第十九羽⑩
不吉な赤が空模様までも艶やかに染め上げてしまったかのように、斜陽が辺りを埋め尽くしていた。
地面は血の色か、夕日か、塗料の正体も分からないが一面の赤に彩られている。
そんな赤の中にいて、引き締まるような黒いスーツの男が異様なコントラストを生み出していた。
非現実的な光景。
ともすればそれは、非現実であると思いたいからゆえの心情なのかもしれない。
この凄惨な光景を、僅かでも嘘であると錯覚したいがゆえに嘘のような違和感を覚えているのかもしれない。
だが、それは認められない。
認めるわけにはいかない、と勇者は首を振る。
そして、それを後押しするかのように、黒スーツの山羊角が一歩足を踏み出した。
「一応。確認しておこうか」
山羊角の魔族は、そう言って切り出した。
「ご存じの通り、私の後方50メートルほどのところに、拐かした〈姫君〉がいる。姫の眠りを覚ますのは、やはり王子の口づけと相場が決まっている。だが、ここにはそれを邪魔する無粋者の魔族が二人いる。君たちはそれを倒して進み、彼女を救わなければならない。……ルールの説明は理解できたかな?」
「姫と言われるほど高貴な生まれではないがな……」
「おやおや、君も大概だねぇ。だが、何事もロールプレイングが基本だよ勇者くん。彼女の役割は拐かされた時点で〈お姫様〉だし、それを救いに来るならば如何に卑しい身分でも〈王子様〉と呼ばれるべきさ」
憎々しげになんとか苦言を呈した勇者だったが、魔族はそれに飄々と嘯く。
アシュレイとロサーナが無言で援護の構えを取る。
魔族はそれを満足げに眺めると、手を広げて殺気を放つ。
ポーズこそ戦いのそれではないが、意識は間違いなく臨戦態勢へと変わっていた。
「さぁ、それではお決まりの常套句で戦いを始めようか。姫を助けたくばこの私を倒して進むが良い」
それは戦いの火蓋を切るための合図だった。
――
第二の封印の神殿は標高二千メートルの頂上に建てられている。
五十メートルほどの柱が均等に六本存在している。
その中央には祭壇がある。
この神殿を封印の施設として機能させるための要。それこそがこの祭壇である。
この祭壇で然るべき魔術を行使すると封印の術式が起動する。
より明確に表現するならば術単品では封印という巨大な術は起動できない。
神器から祭壇へ、祭壇から神殿へ、神殿から世界へと多くを巻き込み術式を肥大化させ、超巨大な魔術を行使する。
それこそがこの神殿の役割だ。
それゆえに、利用価値が高い設備である。
……それは人族・魔族に関わらずに、だ。
人族にとっては封印の要だ。平和のためにもっとも重要な存在だろう。それゆえに多くの情報が規制され、情報を持つ者も分断して徹底的に管理を施されているのだ。
そして、魔族にとってもこの神殿は大きな意味を持っている。
それは魔族の少女、シャルロッテにとっても同様だった。
いや、あるいはそれ以上の価値があるのかもしれない。
何故なら、シャルロッテにとっては人族への復讐などという魔族の本懐など意に介していない。
ただ、たったひとつの思惑だけで、彼女は動いている。
――まぁ、それはあの魔王も一緒だろうけど……。
黒衣の少女はクスリと笑みをこぼす。
〈封印術式の進行〉。それがどのような意味を持っているのか、真実を知るものは少ない。
――いいえ、そもそも。
少女は首を振った。
そうだ。そもそも『封印とは何なのか』、それを誰も疑問には思っていない。
だからこそ、人間は無邪気に封印の儀式を進める。そして、自分たちはそれを利用する。
そうして得られるたった一つの答えを求めている。
少女は両手を組んで目を閉じる。そして、今は無き大切な人へと祈りを捧げる。
愛しい兄へと、想いを募らせる。
少女は目蓋を開いた。
その金色の瞳が、戦いを見つめている。
少女は神殿の屋上から、ただ戦いを傍観する。
決意によって引き締められた唇が、僅かに動く。
「これしきの毒に折れないでよ、勇者……?」
それは祈るというよりは、からかうようなささやきだった。
――
勇者にとって、この戦いは厳しいものだった。
前衛一人、後衛二人。パーティのバランスは良くない。
中衛を担ってくれていたキャシーの存在はやはり想像以上に大きなものだった。
後衛から離れすぎれば守ることができなくなる。
