第十六羽【死兵跋扈⑦】
奥ゆかしい女の子に「旦那様」だなんて呼ばれるのは俺みたいな童貞男子に限らず大好物だと思う。そのことに対しては誰だって異論なんか湧かないだろう。もちろん、人によって趣向はあるはずだ。「ご主人様」が良かったり「お兄ちゃん」が良かったり、「○○くん」とかそういう普通な呼び方に憧れることだってあるだろう。中には「豚野郎」と呼ばれて鼻息荒くする超紳士もいるかもしれないが……。
それでも「旦那様」呼ばわりを否定的に捉える人間はそうはいない。絶対的大多数が手放しで喜ぶシチュエーションだろう。
ならば何故、俺が見目麗しいお嬢様に擦り寄られ、「旦那様」と呼ばれて後退りしているのか。
その答えは至極簡単である。
目が据わっている。
漫画的に表現するなら瞳がグルグルマークみたいになった目つきでなのである。そして顔はやや紅潮していて若干息も荒い。この狐耳の少女が興奮しているであろうことは明白である。
その細くしなやかな手には、力んでいるからか血管が浮き出ている。指先は小刻みに震え、その精神状態が普通でないことを如実に表している。
ともすれば「ふしゅるるる……」という吐息が聞こえるような、そんな形相。少女には似つかわしくない熱狂的な情動。
一言で言うならばこの状況は。
……生命の危機である。
「ひぃ、お……犯される……ッ?!」
被害者は俺だ。男が美少女に乱暴される。本望だと笑うヤツもいるかもしれないが、童貞には刺激が強すぎる。
確かに美少女と近しくなり、チューまでは済ませたけれども、それは女の子に馴れるだとかそういうのとは次元が違う。
女の子の近くにいても、女の子のダークサイドまではそうそう馴染めるものではない。
ましてやこの少女の暗黒面は底が深すぎる……! 引きずり込まれるぞッ……!!
どうしてだ。どうしてこうなった。一言「旦那様」という単語を使ってから、ルリは暗黒面へ真っ逆さまに転落した。……あれ? 前回の引きからイメージ変わってない? ひょっとして髪切った?
まるで「旦那様」の一言がスイッチになっていたみたいに……。
壁へ追い詰められお互いに膝立ちくらいの体勢ではあるが、ともすればそれは壁ドンの体勢に似ている。
逃げ場はない。ルリの美しくも醜い表情は根源的な恐怖を想起させる。
少女を豹変させたものは一体――?
「わたくし、ずっと憧れていましたの。愛しの殿方と添い遂げる瞬間を。今の今まできっと夢だと、叶わぬ夢だと思って諦めていたのでございますが、それはもしかしたら目の前にあるのかもしれません。旦那様、ああっ! 旦那様っ! わたくしっ……、わたくし……っ!!」
一度、諦めたはずの夢……。それか……、それがルリを狂わせたのか。
憧憬。それが突然目の前に現れれば、狂うこともあるのかもしれない。
だが、俺は失念していた。ダークサイドを纏う少女は、何もルリだけではないのだということを。
ドッゴォォォオオオオオオオオオンッッッッッ!!!!!
突然の爆音。『壁』が炸裂した音だった。
そして、砂煙の舞い上がる中、近づいてくる足音。
煙の向こうから現れたのは、鬼だった。――否、鬼の形相を纏った少女、――菊花だった。
「……『旦那様』? 生意気に不遜に厚顔無恥にそんな巫山戯た喧伝を宣った愚かなお馬鹿さんはどなたですか……?」
「あらあら、キッカ様ではございませんか。今はわたくしと旦那様の逢瀬の時間でございます。ご用はお次にしてくださいませ」
「……ツバサ様は、テメエの旦那様じゃねえよ」
ビキキ……と菊花の眉間に鋭い皺が刻まれる。っていうかその口調、もはや誰だよお前。
「申し訳ございません、旦那様。少しお邪魔な小娘を排除いたしますのでお待ちくださいませね」
「上等だよ、この売女ァ!!」
巻き込まれたら100%死ぬので、タゲが外れた瞬間に俺は戦線離脱を決意する。巻き込まれたら死んじゃうからね。
抜き足差し足忍び足で戦場と成り果てた屋敷から外に出ると、少女たちの醜い言い争い――もとい喧噪は僅かに遠い音へと変わった。
