第二十羽(序)【人魔相克】①
現在、魔王の勢力は旧魔王城近辺にまで広がっている。
しかし、本拠地はトータス城のままである。
これは、付近に城が存在しないので仕方なく……といった側面もあるし、魔王城そのものはもはや跡形もないからでもある。
如何に魔族にとって大事な場所であろうとも、拠点をもう一度築くにはいささか時間が掛かりすぎるのである。
単純に領土を広げ、拠点に使えそうな砦を攻め落とす。
そういった戦略で魔族の支配領域は広がり続けているはいるのだが。
王都周辺まではさすがに攻め落とされてはいないものの、奇襲とは行う側が圧倒的に優位である。
王都を落とされるわけにはいかない王国軍としては、中央を守らざるを得ないのだ。
そうして、戦況は一応の拮抗を見せている。
それは魔王軍が王国軍の防備に屈したかのようにも見えるし、魔王軍の猛攻を王国軍がようやく凌ぎきったようにも見える。
そんな表面的な状況を見て、胸を撫で下ろすものたちも多いが、総じて戦いに長じた者たちはそれを苦々しい顔つきで受け止めていた。
……何故なら、戦いを始める者はこの状況を望んで作り出したに違いないからだ。
ならば当然、その先を想定している。そう考えるのが必然であった。
ここから先、更なる苦戦が繰り広げられる。そう思わざるを得なかったのだ。
「……長い。実に長い戦いでしたよ。……人類諸君」
丸眼鏡を掛けた線の細い男が、そんなふうに息を吐いていた。
場所はトータス城の王の間。王以外の男が堂々と立つには相応しくない場所である。
明かりは少なく、男は暗がりに佇むようにしてその身に纏った外套を翻す。
赤い絨毯のうえでなびく赤いマント。
細い身体をまるまる包み込めるような立派な代物である。
男の纏う衣装はその地位の高さを分かり易く示すような豪奢なものだった。
「……思えば遙か昔、書物の書き換えから三使の乗っ取りまで、取りうる手段は全て尽くしましたが、まさかここまで目論見通りになるとはさすがに想像していませんでしたよ。……いやぁ、人間ってバカばっかりなんでしょうかねぇ!?」
そう言って振り返る細身に向かって、返事を寄越す影が一人。
それは大柄な体躯の男で、二人が並び立つと酷く違和感を覚える姿だった。
「……そうか? 我にとってはどうでも良いが、事が上手く運んだので在れば良かったのではないか?」
そう答えたのは、魔王を「名乗る」男だった。
勇者を退け、破竹の勢いで戦い続けた覇王そのものの男。
そんな男に、細身は畏まることもなく告げる。
「『良かった』。その一言で片付けるのは如何にも味気ないと言いますか何と言いますか……。正直にこう言ったらどうです? 『取るに足らない』と!」
「だが、あの勇者とやらは悪くなかったぞ? もう少し強くなったらまた相手してやってもいいぐらいにな」
「はぁ……、これだから戦闘脳は! いえ、まぁ私が話を振る相手を間違っていたのでしょう。そうでしょう」と、細身は眼鏡をクイと持ち上げた。
そして、気持ちを切り替えるように咳を払って、ネクタイの位置を直すと、話を再開する。
「残すは最後の神殿です。大聖堂ルセリナ。王都の目の前です」
その発言に目を輝かせる巨躯の男。
溢れ出る戦意のままに荒い息をこぼす。
眼に宿った闘志は今にも振り下ろされそうな剣の輝きにも似ていた。
「おおっ! 全力で戦えるのだな! 任せておけ、我が蹂躙してこよう!」
「そうですね、〈死者〉も動けるようになったでしょうし、〈武者〉も我慢の限界のようです。『片腕を失った』気狂いはどうか知りませんが、戦力の温存は必要ありません。思う存分暴れてくださって構いませんよ」
意気揚々と王の間を辞する〈魔王〉を男は眼鏡越しに見つめる。
男は目を細めて遠くを見ていた。
遠い先、求める主を見つめて。
