも、あれが海なんだ」
「不思議……。あんなに上の方にあるように見えるのにね。まるであそこが空みたい」
翠の言いたいことは蒼にもよくわかった。海の上で白く霞かかっている空間に対し、綺麗なブルーをしている海の方が、よほど青空らしく見えた。
「私、今日のこと絶対に忘れない。病院に戻ってもこんなに凄い場所があるんだって知ったからもう寂しくないよ。この景色を思い出すだけで、これからずっと満足して生きていける」
「そんな……」
監獄じゃないんだから、と言いかけて蒼は気づく。翠は今までまさにその監獄のような場所で生きてきたのだと。むしろ、自由に外の情報を入手でき、永遠に叶わない夢を見ることができる病院の方がタチが悪いかもしれない。
「……またここに来ればいいじゃないか」
気付いた時には、もう口が動いていた。
「ここなら翠は病気なんて気にしなくていいんだ。だったらまた何度でも来ればいいよ。翠が海みたいって言った田んぼもずっとこのままじゃないんだ。秋になったらこれが全部黄金色になって、夕日が当たると本当に綺麗なんだ。まるで光ってるように見えてさ。冬だって雪が積もってこれが全部真っ白になるんだ。今度は山も白くなって、太陽が当たるとキラキラ光って凄く綺麗なんだよ……」
「ねぇ蒼くん」
翠が、蒼の言葉を止める。
「私、これからすごく酷いこと聞くけど、いい?」
「? いいけど……?」
「ありがと。じゃあ聞くね。蒼くんが私に優しくしてくれるのってさ、私が大切だから?それとも……ただのお客さんだから?」
「ぷっ」
残酷なことなんて前置きされて身構えたが、あまりにも拍子抜けして蒼は思わず吹き出した。それを見た翠はムッとして頬を膨らませる。
「ひどい。こっちは勇気出したのになんで笑うのよ」
「いやだってさ、わかりきってることじゃないか。ただのお客さんに、こんなに凄い場所教えるわけないだろ?」
「それは……そうかも。うん、そうだよね。ごめんね、変なこと聞いちゃって。ちょっと怖くなっちゃって」
「怖い?」
「うん。蒼くんにとって、私ってなんなんだろうって気になっちゃって」
「はあ……?」
蒼は翠の言っていることがよくわからなかった。蒼自身は彼女のことを良い友人と考えているが、彼女の方は違ったのだろうか。
「病院にね、とっても仲良しの友達がいたの」
すると翠はまた過去の話を語り始めた。
「その子も昔から入院しててずっと病院から出れなくてね。出会ったのは偶然、私が彼女のこと助けてあげたの。そしたらそれから少しずつ話すようになって、私たちがいた病棟は大人ばかりでお互いに年が近かったってこともあって半年経ったらすっかり仲良しになってた。それまで退屈で死にそうだった病院生活もその子と会ってからはすっかり楽しくなって気づいたらいつも彼女と話してるようになってた。それからは毎日が楽しくてね、時間が経つのが早いなぁって思ったり、明日が楽しみだなぁって思うようになって、まるで別世界だった。私たち、二人共あそこから出られるなんて考えてなかったからずっと一緒だって思ってたの。でもね……」
翠はそこで一旦区切り、一回大きく深呼吸した。
「その子、春に死んじゃった」
「っ……!!」
それは、決して蒼にはわからないだろうものだった。閉鎖された空間で、唯一と言ってもいい友人を失う。それがどれだけ残酷で虚しいものか蒼にはわかるはずなかった。
「それから、また昔の生活に戻った。でも不思議なの。彼女と会う前に、最初の頃に戻っただけなのに、何もかも消えちゃった感じ。たった一人だったのが二人になって、それがまた一人に戻っただけなのに、世界に一人だけ取り残された気分になった。おかしいよね、ちっとも変わってないはずなのに全然違うの。お母さんはよくお見舞いに来てくれたし、担当の看護師さんも話し相手になってくれたんだけどやっぱり何か違ったの。それで思っちゃったんだ、やっぱり私ってどこまでいっても結局は一人なんだって。でもこの町に来てからは違ったの。私は今までじゃ信じられないぐらい自由に動けるし。蒼くんの家族は私のこと優しくしてくれるし。蒼くんはこの町には何もないって言ったけど、私にとっては全部新鮮な出来事で毎日楽しいことばかりなんだよ?」
そう言って翠はニッコリと微笑む。その笑顔は本当に幸せそうに見える笑顔だった。
「でもね」
だが、次の瞬間その笑顔は消えた。
「やっぱり私はみんなと違った。たしかに周りの人は私に優しくて毎日が楽しくて、嬉しくて楽しいんだよ?でも、私はその周りの人達のこと何も知らない。普段はどんなことやってて、何が好きで、どうしたら喜んでもらえるのか、私は何も知らないの。だからね、私感じちゃった。やっぱり私って蒼くん達から見たらただの他人なんだなぁって。そしたら急に悲しくなって、わがままなことばかり言っちゃって、それだけでも蒼くんに迷惑かけてたのにそれで蒼くんと日和さんがずっと一緒だって聞かされて苛々しちゃって八つ当たりまでして。ごめんなさい、本当ににごめんなさい……」
