第六羽【魔都侵攻】⑩
気の良い客人との愉快なひとときも、いつかは必ず終わりを告げる。
その時は近い。それは皆が分かっていることだった。
使い古されたローブはくたびれた様相を呈してはいるが、まだガタは来ていない。丈夫に作られた逸品だった。
そのローブの襟元に隠された口元が、苦しそうに歪められる。
ローブのよく似合う老婆は、老骨らしからぬ剣呑な眼差しでじっと空を眺めていた。
空には晴天と、白い雲がぽつりぽつりと浮かんでいるだけだ。そんな空を、忌々しげに見つめていた。
「……分かってるよ。あの頃の過ちは繰り返さない。……バカにすんじゃないよ」
老婆は、誰かに語りかけるように独りごちる。
もちろん返事は返っては来ない。
「……そろそろ潮時かね。……決めたよ。今日で終わりだ。あの子たちには出て行ってもらおう……」
老婆は寂しげにそう告げた。返事はないが、風がひょろ……と、少しだけ呻くように吹いた。
――
「さぁさ、今日も楽しい楽しい特訓の時間だよ!」
そんなふうにして、俺はマグに連れられ、ひとけのない森へと誘われた。ま、姦される……!
しかしまぁ、耳を掴んで引っ張るというおよそ色気のない連れ去り方だから、その可能性は限りなく低いだろうか。年の差も物凄いことだし。
また、いつものイジメだろうか。体育館裏での密事だろうか。お腹グーパンくらいで済めばいいけど、生憎とこの婆さんはそんな生易しいイジメをしない。いじめっ子とマグの虐待は、ウ○ングさんとビ○ケくらいの違いがあると言っていい。命の保証があるかないかだ。
幸いにして、致命傷は避けられてはいたが、今後もその奇跡が続くとは限らない。むしろより苛烈な虐待になってきているくらいなのだから、無事に済む可能性は皆無と言ってもいいだろう。つまりは是、生命の危機。
マグはいつものように拳を構えている。
「……今までは随分と加減をしてきたからね。そろそろ、退屈してきたんじゃないかい?」
全然なんですが。むしろもっと加減が欲しいくらいなんですが。
しかし、マグは聞く耳を持たず、ボウ! ……と、その手に炎を宿す。轟々と、劫火が灯る。
その勢いは、今までのものとは違う。纏うという表現すら似つかわしくないかもしれない。まるで、炎そのものになったかのようだ。
大きな炎の塊が、マグの両手から生えている。
対面しているだけで顔が熱いくらいだ。……ちょっと待て。コレ、ガチでヤバイヤツじゃないの?
「……何ボサッとしてるんだい? ……そんな悠長に構えてたら……、……死ぬよッ!」
マグが走り出した。年寄りの足じゃない。戦士の速さだ。
俺は咄嗟に横へ避ける。……が、掠っただけで身体が大きく揺さぶられる。
「うおおぉぉッ!!」
なんとか踏み止まり、マグに正対する。
が、目前には迫り来る拳がある。
「ヒィッ!!」
どうにか首を曲げて直撃は回避したが、頬には激痛が走る。掠るだけでもダメージは深刻だぞ、これは。
なんて、意識を逸らした直後。俺の身体はくの字に折れ曲がっていた。○条さんかよ。
マグの膝蹴りが腹にヒットしていた。身体がそのまま持ち上げられ、胃の中身が逆流する。
「うげッ、げほ……」
けど、そんな悠長に嘔吐している場合じゃないんだ。躱さないと、死ぬ。
マグの放つ掌底が俺の顎を揺らす。視界がブレる。意識がブラックアウトする。
空白になった俺の意識を放っておいて、マグの連撃は続いている。
何発喰らったかは分からないが、地面に叩き落とされたのはなんとなく理解できた。
……それにしても、なんなんだコレ。マグのイジメがいつにもまして酷い。深刻だ。真酷と言い換えたいところなんだが。
どうして今日に限って、ここまで苛烈なんだ。何か問題でもあったのか。俺が何かしてしまったのか。マグの気に障るような何かを。
……いや。考えにくい話だ。そりゃあ失礼なんていくらでもあっただろうが、相手はマグだ。大抵のことは、嫌みの一つはくれるだろうが、最後は笑って見逃してくれる人だ。その程度のことはこの短い時間でも理解できている。
それに嫌なことの仕返しなんて話なら、マグはその場で行動しているはずだ。後になってから行動を起こすなんて、あまりにらしくない。
だとするなら、何だ。彼女をここまでさせたものとは何だ?
