第二十羽(急)⑤
大聖堂の結界は解除された。
それは具体的に言えば尖塔の扉が開かれたという程度の意味でしかない。
尖塔の間は足がかりのない高い壁で覆われていて、通常であれば扉以外に侵入経路は存在しないだろう。
だが、そんな常識の通用しない相手がいる。
例えば、暗殺者だ。
魔族の暗殺者、シンは直角の壁面を見上げる。
――高さは三十丈(約90メートル)程度か……。
シンは尖塔の壁面と城壁の壁面を交互に蹴ることで高度を稼ぎ、あっという間に頂上へと辿り着いてしまった。
部下を招くために縄梯子を下ろしつつ周囲を見渡すシン。
「わざわざ罠があるだろう扉を通る必要性もないかと思ったが、やはりか……」
見下ろせば扉には開閉に応じて爆発するような罠が仕掛けられているようだった。
付近に設置された樽が爆発物と見て間違いあるまい。
その威力は、仮に破裂導石(魔導石を利用した爆弾)だとすれば暗殺部隊の部下が十数人やられていたことだろう。
全体から見れば十数人の被害程度、と思わなくもないが、ないに越したことはない。
そんなふうに思考を巡らせていると、尖塔の最上階から人の気配がした。
シンが身構えると、姿を現したのは神官たちだった。
本来この大聖堂に所属している神官たちだろうか。
「断罪を」
「断罪を」
「魔族に断罪を」
ぞろぞろを尖塔から神官たちが姿を現した。
これだけの数を控えさせていたということは、頂上に登る魔族がいることを想定していたのか。
あるいは、元から頂上で何かを仕掛けるつもりだったのか。
どちらであれ、やることは変わらない。
シンは腰元から短剣を引き抜いた。
わずか一歩で間合いを詰め、攻撃範囲に神官たちを収めるが、シンは短剣を振り抜くことはしなかった。
否、振り抜くことができなかったと言うべきか。
そこには小型の結界が敷かれていた。
迎撃式ではなさそうだ、とシンは瞬時に術式を読み取った。
だが、一撃で破れるほど容易い結界ではないとも読み取れたのだった。
シンは再び距離を取ると、周囲に感覚を研ぎ澄ました。
周囲の気を探り、目の前の神官をじっくりと見定める。
一縷の隙を見つけ出すために。
――この結界、一人の詠唱ではないな……。
魔力の流れからして、全員の魔力を消費する大魔法だということが分かった。
とはいえ、それは魔術理論的にはありえない結論だった。
魔術は複数人で使うことは実質的に不可能なのだ。
何故なら魔術は気紋と呼ばれる波長が存在し、使い手それぞれで波長が異なる。
それらを完全に統合することはできないし、統合できない以上ぶつかり合ってしまい、互いが干渉し合うことで術式が妨害される。
つまり、魔術は一人でしか扱えないものなのだ。
それを可能とする事例は、確かに存在はしている。
それは例えばぶつかり合わないよう、繊細な術式で繋ぎ合わせる方法だ。
これは熟練の魔術師でもなければ不可能な芸当だ。
魔王軍にも一組しか存在しないレベルの神業である。
しかし、この神官たちにそこまでの技量はない。
ならば仕組みは違う方式となる。
となれば、おのずと敵の全容が掴めてくる。
洗脳だ。
神官のトップ、つまり教皇が洗脳術の使い手というのは、何処か滑稽とも言えるし、ある意味当然とも言えるだろう。
だが、洗脳術を使えば魔術を同調させることも可能だ。
そのうえで強固な結界を張ることも難しくはないだろう。
屋上にいる神官は六人。
六人で結界を張って終わり、ということはさすがにない。
当然、こちらを殺す魔法も同時に展開しているはずだ。
感覚の網を更に広げる。
尖塔の内側には更に十二人、神官がいた。
そいつらが何らかの術式を構築している。
構築先は……
「……上か?!」
雲の上の遥か上空。
裁きを齎すかの如く、光の柱が降り注ぐ。
