第十九羽⑥
ガシャリ。
キャシーは不快な音に顔を歪めながら、後ろ手に絡みついた鎖を引っ張っていた。
鉄鎖は頑丈で、括り付けられた柱も人ひとり分以上ある丈夫なものだった。
如何に勇者パーティとして持て囃されようとも、得意な戦闘は遠距離攻撃に偏っていた。
それゆえにこの状況は絶望的で、キャシーにとってみれば屈辱的でしかなかった。
引き千切ることはできない。鎖も柱も頑丈で歪ませることすらできそうにない。
また、縛りもきつい。そのため鎖を解くといった回避手段も取れそうにない。
魔術を駆使すれば鎖を溶かしたりできるのかもしれない。だが、キャシーの魔術では熱しても鎖の頑強さはビクともしなかった。
策はとうに尽きた。
だから、他にできることは目の前の魔族を睨み続けることだけだ。
そんな無意味な抵抗だけが、唯一の抵抗手段だった。
「……ひとつ朗報だ。お前が気絶している間に近辺の住民に報せを撒いておいた。『魔族が勇者一行の一人を攫っていった』とな」
魔族の男がぼそりとそんなことを呟いていた。声そのものは無感情だが、明らかにこちらの反応を窺っている。
本当だか嘘だかは分からないが、そんなことを呟く真意が分からず、キャシーは眉をひそめる。
「……ふむ、理由か。簡単なことだ。……人はいつ、絶望するか知っているか?」
煙に巻くつもりだろうか。魔族の気まぐれな会話になど興味はないし、どうせロクな回答が返ってこないのも分かっている。
とはいえ、耳を塞ごうにも手が使えないのだから言葉は否応にも耳に入ってくる。
「人は希望を抱くから絶望するのだ。だからお前には一縷の希望を与えた。……助かるかもしれんぞ? 知らせを聞いた者たちがこれからここに押し寄せることだろう。皆一様にお前を救わんと馳せ参じるわけだ。そして、全員俺が殺す。みな一様に散って逝く。志半ばにして斃れることになる。目の前で次々と希望が絶えてゆくのを見てお前は絶望するのだ。それこそが我らの愉悦である」
反吐が出そうだった。
こんなヤツらは生きていてはいけない。絶対に滅ぼさなければいけない。
そう強く胸に誓うキャシーだったが、己を縛る鉄鎖は微塵も緩みはしない。
そして……。
報せを受けた有志がぞくぞくと押し寄せてきていた。
キャシーが匿われた封印の神殿には、血の帳が降ろされようとしていた。
――
人質がいたかもしれない家屋は潰れた。
魔族の三使を名乗る山羊角の男が、ノックしても開かなかった扉を諦めるような溜息を残して家屋の支柱を破壊した。
臨戦態勢となったアルスとアシュレイだったが、その間隙こそが敵の真の狙いだったのだ。
前衛職でもなく、防御魔法もない、いちばん無防備な後衛職のキャシーだけを狙った拉致。
人質も交渉も全ては隙を生むためのブラフ。
この状況を生み出すためだけに行われていた。
アルスたちは、完全に嵌められていた。
急いで影から現れた暗殺者を追おうと咄嗟に反転するアルスたちだったが、それを見過ごすほど敵も馬鹿ではない。
視線を逸らした刹那。よそ見は許さないとばかりに狂戦士が迫り来る。
神速のナイフを受け止めたアルスは、その想定以上の膂力に口元を歪める。
――この男……ッ! 速いだけでなく、力も尋常ではないのかッ?!
速いだけなら対処は楽だ。
耐えきってから返す刃で切りつければ良いだけだ。
あるいは広範囲攻撃で足を潰すだけでも充分余裕ができるだろう。
力が強いだけならやはり対処は楽だ。
ヒットアンドアウェイを心がけて冷静に一撃を入れていけばいずれ倒せるだろう。
とかく隙が多い。それだけで手はいくらでも思いつく。
しかし、速さも力も兼ね備えていては、対処は途端に難しくなる。
ただでさえキャシーを追いたいところなのに、この男の相手は容易ではない。
そして、相手もそれを分かっている。
だからこそ、防御が速い。隙が少ない。
ただ時間を掛けるだけで、それが最上級の妨害になると理解しているのだ。
アルスは歯噛みした。
そして、渾身の力で剣を振り下ろす。
敵の防御を打ち崩すには至らずとも、手傷くらいは浴びせてみせる。
そんな決意の表れだった。
「嗚呼、良い……。筋肉の躍動はやはり素晴らしいものだ……ッ! 一縷の隙もない磨き抜かれた肉体、実に美しいものだな……。嗚呼、陵辱したい! お前の肉を引き裂いてやりたいッ! 極限まで鍛え抜かれた肉の弾力を知っているか!? 果肉からこぼれ落ちる滴のように鮮烈で芳しい味わいなのだ! ふは、ふははは、ふははははははははははは!!!!」
狂乱するルイスを鋭い眼光で見つめるアルス。
「〈気狂い〉め……! 道をあけて貰うぞ!!」
ロサーナとアシュレイが各々杖を構えアシストする構えをとる。
そんな中、ロサーナだけは口元に薄い笑みを浮かべていた。
――
遥か遠方、打ち捨てられた砦にて――。
ひとり目を凝らす少女がいた。
シャルロッテ=L=ノクタリア。
魔族の王家に連なる少女である。
少女はその高貴な生まれに相応しい瀟洒な黒いドレスを身に纏っていた。
礼装というわけではなく、少女にとってはこれが普段の装いであった。
シャルロッテは埃っぽい石畳にドレスが触れようともまるで気にした様子を見せなかった。
しかし、幾度風にたなびこうとも黒のドレスが埃に汚れることはない。
まるでドレスそのものが汚れることを拒否しているかのようでもあった。
「……始まったみたいね」
眇めた視線の先には、勇者一行と魔族の戦いが繰り広げられていた。
狂戦士も暗殺者も、残忍な性格で人を殺すことに忌避を感じない。
もっとも、軍人であれば当然と言えば当然なのだが、あの二人はその領域を遥かに越えていた。
狂戦士は人間の限界値を完全に把握しているため、生かしたまま凄絶な痛みを与える方法を熟知している。
暗殺者は人間の身体構造を完全に把握しているため、最短距離での殺害をもっとも得意としている。
敵を殺さずに封印の地へ誘導するためには、あまり適切な人員ではないのだが、この際仕方がない。
現状は上手くいっているのだし、このまま上首尾に進むことを期待するとしよう。
「もうすぐよ……。もう少しであの忌々しい封印から解き放たれるわ……」
少女は花弁のような唇から笑い声を漏らす。
「ふふふ……、待っていてお兄様。もう一度あなたと逢いたいの……。そのためならワタシ……、何だってするわ。……くふ、くふふふ、くふふふふふふふふふ……!」
シャルロッテの本名は初出だったような。
Lが何の略なのかは今のところ内緒です。