翠は泣いていた。彼女をここまで追い詰めたのは彼女自身と、それと蒼だ。少なくとも蒼はそう感じた。蒼は普段滅多に使わない思考回路をフル回転させて答えを探す。
「別に、いいんじゃないかな?」
「え……?」
翠は狐につままれたような顔をしていた。蒼自身も正直何を言っているのかよくわかっていない。
「別に、それでいいんじゃないかな。他の人に嫉妬したり、退屈で死にそうになったり、それが原因で誰かに当たるのもさ。人間誰しも楽しければ笑って悲しければ泣くんだ、それと同じだよ」
「蒼くん……」
「それに、僕と翠は会ってから一月も経ってないんだ、正直言えば他人同然だよ」
「な…………」
「だからさ」
蒼は翠と正面から向かい合う。そこには優しさも思いやりもない。ただ自分の本音をぶつけるだけだ。それが、蒼の翠に対する責任の取り方だった。
「だからさ、これから作ればいいよ。これからもっとお互いのこと話して、知って、時々喧嘩もして、また仲直りして。別に今生の別れなんてことじゃないんだから病院の彼女と過ごした時間と同じかそれ以上に楽しい思い出をどんどん作っていけばいい。そしたら、自分で気づかないうちにもいつの間にか日和と同じ以上に親しくなってるさ」
「…………」
「まあ仲良くなった結果、日和みたいに好き勝手扱われるのはさすがに勘弁だけどね」
そう言って蒼は苦笑した。だが、翠は呆けたままだった。そしてその瞳からぽろりと涙が零れる。それを見て蒼はギョッとした。
「み、翠!?」
そして次の瞬間、翠は蒼に抱きついていた。
「はいぃっ!?」
「ありが……、と。蒼くん、本当、にありがとっ……!」
翠は、声を噛み殺して泣いていた。蒼はどうしようかと迷ったが、優しく、でもしっかりと翠を抱きしめた。
「う、ああぁ、うああああああああああああああああああ!!」
翠の中で何か重石になっていたものがなくなったのだろう。思いきり大声を出して鳴き始めた。それから蒼は翠が泣き止むまで、ずっと彼女のことを抱きしめていた。
数日後。
蒼と翠は部活中の日和を訪ねていた。午前の練習が終わって昼休憩になると、日和は真っ先に二人の元に駆け寄った。
「やっほ。二人して急にどうしたのさ?」
「翠が日和の部活してるとこ見たかったんだってさ。僕はただの付き添い」
「日和さんかっこよかったよ。午後も練習頑張ってね!」
「あはは。いやぁ、なんか身内に言われると照れるなあ」
ニコニコしている翠とは対照に、日和は顔を赤らめて頭を掻いていた。あの日和が照れるとはなんと珍しいことか。
「それでね、日和にも食べてもらおうかなって思って今日お弁当作ってきたの。よかったらなんだけど、食べてもらえるかな……?」
そう言って翠は手提げかばんから弁当箱を取り出した。それを見た日和は目を光らせる。
「食べる食べる!いやあ、最近も練習キツくなってきて終わる時なんてもうお腹ペコペコなのよね。せっかくだし今から……ん、『私にも』……?」
日和の視線が蒼の方にスッと滑る。蒼は、彼女の言いたいことはすぐにわかった。
「多分、お前の考えてる通りだと思うぞぉう!?」
いきなり首根っこ掴まれ日和のところに引き寄せられる。そして耳元でこう囁かれた。
「愛妻弁当なんて、いい身分じゃない……」
「あほ、そんなんじゃない。翠が練習で作ったのをたまたま食べる機会があっただけだ」
「ふーん……」
蒼は掴んだ腕を振りほどく。だが日和は蒼のことを睨んだままだった。身の危険を感じた蒼は即座に行動に移る。
「まあ、女の子同士仲良く話してたら?暑いから僕は先に帰ってる。それじゃお先に」
「え、ちょっと蒼くん!?」
「逃げるな、待ちなさい!」
日和がもう一度蒼の腕を掴もうとするが、蒼はそれをヒラリとかわし、そのまま走り去る。残された翠と日和はその場で立ち尽くすしかなかった。
「えっと、それじゃあ私も行くね」
「あー、うん。お弁当ありがとう……」
弁当箱を渡し、翠も蒼の後を追いかける。と、急に立ち止まって日和の方に振り向いた。
「日和さん!」
「何、どうしたの?」
「私、負けないから!」
「は?」
翠はまんべんの笑みでそう言い残し、今度こそ蒼を追って走り去った。日和はわけがわからず、呆然と立ち尽くした。
「何、さっきの……?」
正直なところ何が起こっているのかよくわからないが、とりあえず日和の女の勘が警報をガンガン鳴らしていた。