シンのいた場所をあっさりと灼き尽くし、荘厳なる神の怒りが聖敵を討ち滅した。
「裁きを」
「裁きを」
「厳正なる裁きを」
神官は焼け焦げたシンだったものに目もくれず、梯子の下の暗殺部隊に攻撃の手を向ける。
その瞬間だった。
「警戒を解いたな」
神官の、首が飛んだ。
血しぶきを浴びながら、シンが姿を現した。
その一瞬の動揺が、彼らの命を終わらせた。
ひとしきりの蹂躙を終え、シンは暗殺部隊の到着を待った。
シンは縄梯子を登る部下たちを見ながら、先程の戦闘を思い返していた。
シンには自らの気配を操作する能力がある。
それこそが暗殺者の一族としての能力である。
これを応用すれば上着を一枚残して、そこに気配も残すことができる。
自らの気配を消し、自分は死んだと見せかけることができる。
その隙に警戒が緩んだ結界の内側に侵入することもできる。
造作もない相手ではあったが、他の尖塔上部にも、同様の神官が待ち伏せている可能性は高い。
あれほどの攻撃が手の届かない上方から一方的に降り注ぐとしたら……。
教皇。少なくともこの男は、なかなか侮れない相手かもしれない。
シンは警戒を強めるのだった。
――
大手門より直進したところに大聖堂の入り口、尖塔の南門が存在する。
そこに、裁きの光が降り注ぐ。
光の柱が次々と乱立する中、魔王はそれを気にも留めない。
「うむ。この程度の迎撃では、我に傷一つつけられんぞ」
魔王は身じろぎすらせず、光の柱を素通りする。
そのまま、大剣を構える。
一閃。
王国軍の悲鳴とともに、尖塔が瓦解する。
城壁の上にいた神官たちが次々と空中に放り出され、待ち構えていた王国軍も瓦礫に潰されて死に絶えてゆく。
「まだ分からぬのか、勇者よ。雑兵など、時間稼ぎにもならぬ。だからさっさと姿を現すのだ!」
魔王は直進する。
壁を破壊し、文字通りにまっすぐ進む。
そして、この日、大聖堂は陥落する。
――
大聖堂、祭壇前――。
そこには、王者、勇者、教皇、近衛騎士団長、そしてロサーナとキャシーがいた。
三者と三使、現状の最高戦力である。
「結局、僕はここで待ち受けることになるのか……」
ひとりごちる勇者に、王者は首肯する。
「この祭壇こそが敵の狙いだからね。君にはここで守ってもらう必要がある」
王者の弁に勇者は無言で答えるしかなかった。
ロサーナは安心させるように勇者の手をぎゅっと握った。
キャシーがそれに歯がゆいような視線を向けている。
――けれど、本当はわかっている。
この選択は間違っているのだと。
勇者は誰にも言うことはなかったが、それを確信していた。
わかったうえでそれを見逃していた。
――本当はもう、とっくにチェックメイトなのかもしれない。
もはやどうにもならないところにいるのかもしれない。
それでもあえて、勇者は動かない。
世界を崩壊させる選択であろうとも、勇者はそれを改めない。
――僕が魔王を倒せば、それで戦いは終わり?
倒せるはずもないのに、何を言っている?
彼我の差は直接剣を交えた勇者自身が、誰よりも知っていた。
戦いのステージがまるで違うということを、痛いくらいに知っていた。
勇者の血は、そんな圧倒的な力量差すら上書きするくらいのパワーを生み出すのかもしれない。
そんな勇者の血を、アルスは誰よりも恐れていた。
いずれ〈勇者〉に支配され、アルスという個人を飲み込んでしまう、暴力的なまでの英雄性。
アルスはそれを堪らなく恐れていた。
そんな得体のしれない何かに成り果てるくらいならいっそ――。
勇者アルスのそんな仄暗い決意を、ロサーナは妖艶な眼差しで見つめていた。
嫉妬の炎をその眼に宿したキャシーには、その思惑の深いところまでは読み取れるはずもなく……。
ただ、世界は緩やかに、滅びの時を受け入れようとしていた――。