が、近づきすぎればやはり守り切れなくなる。
このような状況では攻めるも守るも容易ではなく、自然に戦いは後手に回る。
防戦一方。
まさしくそのような状況にあった。
勇者は迷っていた。
このままで良いのか。あるいは、奥の手を出すべきか。
奥の手。〈勇者の血〉。その解放が、どのような結果をもたらすのか。その結果を容認できるのか。
勇者は答えを出しあぐねていた。
〈勇者の血〉を、無条件に信じられなくなったのはいつからだっただろう。
これが、世間で伝えられているような神聖なものではないと、気づいてしまったのはいつからなのだろう。
いつかこの力に呑み込まれてしまうような気がしたのはいつ頃だっただろう。
違和感そのものは昔からあった。
〈勇者の血〉を解放して戦うとき、まるで自分の身体ではないような、どこか浮遊したような万能感が存在した。
幼い頃はそれをあまり意識してはいなかった。
ただ漠然と、そういうものなのだろうと、深く考えずに信じていた。
世間体通りの正しき力であると、どこか盲信していたような気がする。
『〈勇者の血〉か……。相変わらず凄まじい力だな。……でも、どこか……ほんの少しだけ怖く感じることがあるのだ』
騎士見習いの少女は、珍しく弱気な表情を見せた。
その顔は印象深く覚えている。
『そなたは、何処にも行かないよな……?』
その瞬間、自分の心の中に嵐が吹き荒れたような心地がした。
何処かへ行く。それはその違和感の正体を的確に射貫いていた。
そうだ。まるで自分の身体ではないような感覚がして、それは何処か、自分を置き去りにされたような気がしたのだ。
自分の身体が奪われて、〈勇者の血〉そのものに成り代わってしまうような……。
いつか自分が自分以外のものに乗っ取られてしまうような違和感。
それこそがこの感覚の正体。
だとすれば、きっと。
このまま戦い続ければいつか……。
自分はアルスではなく、勇者そのものになってしまうのかもしれない。
アルスはそう思い、恐怖した。
アリシアを追いやったのはやはり正解だった。
彼女が旅についてきていれば、当然この恐怖を見抜かれてしまっていただろう。
この凄惨な光景に傷ついてしまっていただろう。
そして、いつか見破られてしまっただろう。
もう、アルスか勇者か、どちらともつかない存在に成り果ててしまっていることも。
だが、それでも良い。
勇者としての使命は、嫌いではなかった。
誰かを守ることも、そのために命を懸けることも、辛いと思ったことは一度もない。
そのための、それだけの存在に成り果てたとしても、そこまで悪い心地ではない。
何より、彼女にそれが見咎められないのなら、最早なんだって構わない。
このまま無様に敗北を喫するわけにはいかない。
気持ちの整理は済んでいる。
あとは、心の剣を鞘から引き抜くだけだ。
――僕はまた一歩、〈勇者〉になる。
一体いつまでアルスでいられるかは分からない。
それでも、大切な誰かを守るためなら、そんなもの惜しくはない。
だから、覚悟を決めろ。
「……聖剣、抜刀……ッ!!」
勇者が白く輝く剣を構える。
哀しき決意を胸に、アルスは聖剣を振り下ろす。
――その瞬間、大きく地面が震えた。
聖剣の魔力、ではない。遥か地面の下から大きな振動が発生していた。
まるで巨大な魔物が地下で大暴れでもしているかのような……。
そして、異常現象はそれだけでは治まらなかった。
急な地震にも怯まず聖剣をその手で押さえ込んだ魔族の足下、そこにまっすぐ亀裂が走っていた。
二人はそれを無視する。
余計なことに気を払っていられるほど容易い相手ではないと、二人共がそう判断していた。
そして、戦闘は更に厄介な状況へと推移してゆく。
地割れが更に規模を増し、二人を呑み込んでゆく。
見守るロサーナとアシュレイも慌てて助けに入ろうとするが、あまりの揺れの激しさに近寄ることができない。
「アルスさぁーーーーーーんッッッ!!!!」
「アルス様ぁーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!」
少女と少年の悲鳴は地割れの騒音に呑み込まれた。
地下と地上でお互いの戦いが影響を与えるようなシチュエーションって最高に熱い展開じゃないかと思った次第です。