第十七羽【死弊白狐⑨】
もう勇者たちの姿は見えない。
神殿の門には、もうガイコツ兵の姿も見当たらない。
死者は死者らしく大地に還ったというわけだ。
そんな荒涼とした大地を見据えて、俺はひとつ息を吐いた。
「まだ機を窺う必要があるのか? ここで充分だろう? ……従者さんよ」
俺が振り返れば、そこには思っていた通りの姿があった。
金髪・金眼の背の低い少女。従者ストレリチア。
最古参の従者。そして、最強の従者。
彼女の瞳は、仲間を見つめるような眼差しではない。まるで敵を見るような、そんな油断ならない警戒した視線だ。
……理由は、訊くまでもないことだろう。
「怒っているのか。……俺が仲間を見捨てたことを」
そう訊くと、小柄な少女のような細い顎で小さく頷いた。
そして、歯を剥いて笑みを作る。それは、少女らしくもない好戦的な獣の笑顔だ。
「それくらいは気づいてるんだね。……でも、まだ思い出せないのかしら?」
「……思い出す? 何をだ?」
少女は肩を竦めるばかりで何も言わない。俺は少し拳を強く握り込んだ。
……なんだコイツ。何なんだ。
「何故、立ち塞がる? 俺の何が欲しいんだ? もう俺はお前らの庇護は必要ないし、お前らにも不要だろう? なら、仲間でいる必要なんてない。不必要に群れる必要なんてない」
少女は、答えない。ただ、嗤った。嗤い続ける。無性に。おかしくて仕方がないというふうに。何故おかしいことに気づかないのかというふうに。
少女は嗤う。俺を見て、嗤い転げている。
俺は腹の中が煮えたぎるような感触を覚えた。
そんな俺を見て、少女はさらに哄笑を浮かべる。醜く、妖艶に、嗤い続ける。
「はは、ははははは、あっはははははは!!!」
「……まれ。……黙れ! 黙れよッ!!」
「あははははははははははははは!!!!」
目眩がした。
俺は不快感を吐き出すかのように深く息を吐き出し、跳んだ。
この、不快な、少女を――殺す。
背後へ回り込み、少女の細い首をへし折ってやる。
そんな意気込みで振るった回し蹴りは、掠りもせずに空を切った。
俺の股下から少女がにんまりと不快な笑みをちらつかせる。
そして、不意に視線がぶれた。
回し蹴りの軸足が、少女の蹴りで払われたのだ。――あの細足の何処にそんな力が……! なんて驚いている時間はない。
大地に手をつこうと伸ばした腕を、少女がしっかりと掴み返す。
そしてそのまま引っ張られ――、膝蹴りを顎に食らってしまう。
激痛にのたうつ俺をそのまま引っ掴んで、気づけば俺は一本背負いされていた。
俺は空を仰いで呻くしかできない。
「あたしに挑んでいることが何よりの間違い。……そっか、やっぱり覚えてないんだね」
少女が諦めたかのように、そっと呟いている。
言っている意味は分からないが、不快感だけは底なしに湧いてくる。
俺が立ち上がると、少女はさらに失望感を露わにした。
意味が分からない。俺に何を求めている?
コイツほどの強さがあれば、俺なんて不要だろう。従者同士でつるむ必要もない。
俺に絡む必要なんて、ないはずだ。
……だって、仲間なんて煩わしくて邪魔なだけだろう?
足手纏いなんて、好き好んで背負いたがるヤツがいるわけないだろう?
なのにどうして、俺に絡む。俺を蔑む? どうしてそんな責めるような目を向ける?
「……ツバサくん。……いや、雷帝くんといったほうが良いのかな? 君はさ、覚えてないんでしょ? ……あたしたちのことを」
俺は少女の言葉を掻き消すように拳を振るう。
無論、簡単に躱され、礫のような言葉が投げ掛けられる。
「思い出せないんでしょ? ……仲間のこと。……ううん、『仲間だった』人のこと」
そんなことはない、はずだ。
だって、さっきまでは確かに思い浮かべていたはずだ。コイツの名を。
この――、この少女の――……。
――名前――……。
……コイツの名前って、なんだったっけ?
