窮すれば
「居候?」
唐突な単語に思わず眉を顰めていた。
昨日は雨が上がらなかった。
流されるように風呂を借りると、全てを拒絶するように張り続けていた緊張やどろどろした感情が全て疲労に変わったように身体を苛んで、もう何もかもがどうでもよくなったような、そんな気がした。夕食を出してもらった気もするが、心に起こされるまで、いつの間に眠ってしまったかも覚えていない。
「俺は」
思わず口をついた言葉に、逆に叶慧が驚いたように瞬いた。
「あら、行くところあるの?」
反射的に答えられずに口を噤むと、叶慧が小さく肩を竦める。
「あるなら行けばいいわ。でも、ないなら此処にいれば? あんたの気がすむまで」
あっさりと紡がれた言葉の意味が解らなかった。
「は?」
「仕方ないじゃない。心が拾ってきたんだから。言ったでしょ?」
物わかりの悪い子どもに言い聞かせるように、叶慧は腕を組んでため息を零す。
「嫌なら、いつだって扉は開いてるわ。此処は心の家。あたしと奏も、心に拾われたから此処にいる」
「どういう」
「ほら、取りあえず働いて。どっちにしても、朝ごはんくらい食べるでしょ?」
思い切り背中をはたかれて咳き込むと、ひ弱ねぇと叶慧が笑う。
「洗面所、出て右よ。台所は廊下の奥。奏が朝ご飯の支度してるわ」
あたしは心を手伝ってくるから-呼び止める言葉を持たないまま、ひらひらと手を振って出ていく叶慧から、渡されたタオルに視線を落とす。
訊かれることを望まない。
明かしたくないことがあるのはお互い様で、そうである以上零したより多くの言葉を求めるのは理不尽だ。
無意識に立ち上がって、気付けば洗面台で鏡の中の自分と向き合っていた。
墨を零したように真っ黒な髪。
その下で、同じように黒い瞳が瞬く。
どうしたいのだろう。
あそこから逃げ出して、何処かに行く当てがあったわけでもない。
ただ、逃げたかっただけだ。
あの場所から、あの空間から。
蛇口を捻ると冷たい水が溢れた。
水の冷たさに耐えきれなくなったように、べたべたとうっとおしい思考が流れていく。
帰りたくない。
あそこでない場所なら、何処でもいい。
少なくとも此処には、あの名を呼ぶものは誰もいないのだから。
どんな理由で、此処に連れてこられたのだとしても。
此処では、誰でもない誰かでいられるなら。
濡れた髪を拭って、鏡に映る顔から眼を逸らすように踵を返した。
「あぁ。おはよう」
足音を感じ取ったのか、顔を上げた奏慧から視線を逸らす。
「は、よ」
「心や叶に、何か言われた?」
苦笑のような言葉に反射的に視線を合わせると、奏慧が僅かに目を細めた。
「?」
「君から返事が返ってくるとは思わなかっただけ」
「どういう意味だ」
「そのままだよ。心が拾ってくるのは、2種類。世界に怯える犬か、拒絶しかできない猫。君は猫だと思ってた」
「お前はどっちだったんだよ」
反射的に言い返して、はっと気づく。
けれど奏慧は特に気にした様子もなく肩を竦めた。
「猫、かな。もっとも、今は良く解らないけど」