一体何が……。
そう言いかけて、俺は悟った。
もう、そんな状況ではないのだと。
動かした視線が捉えていた。
大きく振りかぶり、あの劫火の塊を俺へ振り下ろそうとしているマグの姿を。
寝転がって考え事だなんて、そんな悠長なことはさせてくれない。
全力で逃げなければ、俺はここで、殺される。
俺はそう、理解したのだった。
俺は転がってハンマーみたいな豪腕を回避。勢いのままに転がされ、そのまま距離を取る。
その勢いのまま俺は立ち上がり、走り始めた。まず、この状況はまずい。ここから覆す必要がある。
障害物のない場所での戦いは、自力に左右される。俺とマグ、どっちが強いか。そんなのは決まってる。オッズなんて出しても賭けにはならないだろう。10対0で俺の負け。大穴にすらなりようがない。
ならば、場所を移すしかない。生憎とこれは一対一の戦いではない。生き残るだけのゲームでしかないんだ。
だからまずは戦局を変える。場所を移し、シチュエーションを変える。それだけが俺の生き残る手段だ。
俺は目前に飛び込んできた林へと突っ込む。目眩ましや障害物程度にはなるだろう。これで多少は凌げるはず……。
……なんて目論見は甘かったかもしれない。背後で木々が薙ぎ倒される。全く以て恐るべき豪腕だ。ファンタジーの世界ってやべぇ。
振り返ると、大木が俺に向かって倒れてきていて、俺は慌てて進行方向を変える。ドス……と、洒落にならない衝撃が地面を揺るがす。
無我夢中だ。俺は一心不乱にあの古ぼけた教会を目指す。そこまで逃げ切れば菊花がいる。アリシアがいる。ナズナがいる。
彼らにさえ会えれば、どうとでもなる。俺のすべきことはそこまでの時間稼ぎ。それだけだ。
途中、かなり冷や冷やしたが、道中で追いつかれるようなことはなかった。
が、引き離せたわけでもない。俺は大声で助けを呼んだ。
「菊花!! アリシア!! ナズナ!! ……聞こえるかッ!?」
……返事はない。くそッ、外出中かよ。運が悪い。
「孤児院のヤツらでもいい、誰かいないのか!? いたら返事をしてくれ!」
返事を待つような時間すらない。俺は前方へ転がってマグの攻撃を回避した。全てスレスレで躱しているが、これ、熟練度入ってるのかな?
マグはそこで足を止めると、嗤った。イヤに愉しそうな笑い方だ。気味が悪い。
「……運がなかったね。あの子たちにはちょっとお使いを頼んでいてね。帰ってくるのは夕方頃になるだろうよ」
……まだ昼過ぎだよ、クソッタレ。
どうやらこのババアは本気で俺を殺しに掛かっているらしい。
どうする? どうすれば逃げられる?
まず、勝つという方法はありえない。勝ちようがない。この婆さんはアリシアや勇者と同レベルの強者だ。パンピーが敵うような相手ではない。
逃げる。それが一番有効な気がするが、限度がある。ここまでで何度死にかけたか分からん。容易に選ぶべき手ではないように思う。
……それ以外の手はあるか? こちらから向かうでもなく、退くでもなく……。たとえば、相対したままとか……?
……いや、それって意味あるのか? ……まぁ時間稼ぎにはなるか。体力の回復もしたいし。
「わ、分かった、婆さん、降参だ。だから目的を聞かせてくれないか? アンタは何がしたいんだ? 俺をどうしたいんだ?」
マグは、鼻を鳴らした。まだ何かが気に障るのだろうか……。
「目的なら言っただろう? アンタを殺すってな。逃げるのは終わりかい? なら潔く首を差し出しな。なるべく痛くないように殺してやるから」
「……ちょっと待てよ! 死にたいわけないだろ! 話を聞いてくれ!!」
「……そうは言われてもねえ。あたしはアンタを殺したいんだ。話を聞いたら殺させてくれるのかい?」
うん、なんて頷けるかよ。何考えてるんだこのババア。さっぱり意思疎通ができん。……祟り神にでもなったのかな。気持ち悪いブヨブヨが纏わり付いてないけど。
まぁ祟られてるなら、もう少し理性が飛んでるはずだろうしな。精神は通常なんだろうな。……だからこそ意味が分からんのだが。
「……お、おい! 俺を殺したら菊花が黙っていないぞ。アリシアも騎士として怒るだろうし、ナズナだって悲しむに決まってる! ……アンタが俺を殺したっていいことなんかないぞ!」
「下手な説得だね。それで止まるとでも思っているのかい?」
いや、思っちゃいなかったけどさ。ナズナの名を出せば少しは動揺するかな、って思ったんだけど、ダメだな。完全に予想済っぽかったし。
……どうする? 打つ手とかないぞ、これ……。
説得は無理っぽいな。向こうは感情論で攻撃してきている。理屈では通用しない。これこれこうだから俺を殺すべきじゃないとか、俺を殺しても無駄だとか、そういう理屈は感情論の前では無意味に終わる。だって殺したいから。その一言で全てが完結してしまう。
かといって、時間稼ぎも逃亡も、それどころか勝利なんて望むべくもなく、現実的じゃない。八方塞がりだ。出口なんか見当たりはしない。
俺にできることは、なんだ……?
マグが、一歩踏み出した。その瞬間俺は逃亡を再開した。俺の首筋を炎が掠める心地がした。一瞬の油断が死を招く。
……それにしても、妙じゃないか?
俺は、マグの攻撃を躱しすぎじゃないか? 相手は本気だというのに……。
手を抜いてくれているのか? それとも……?
地面に亀裂が走り、俺は跳躍した。その直後、俺が先程までいた地面が炎に呑まれて沈んでゆく。ボコボコと沸騰し、マグマのようになっている。……怖すぎるわ。
……考え事の続きは後でだな。今はそれどころじゃなさそうだ。




