第二十羽(急)⑨
キャシーは狩人の一族で、一番優秀な少女だった。
狩りでは集落内の同年代の誰よりも大きな獲物を捕まえてきたし、先代の三使にも負けない実力者になると誰もが認めていた。
そんな彼女たち一族が仕えるべき相手が、勇者の一族だった。
幼い頃に出会った勇者アルスは、キャシーが今まで見たこともないような強さの少年だった。
同時期に出会った戦士ジェラルドや騎士アリシアも強かったのだが、それとは一線を画していた。
尊敬や憧憬から、恋心に変わるまではそれほど長い時間はかからなかった。
とはいえ、それは叶わぬ願いである。
勇者には勇者の血筋を守る義務があるし、狩人の一族も同じだ。
ただ、傍にいられれば良い。
キャシーの思いはそれだけだった。
戦いが始まり、アリシアがパーティを離れた。
寂しくはあったが、アルスの意思を尊重した。
反論など、あるはずもない。
同情の念も、あるにはあったのだが。
やがて戦いは激しくなり、ジェラルドが死んだ。
多くの人達が死んだ。
〈気狂い〉に攫われ、キャシーは地獄を垣間見た。
それは、アルスがアリシアに見せまいとした世界だった。
血と臓物と、怨嗟と断末魔に包まれた世界。
キャシーはトラウマになりそうなくらいの恐怖を覚えた。
それだけじゃない、方術士アシュレイも死んだ。
ロサーナが敵だ。
それだけは直感でわかっていた。
なのにアルスはまだロサーナを信用している。
封印術士として、いまだ彼女を必要としている。
危機感が募る。
だけど、キャシーにはアルスを否定できなかった。
アルスの考えを改めようとは思わなかった。
自分さえしっかりしていれば、だいじょうぶだ。
自分こそがアルスを守るのだ。
そんなふうに思っていたのに。
……思っていたというのに。
魔王の剣に、アルスが貫かれた瞬間。
何もわからなくなった。
やり直せればよかった。
何もかも全部やり直して、最初からやり直したい。
ロサーナがパーティに来る前に戻りたい。
ちょっかいがやかましいジェラルドがいて。
すぐに拗ねるアシュレイがいて。
お小言ばかりのアリシアがいて。
それについていくだけのキャシーがいて。
アルスはそんなパーティを眩しそうに見つめている。
そんな世界にもう一度。
もう一度だけ、帰らせてほしい。
「覚えています? ジェラルドのこと……」
ロサーナの言葉に、我に返った。
そうだ、今は魔王の目前。
やはり、ロサーナは魔王側の人間だった。
「どうして……?」
掠れた声で意味のない声を紡ぐしかできない。
訊きたいのは理由じゃない。
もっとシンプルで、簡単なこと。
「ふふ、まず初めに殺しにくい相手を狙いましたの。分厚い装備も分厚い胸板も、殺すには厄介でしたので」
ロサーナの言葉など、耳に入ってはこない。
ただ、現実を受け入れることすらできないのだ。
「その次は一番厄介なアシュレイくんですわ。幼いように見えて一番警戒心の強い彼を殺すのは難儀しましたわ。〈気狂い〉がアルス様を抑えてくれたお陰なのですが……。あの戦闘狂に感謝するのはちょっと癪ですわね」
どうしたらいいどうしたらいいどうしたらいい?
なんとか自分に言い聞かせるも、頭が回らないし、身体も動かない。
ただ無様に狼狽えるしかできない。
「最後はあなたになりますが、正直何の不安もありませんでしたわ。あなたを殺すことが何よりも簡単で楽な仕事だって、確信していましたもの」
おかしい。
〈王者〉は? 近衛騎士は?
この危機的状況に、味方が反応しないのは何故?
