第十九羽⑨
ツバサたちが〈イシスズ・スローン〉と激戦を繰り広げる数時間前のことだった。
標高マイナス数百メートルの地下深くという、ツバサたちの二千メートル以上の頭上にて、もう一つの戦いが繰り広げられていた。
それこそが本来の物語であり、本来の勇者たちの戦いだった。
勇者たちは霊峰〈スピリタ・カリオネ〉の中腹、封印の神殿は目と鼻の先というところまでやってきていた。
――
まず、最初の異常は臭いだった。
まるで戦火に巻き込まれた不幸な集落のような、凄まじい死の臭いが立ち込めていた。
溢れかえった血の臭い、内臓から溢れ出たのか糞尿の臭いも酷い。
勇者でさえ顔を顰めるほどの悪臭。アシュレイやロサーナは口元を布で覆い吐き気と格闘しながらの前進となった。
峠道には斃れた兵士たちが無数に転がっていた。
何故、これほどの人数が集まってきたのかは分からない。
だが、この周辺に配置されていた兵は全滅したと考えて良いだろう。
「どうしてこんなことになっているのでしょう……?」
「キャシーが捕らわれていることに気づいたのかもしれないな……」
「そしてそのまま敵の魔族に……ということですの……?」
所詮は想像でしかないが、当たらずとも遠からずといったところだろう。
無論、それは確認のしようがない。
生存者などいようはずもない。そこには凄惨な殺戮の残滓だけが取り残されていた。
やがて辿り着いた神殿の外壁には、腹から下が喪失した兵士の屍体がぶら下がっていた。
思わず手を合わせて祈り始めるアシュレイの肩へ、アルスが手を乗せた。
「……行こう。ここで終わりにするんだ」
アルスは静かに決意を固めた。
これをしでかした敵は、必ず殺すと胸に秘めて。
斯くて扉は開かれたのだった。
――
幼い時分から、キャシーは泣かない子供だった。
元々口数も少なく、物静かな気性のためか感情を表に出すこともない。
両親からは手の掛からない子供として認識されていた。
確かにキャシーは物覚えも良く、狩人としても成長著しく、一人前と認められるまでそう長くは掛からなかった。
いつも淡々と山へ森へと分け入っては、無表情でひたすら狩りを行う日々。
それはさながら機械のようでもあり、人間の集落に混ざり込んだ人形のようでもあった。
そんな彼女が唯一感情を見せる人間がいた。
それが勇者アルスであった。
誰にも関心を持とうとしないキャシーが、唯一視線を向ける相手。
何にも興味を示さない人形が、表情を変える相手。
パーティ同士でのささやかな触れ合いの中で少しずつ感情を表に出すようになったキャシー。
きっと彼女は無感情ではなかったのだろう。
ただ、感情の表現の仕方が分からなかっただけで。
人より感情の機微が表に出づらかっただけで。
それだけの普通の女の子だったのだ。
だから感情がないわけではない。
狼狽えもするし、泣きもするし、怒りもする。
ただそれが分かりづらいだけなのである。
キャシーは今、泣いていた。
今まで誰にも見せたことのない涙だった。
子供のように声を上げて泣いていた。
そんなことはキャシーには初めてのことだった。
自分自身に驚いてすらいた。
だが、涙はこらえられない。
嗚咽も噛み殺すことができない。
何故なら悔しくてたまらないからだった。
目の前で死んでゆく人たちが。
惨たらしく殺されてゆく人たちが。
一様に手を伸ばして、自分を救おうとしている。
それなのに、自分は鎖に捕らわれて抜け出せない。
助けることも、助かることも、できない。
かといって、目を背けることもできない。
死を。
見つめることしかできない。
ああ、いっそこの命をここで捨て去ってしまえたならば。
これ以上誰も救いには来ないのに。
なのに、自害すらできない。
舌を噛み切ってやれればいいのに、ヤツらに打たれた麻酔薬のせいでロクに力が入らない。
だから、ただ見るだけだ。
見ているだけだ。
死を。
見たくもない死を、見せつけられるだけの拷問。
終わりのない地獄絵図。
永遠の絶望。
見たくない。
もう見たくないのに……。
目を逸らすわけにもいかなかった。
それだけはしちゃいけないと思ったのだ。
自分のために命を捨てようとした人間を、その慟哭を。
その生き様から目を背けてはならないのだと、キャシーは自分に言い聞かせていた。
それが尚更自分の精神を摩耗させることになると分かっていながら。
それも敵の目論見の一つであろうと理解していながら。
それでも目を瞑るわけにはいかなかった。
胸から込み上げる嫌悪やら憎悪やら、吐き気のする感情を溜め込んで、ひたすらに敵の憎き双眸を睨んだ。
感情だけで人が殺せるならこの男を何百回殺せるだろう。
そんなふうに思いながらひたすらに睨めつける。
敵はそんなキャシーの表情を、愉悦の笑みで見つめ返す。
「ああ、良い。実に良いぞ……。そうだ、お前も堕ちろ。……怨嗟の坩堝に」
男は冷たい声で呟いた。
――
襲撃は唐突だった。
地面を亀裂が走り抜ける。
それを思い思いに躱すアルス一同。
その亀裂の正体が、地面に仕掛けられた鉄線によるトラップであると看破した時点でアルスは次の行動へと迅速に移りだしていた。
糸の先端を瞬時に見切り左手を振りかぶる。
即座に起動したアイテムボックスから投げ槍を取るとそのまま逆手で一気に振り抜いた。
容赦などない強烈な一撃。
だが、敵の強大さを考えれば初手としては地味なものだろう。
大木がへし折れ大きな音を立てて倒れるも、アルスは油断なく身構えたままだ。
そして、砂埃の影から悠然と現れたのは、やはり山羊角の魔族。
敵は傷一つなく、投げ槍を素手で押さえ込んでいた。
規格外の化け物……ッ!!
アシュレイもロサーナも戦慄するが、アルスは予想通りなのか、黙ったまま剣を構えていた。
「〈勇者〉の特性とは、遠隔魔術と近接戦闘を同時に使えることだと聞いたぞ? まだ全力ではないのか?」
アルスは、黙したまま答えない。
対する魔族は不満そうに嘆息する。
「どれ……。少し試してみるか……」
魔族――ルイスが走る。一歩で三メートル近い距離を驀進し肉の鎧と化した腕を伸ばす。
一瞬で肉薄したルイスの爪を剣で受け流し、懐から逆袈裟に斬り上げる。
しかし、金属同士で打ち合ったような感触で弾かれ、無効化されてしまう。
単純な剣術では効果がないだろう。それこそ、勇者の特性でも利用しない限りは……。
「……ふむ。君は勇者の力を使わないのか?」
更に距離を詰め連続で腕を振るうルイス。
アルスも剣で応戦するが……。防戦一方となってしまう。
「……それとも」
俊敏な身体捌きで脳天から踵落としを繰り出すルイス。
アルスはそれを打ち払うが、衝撃をいなしきれずに膝を突いた。
「……まだ満足に使えないのかね?」
ルイスの眼光がアルスを射貫く。
アルスは、やはり黙したままだ。
「だとしたら残念だ。……いや、別の楽しみもあるか。今ここで目覚めて貰うというのも一興か」
パキリと関節を鳴らすルイスが立ちはだかる。
アルスの頬には、一筋の汗が流れ落ちていた。