「覚えてたら、そもそもあたしと戦おうなんてしないはずだよ。――絶対に勝てないんだからさ」
そんな何気ないふうな一言とともに、強烈なアッパーカットが俺の顎に炸裂した。
視界が真っ白になって、俺はそのまま地面へと倒れ込んだ。
星がちらつく。意識が飛びかけているのかもしれない。あるいは酸欠でも起こしているのか。
手足が痺れる。思考が定まらない。気分は最悪だ。今にも吐きそうなくらいに。
だが――。
そんな呆けている時間など、目の前の少女は与えてはくれない。
倒れたままの俺の眼前に、ブーツの底面が出現する。
俺は無我夢中で逃げる。グルグルと回ってのたうちながらどうにかその健脚を回避する。
必死になって立ち上がる俺の足を少女の細足が掬い取る。
俺はもう情けなすぎて気色悪い声を上げながら四つ足で逃げた。
なりふり構ってなんていられない。
――怖い。居ても立ってもいられないくらい怖い。
どうにかしなければ――。どうにかして距離を取らなければ――。
だが、どんなに逃げようにも、少女との距離は広がらない。
俺は何度も捕まり、投げ飛ばされ、トドメの一撃だけはかろうじて回避するが、やはりまたしても捕まって投げられる。
「――そう、覚えてるでしょう? それが『恐怖』だよ。君が捨て去った感情で、君の根源の位置している感情」
少女の腕が伸びる。捕まったら終わりだ。俺は身が竦んでしまう。
そして、襲い来る右ストレートをかろうじて回避する。
「君は忘れようとしたはずだよ。だから孤立を選んだ。――何故ならそれが楽だから」
今度は足が払われる。空中で身動きが取れないところを少女の細腕に蹂躙される。
地面へ叩き付けられた俺は、バウンドを利用して遠くへと逃げようと試みる。
「――けど、忘れることは赦さない。君は覚えていなくちゃいけないのよ。仲間を傷つける恐怖も。仲間を裏切る恐怖も。仲間を失う恐怖も」
必死に腕を躱そうともがくが、衣服を掴まれて引き戻される。待ち受けるのは肘鉄だ。
激痛に苛まれ、鼻血も吹き出すが、少女は手を緩める気配がない。
「――ううん。それだけじゃないね……。君が覚えている恐怖の根源は、きっとそうじゃない……」
――やめろ。そこから先はやめろ。言うんじゃない。言葉にするんじゃない……!
俺はそこでようやく反撃に出たが、少女は何食わぬ顔でそれを避けた。
「……仲間に裏切られた記憶が、君を孤立へと駆り立てるんでしょう?」
俺は息が詰まるのを感じた。本当に呼吸すら忘れた。
先程までの激しい攻防は、途端に静まり返っていた。
「だから自分も裏切った。……それは君が経験した昔の出来事だよ。もう覚えていないかもだけどさ」
金色の瞳が、俺を射貫く。
……見れば見るほど不思議に思う。コイツはこんな顔をしていただろうか。
「孤立、裏切り。それがフラッシュバックしたことで雷帝くんが目覚めちゃったんだろうね。奇しくも少しだけなぞる結果になっちゃったからかな」
少女は、笑う。その優しい笑みは、全てを赦す聖母のように暖かだ。
俺はかつて、その手を拒んだ。手を払って孤立を選んだ。
仲間は、煩わしい。一人のほうが気楽で良い。
いつまでも仲良くいられる仲間同士なんていない。何処かで関係性は必ず破綻する。
だったら、最初から一人で良い。裏切られるくらいなら、いつか必ずその日が来るなら、そんな暖かい手なんて握りたくない。
手放せなくなったら怖いだろう? 慣れてしまったら怖いだろう? 孤独の冷たさを思い出してしまったら、怖いだろう?
だったら、初めから独りで良い。独りのほうが良い。
震えるばかりで動けない俺を、金髪の少女がぎゅっと抱き寄せる。
暖かい、陽だまりのような温もりを感じる。
「これはね、……ご褒美とお仕置きだよ」
意味が分からなくて思わず首を傾げた俺だったが、目に入った光景でその意味を悟った。
「(ギリギリギリ……ッ!)先を越されましたか」「(ギチギチギチ……ッ!)許すまじ、でございますわ」
その後は、わーきゃー騒ぎ始めた『菊花』と『ルリ』に、自分も混ぜてと言わんばかりの『ナズナ』、「べ、別に羨ましくなど……」とかツンデレる『アリシア』と『夕凪』が走り寄ってくる。
そんな光景に俺は不意に笑みがこぼれてしまっていた。
「とはいえ、『鳳』のほうのツバサくんに感謝ね。彼が記憶を封じてくれなければもっと面倒なことになっていたもの。……まぁ、今となってはどうでもいいことかしらね」
仲間たちに囲まれ揉みくちゃにされる俺は、そんなふうに呟くリチアを目の端に僅かに留めたのだが、勢いに負けて押し潰された後はもうそれどころではなくなってしまっていた。