「あら? ようやく周りに目が向きましたの? 今更ですわよ。行動阻害・認識阻害。これも封印術式の効能の一つですわ。陛下も近衛騎士も、わたくしを疑うことができない。暗示にかかったようなものとでも思ってくださいな」
全てが、終わっていた。
気づいたときには、もう手遅れ。
挽回する手段がない。
もう、何もできない……。
「そう、あなたが身体を動かせないのも、とっくに封印術式に囚われているからですわ。身体を動かすための認識阻害。一度術にかかってしまえば、もうどうしようもありませんの。だから、ゆっくり後悔なさって」
ロサーナがナイフを持ち上げる。
ナイフが銀色の光を反射し、ロサーナの残酷な相貌を鈍く照らした。
不意に、涙が頬を濡らした。
悔しいのか、悲しいのか。
理由すら判然としない。
「アルス、ごめん……」
キャシーの意識は、露と消えた。
――
祭壇が赤に染まった。
頽れたキャシーの死骸を、ロサーナは色のない眼差しで見下ろしていた。
アルスを思うばかりで、アルスに意見できない小娘。
なんて下らない! なんて愚か!
ロサーナは鼻を鳴らした。
もし最後に残されたのがジェラルドならアルスを殴ってでも止めていただろう。
アシュレイだったら、ロサーナを追い詰めていたはずだ。
アリシアだったら、もしかしたら一人の犠牲を出すこともなく、ここまで来ていたのかもしれなかった。
もちろん、そうならないように手を打った結果が今なのだから、考えるだけ無意味ではあるのだが。
こうも簡単に済んでしまうと、敵の呆気なさに拍子抜けしてしまうところだ。
充分に血が流れたことを確認すると、ロサーナは術式を起動する。
離れたところで魔王の苦しむ声が聞こえてくるが、今更自称魔王のことなど気に留める必要もないだろう。
もうすぐ真の魔王が降臨する。
その時点であの男は魔王ではなくなる。
ただの影武者に戻るのだ。
勇者の血に取り憑かれようが殺されようが、知ったことではない。
長い長い歴史の中で、精神術士の一族が封印術士の一族に取り入り、乗っ取った時点から。
ようやくその長い役割を終えることができる。
魔族の証である角と尻尾を切り落とし、人の振りをしながらずっと生きてきた。
角なしの宿命もこれで終わりだ。
――ようやくわたくしは、魔族に戻れる……。
ロサーナは術式が紡ぎ出す眩い光に包まれながら、一筋の涙をこぼした。
そうして、人類滅亡の瞬間が訪れるのだった。
――
空に、雷霆が響いた。
世界に亀裂が生じる。
空間を割り、大地が震えた。
世界が王の再来を感じていた。
荒野に埋め尽くされていた、魔族の城が姿を現す。
魔王と、魔族の封印が、千年の時を経て、ついに解き放たれたのだった。
軍師が思い描いた通りの光景だった。
千年前、魔族が封印された刹那、その軛を免れた魔族たちは、歴史を改竄した。
魔族開放の術式を、魔族封印の術式であると詐称した。
そうして、影武者を魔王に仕立て上げたのだ。
封印術式の強度は、魔王城の位置関係に由来していた。
魔王城内の魔族はもっとも深い封印をされ、残りの魔族は距離ごとに浅い封印を施されていた。
これは先代女王がその身を犠牲にして術式を弱めた結果だった。
遠く離れた地に、影武者がいたことは偶然でしかなかったが、魔族の長い寿命と人族の短い寿命が、その偶然を奇跡へと昇華させた。
軍師が人族に紛れ込み書物の改竄と偽装を徹底した。
間違った内容の書物の作成と、真実を記した書物の改竄。
これらを大量に用意することで歴史の修正を行ったのだ。
戦後の混乱があったからこそ成功した側面もあっただろう。
ともかく人族は誤解し、開放の術式を封印の術式だと勘違いさせ、封印が弱まったタイミングで影武者に魔王を名乗らせたのだ。
あとは封印の術式だと思い込んだ勇者たちが、勝手に魔王復活の儀式を行ってくれる。
人族の行動を逆手に取った、大規模な計画だった。
そしてこの日、封印の術式が解かれ、封印されていた魔王城とその国が、荒野に出現したのだった。
人族は敗れ、魔族が勝利した。
そして世界は、破滅へと向かい始めることになる……。