「よう、お客人。おれについて来な。……姉上がいると話が進まなくて困るぜ」
突然背後から声を掛けられ、俺は心臓を口から吐き出してしまったかと思った。ギャグマンガじゃないからそんなこと起こらないけど。
振り向くと、そこにいたのは見知らぬ幼女だ。
背は小さい。ナズナと同程度の子供だろうか。頭には白い狐の耳を生やしている。
「って、姉上……? ってことはもしかしてお前、ルリの妹か……?」
幼女は一度肩を竦めると、そのまましっかりと頷いた。
「まぁ、そんなこった。それより離れるぞ。見つかると面倒だからな」
ちらりと視線を向けると、二人の美少女が壮絶な戦いを演じていた。その思惑の真ん中に俺がいるというのは空恐ろしい話だが、あまり現実感もない。
俺は少しだけ申し訳なく思いながらもその場を後にした。
――
「一応情報を整理しておこうか」
狐耳の幼女はそういうと尊大な態度で腕を組んでいた。……こんな偉そうな幼女は二次元にしか存在しないと思ってたよ。
「キッカとかいうクノイチもどきから多少話は聞いてる。お前ら、あの勇者たちを助けたいんだって? 今ヤツらは神殿に籠もって籠城作戦を決行中だよ。しかしあまりに多勢に無勢。いずれ特攻を掛けるのは目に見えているが……。当然敵のほうもそれくらい読んでいるだろう。如何に敵の裏をかけるかが肝要ってとこか。……って何だよ、変な面しやがって」
幼女が優秀すぎるのもそうなんだが、なんなら俺すら忘れかけてた設定だったぜ。そもそも色々起こりすぎなんだっての。ついていけんわ、マジで。
「……あんまり子供だからって舐めるなよな。姉上より優秀な当主になれるよう、これでも努力はしてたんだぜ?」
そう言いながら幼女は白い狐耳をピコピコと動かす。撫でて欲しいんだろうか。俺が手を伸ばそうとすると牙を剥いて威嚇された。なんか「シャー!」とか言われた。
「そういうのはいらないんだよ。あんまり馬鹿にすんじゃねえ。……そんなことより勇者の助っ人に向かうなら急いだほうが良い。……もう少しこっちに来れるか?」
幼女はそう言うと崖下が見下ろせる高台に身を乗り出した。吹き荒ぶ風が幼女の白い髪を巻き上げる。
俺も身を乗り出してそっちを見やると、数百メートル先くらいに巨大な建築物があるのを見つけた。
隠れ里こそここにあるが、それ以外には人里らしいものはまったく見えない。そんな土地に突如現れた巨大な神殿跡。マチュピチュとかそういう神秘の遺跡を彷彿とさせる光景だ。
「……元々神殿にも謂われはあるし、この里にも謂われがある。それが一見無関係のように見えても、隣り合うように位置しているんだ。つまりはそういうことなんだろうさ」
それは関係性があると、少なくともこの幼女はそう考えているということだろうか。……というかそろそろ幼女呼ばわりでなく名前で呼びたいな。間が持たなくなってきたぞ。
「だからこそおれは、この件に関わらなきゃならねえ。……そう考えているんだ。……お前はどうみる、お客人よ?」
唐突に話題を振られても困る。何も考えてなかったとは言えないじゃねえか。参ったな……。
「……俺たちは勇者を手助けしなきゃいけないんだ。……一応それが使命だからな」
言うと、幼女はつまらなそうにあくびをした。……こんにゃろ。
「……はふっ。使命、ね……。ありきたりでつまらない言葉だ」
幼女の眼が、心なしか哀しげな色を宿した、……ような気がした。
しかし、数秒後にはすぐに元の冷めた顔色を取り戻して、幼女は口を開く。
「って、話が脱線しすぎたな。急いだほうが良いってのは、つまりはアレのことさ」
幼女が指さす先には、わらわらと溢れる黒い点が見える。それが死霊どもの軍勢だと気づくには、少しだけ時間が必要だった。
その数は百や二百では済まない。ひょっとしたら千以上かもしれない。
だが、勇者たちの一団は確か軍勢なんて連れていなかったんじゃなかったか……?