「……ようやく待ち望んだ時が来ます。……貴方にお仕えできるその瞬間が」
――
魔族の王家に連なる少女、シャルロッテ=L=ノクタリア。
彼女にとっての勝利条件は兄の解放。それだけにあった。
魔族の復興すら本心ではどうでもいい。ただ、もう一度兄に逢えるのならそれ以外は棒に振ったって構わないと考えていた。
封印の儀式はそのために進めてもらう必要があったし、魔族の侵攻もそのアシストになるのであれば協力してあげても構わないと思っていた。
全ては兄に繋がるかどうか。それだけの判断基準でしかない。
だから、本当は魔族の再興など興味もなかったし、あの〈魔王〉を名乗る男がどうなろうと関心もない。
彼女がこの場所ですべきことはその程度の、所詮暇つぶし程度の価値でしかない。
シャルロッテはそんなふうに冷めた目で、魔族の砦を訪れていた。
そこに〈気狂い〉が滞在していて、片腕を失った身体を休めているなどと、そんなことはあまり気にならなかった。
それでもその部屋を訊ねたのは皇族の一人として、役割を果たしておいてもいいかという、いわばちょっとした気分の問題でしかなかった。
コンコンとノックして、無遠慮に扉を開けた。
どうせ〈気狂い〉とまで呼ばれた男である。配慮なんて必要はないだろうし、気を遣っても後悔することしかなかった。
あの男には無遠慮に接するのがもっとも適切なのだ。
それは知り合って初日で把握した。
「おお……っ。これはこれは、姫君ではございませんか」
声だけは紳士的。態度もときどきは紳士的ではある。
だが、それでこの男を判断しては後悔する。この男の本質は、呆れるくらいに狂っているのだから。
「姫なんて呼ぶのはやめて頂戴。あの男と血が繋がっているだなんて、考えたくもないんだから」
シャルロッテがぴしゃりと断ると、ルイスはたしなめるように声を落とす。
「おやおや……。それは手厳しいですな。ですが、事実は事実。諦めて受け入れていただきましょう」
ルイスはそんなふうに告げる。やはりこちらの意思を汲むつもりはないらしい。
シャルロッテは溜息をこぼして、話を切り替えた。
「ところで、片腕を失くしたって聞いたけど。そのわりには元気そうじゃない?」
そう問うと、ルイスは重低音の笑い声を響かせた。
相変わらず、妙に芝居臭いというか、役者気取りというか、どこかわざとらしい感じがする。
「ふっふふふ、いやいや。あまりの痛みに私は気が狂いそうですぞ。私の称号とは関係なしにね」
ルイスはそんな冗談を言う。別に面白いとは思わないし、狂っているのはいつも通りだと思ってしまう。
「ふふふふ、ですが、私はこう見えて人体の構造には詳しくてね。体組織の活かし方や殺し方は熟知しているのですよ。ゆえに治療は私にとって、ただの作業と一緒です。手順通りに進めるだけの退屈な仕事ですよ」
「そ、そう……」
シャルロッテは若干引きながらなんとかそう答えた。
相変わらず意味不明だし、理解できない。いや、理解しない方が精神衛生的に好ましいだろう。
そう思って、それ以上の言及は避ける。
だが、相手は〈気狂い〉。こちらの意図など知るよしもなく、知ろうとする気概なぞ存在もしない。
「ところで姫君、知っていますか? 止血する際の縛り付ける感触、徐々に感覚が薄れゆく心地というものは何処か、抗いようのない快楽にも近い心地がするものなのですよ。そも私も腕を失するまでは知らない感情ではありましたが、痺れるような恍惚感はやみつきになります。それだけではありません。痺れるような痛みの後には刺すような痛みやズキズキと疼くような感触がありましてね、それはもう寝ても覚めても覚めやらぬ快感が止めどもなく――」
シャルロッテは足早に砦を後にした。もう皇族の義務だとかどうでもいいと心底悔いていた。