最悪のケースとして、たった五人で戦ってる可能性もあるんじゃなかろうか……。それどんな無理ゲー。
「……いくらなんでも、こんなの保つわけないだろ……ッ!!」
むしろ今保っていることすら奇跡のように感じる。今すぐ掛けつけて、それでも間に合うかどうか……。
「いや、そうでもない。実際今はこの状態が数時間キープされてる。中の状況までは分からんが、そんなすぐにへばることはないだろ。……たぶん、2~3時間は全滅しない。……勿論この前提はお互いに膠着したままであることを見据えての話だけどな」
……そういうもんか。さすがは勇者様といったところか。
「里の意見としては手助けするべきか、せざるべきか……。意見は真っ二つに割れてる。理由は里にとって益がないってことと、損害がデカく出るだろうってこと。お前が勇者に肩入れするなら、姉上はそっちに一票入れるんだろうけど、おれは手助けしないほうに票を投じる。――理由は里にとって、得にならないからだな」
ここまできっぱり言われると、逆にいっそ清々しいくらいだな。
「姉上が里を離れてお前たちについて行くと言うなら、その時点で姉上はお館様じゃなくなる。次点はおれになるから、お館様の意見はその時点でおれの意見になる訳だ。だったらおれはこう命令するぜ。傍観しろとな。得にならねえのに命を懸ける意味が分からん。そうは思わんかね、お客人よ?」
……確かにそうかもしれない。けど、こいつはさっき言ってなかったか? この里と遺跡には関連性があるって。
ってことは、神殿の守護もこいつらの使命だってことにならねえのか?
「良いのか? このまま傍観してて……。いざという時にあの神殿を守ることがお前らの役割なんじゃないのか?」
……幼女は無言だ。表情に変化もない。
「……それは可能性の話だ。そうかもしれないというだけで賭けるには多すぎる代償を払うことになる。もしおれがお館様になったらそんな無駄なことには人員を割きたくない」
「さっきは関わらなきゃならないって言ってなかったか?」
「……言ったな。だがそれは、直接介入するという話じゃないさ。傍観して情報だけ掠め取れれば充分なんだよ、おれたちにとってはな」
……なんだろう。何故かのらりくらりと躱されている。こいつはどうしてこれを俺に見せたんだ? 俺に何をさせようとしてる……?
まぁ半分くらいは分かってるつもりだ。こいつらは俺たちを利用しようとしている。神殿を最小限の被害で守るために俺たちを犠牲にしても良いと思ってるんだ。そして、あわよくば姉であるルリをお払い箱にしても良いとすら考えている。……こいつらにとってルリは不要なお館様って訳なのか?
だが、果たして本当にそうか。あのクノイチの反応からは、慕われているような印象を感じた。不要と考えられているってことはなさそうだ。
けど、意見は二つに分かれているとか言ってたっけ。つまりルリ派と幼女派の二つの派閥があるのか?
つまりこの幼女は……、姉を追い出して当主の座を奪おうと画策している……?
ちょっと探りを入れてみるか。
「……姉のお下がりがそんなに大好きなのか?」
ギロリ。幼女に睨まれた。思わず仰け反りそうになった。
しかし、それきりだ。特に反論はない。図星なのか、返事に値しないだけなのか……。
「そうか、お姉様大好きなのか。そうだよな、お前より男ウケ良さそうだしな。そのうえあの戦闘力だし、暴れ出したら手に負えなそうだし、俺に対する目つきは尋常じゃなかったし、むしろ犯されるかと思ったし、昼ドラなみに病んでそうだし、素敵なお姉様だよな」
ギリッ。歯を食い縛るような不吉な音が聞こえた。幼女の顔色が凄まじいことになった。確実に地雷を踏んでるな。けど、なんとなく読めてきたかもしれないぞ。
「そうだよな、実力で敵わない以上、搦め手で追い出すしかないよな。お前がいくら頑張っても追いつけない高みの存在だ。今日を逃せば一生追いつけないかも……? いや、そもそも追いつく必要もないのか。この戦いで俺たちが姉もろとも皆死ねば、全てはお前の物になるわけだ。目の上のたんこぶだった邪魔者は消えてなくなる。大好きなお姉様は無様にくたばるわけだ。……本当はどうだったんだよ? 憎くて仕方なかったんだろう? あの上辺だけが小綺麗なサイコ野郎のことがさ」
俺が放り投げた餌の数々で、獲物は見事に釣り上げられた。
「……お前がおれを怒らせるためにわざとそういう発言をしていることは分かってるつもりだ。けどな……、もうそこらでやめておけよ? おれだって、どうでもいい気分になるときだってあるんだぜ?」
そんな台詞を剣呑な表情で言うもんだから、俺は両手を挙げて降参の意を示したのだった。
やがて幼女は居住まいを正して、頭を下げた。
「次期当主、ホタル=マツリカの名においてお頼み申し上げる。姉上を幸せにしてやってくれ。おれにとって、大切な――、大好きな姉上なんだ」
ホタルちゃんは都合上作らざるを得ないキャラだったんですが、書いてみたらかなりお気に入りになりました。やはり都合上仲間には入れないのですが、いつか迎えてあげたいところ。一応ルリは瑠璃茉莉花という花からそのまま命名しました。ホタルは蛍葛の別名、蛍草からつけました。どちらも青くて可愛い花です。




