#0004 [水滴]
防空壕は大きく分けて八つの区画に分類できた。
扉から続く主線を中心にして左右四つずつ区画が伸び、区画内で通路が広がっている形だ。
区画同士は繋がっておらず、帰るときや別区画に移動する際は必ず主線に戻ってこなければならない。
主線は一本。
各区画へ繋がる道も一本。
つまり、各区画に通じる入り口付近の形状を覚えてさえいれば、区画内で迷ったとしてもそのまま永遠に抜け出せなくなるわけではない、ということだ。
その事実に気づけば、この防空壕の地図がさながら巨大な蟻の巣のように映るのだった。
実際にどのルートを辿るかは任されているのだから、なるべく多くのルートを辿るように設定して、それを覚えておけばいい。
防空壕の基本的形状をマスターした私は、そりゃもう放課後が楽しみで仕方がなかった。
夜遅くまで地図と睨めっこする私を、美帆は最初はとても心配していた。
そして次の日には呆れ顔になっていた。
まさか玲二も、たった一日で地図をマスターしてくるとは思っていないだろう。
颯爽と地図を突きつけ「もう覚えたので必要ありません」と尊大に胸を逸らしてやろうと考えていた。
まぁ、念のために近くのコンビニまで行って地図のコピーをしたのだが。
学校で地図をコピーするためには生徒会室か放送室、もしくは職員室に行かなければならないのだが、何処でコピー行為が露見するかわからないので、慎重に慎重を重ねた結果だ。
そして待ち望んだ放課後になり、スキップしながら防空壕に向かった私の前に、それは立ちはだかったのだった。
私が玲二にしてやろうと思っていた、尊大に胸を反らせ、腰に手を当てた仁王立ち。それと全く同じポーズで渡り廊下を塞ぐ三人の少女。同じ学校だし何処かで見たような気もするが、残念ながら思い当たる節はない。
私がそのまま脇を通り過ぎようとすると、その眼前に一人が横にずれて立ちふさがった。
どうしたことか。
目標は私だったのか。
不穏な気配に訝しみながらも足を止めた。
「あなた、一年六組の柚木加奈でしょ?」
こちらが質問する前に先手を取って話しかけられた。
それは質問の形式を取ってはいたが、相手はこちらが当人と確証を持って話しかけている雰囲気だった。
それに、六組と言ったところで、明らかな侮蔑を持って鼻を鳴らされた。
ノータリンで悪かったな。
とは思うが、もちろん態度には出さない。
「は、はい。あのぅ、なんでしょうか?」
私は生まれたばかりの小鹿の如く震えながら上目遣いに少女を見た。
茶髪カール、黒髪ストレート、茶髪ボブの三人。
先ほど質問したのはカール頭のようだった。
少女たちはお互いに目配せを交わし、なんらかの疎通を図った。
同級生ではなさそうに思う。二年か、三年か。
学年毎にパッと見てわかる制服違いなどは存在しないため、皆目検討もつかない。
真ん中の子が一番かわいい。
小さな顔に大きな目――化粧込み――で控えめに塗られたリップが花を添えている。
よくよく考えてみれば真ん中は昨日見た少女先輩だった。どうりで背が小さいと思った。
ということは、横の二人も二年だと推測できる。
瞬時にそこまで考えながら、半歩足を引いた。
思い違わず、三人組は開いた間を詰めるように踏み込んできた。
こちらが怯えた素振りを見せることで、彼我の優位性の認識をより強固に印象つける。それは事実、相手の見縊った視線と横柄な態度が物語っている。
「あなた、玲二君とどういう関係なの?」
「面白半分で付きまとって彼が迷惑してるの、見てわかるでしょ?」
「しかも六組だなんて。あなたが付きまとったせいで彼の成績が落ちたらどう責任とるつもりなの?」
「そんなことになったら自主退学しかないでしょ、常識的に考えて」
「その前に、六組なんだし授業についてこれなくなって顔も出せなくなるでしょ」
「あは、言えてる」
「ちょっと尻軽。聞いてんの? 玲二君に付きまとう暇があるならさっさと帰って無駄なお勉強しなさいよ」
「それ言いすぎじゃない? お部屋に帰ってピーピー泣かれたらどうするのよ」
「どうもしないわよ。そのときはもう学園に出てこなくなるだけでしょ」
「かわいそー」
喧々囂々。
美帆が言った、嫌な予感が的中した。
彼女たちは自分の優位性を疑わない。
それでいてその立場を知らしめるために小鳥のように囀るのだ。
群れなければ行動も出来ないくせに、他者を排除しようとする。
まるで小動物のように、追い詰められて威嚇する、哀れな生き物。
心の中だけで嘲弄する。
――何この人たち。
――可哀想って、そっくりそのまま返してあげるわ。あなたたちは頭が可哀想ですね、って。
――大体、わかりやすすぎだっつーの。
「聞こえないの? なんか言えよ」
少女先輩が苛立たしげに私の肩を押してきた。それが予想以上に強くて、思わずよろめいてしまった。
小さく悲鳴。
軽くたたらを踏んで尻餅をつく。お尻痛い。
思った以上に反応を示さなかったことに少女先輩他二名は不満顔だ。
私の不遜な態度が気にいらないようで、眉を寄せて睨みつけてくる。
少女先輩は眦を上げたまま、片方の人差し指で組んだ腕を、トントンと叩き始めた。
私は怯えたふりをして体を守るように縮め、上目遣いに観察を続けた。
相手からすれば無力でか弱い後輩にしか映らないだろう。
でも、これがある種の虚勢であることは、私自身が一番わかっている。けれど、原因と対策が分かっている以上恐ろしくはない。
最も恐ろしいのは、何故イジメられるのか、何故疎まれているのかがわからない時だ。わからない、理解できないことは、それ自体が不安と恐怖を齎す。そうなってしまえばパニックになって、身動きが取れなくなる。
そしてそれは、第三者による解決を見ても、根本的な解決になることが少ない。イジメの原因が他者ではなく自身にあった場合、それは結果的に何の改善もなされていないからである。
それを考えれば、この状況は随分と余裕(、、)だ。
少なくとも、小学生ときのそれ(、、)に比べれば。
怖くはあっても恐ろしくはない。それはけれど、恐怖を感じないと同義ではなかった。
「何こいつ、ちょー生意気なんだけど」
「桜が怖いからじゃんねぇ?」
「そーそー。震えてんじゃん、かわいそー」
あははは。
ちっとも可哀想と思ってなさそうな笑い声を上げながら、少女たちは僅かに動いて私を囲い込むような位置取りになった。
桜ね。桜。二年一組の桜。よし、覚えた。
他の二人はわからないけど、最低一人覚えればいい。
あとは芋づる式に掘り出せる。
大事なのは反駁できぬほどの情報だ。
何処の誰が何をしたか。
相手はイジメをする方。
私はイジメを認める方。
だけど、イジメを判断するのは第三者なのだ。曖昧さは出来うる限り排除する。
「あたしらが暖めてあげるわよ。ほら、水のほうが暖かそうじゃんね?」
「それいいかも。私らちょー優しくね?」
「確かにー」
茶髪女二人が明確な悪意を持って手を打った。まるでそれが自明の理であるかのような軽快さで。
二人の足音が私の背後に回る。背後には男子トイレと女子トイレがあり、その外に清掃用らしい水道とバケツがある。
知っていた。
深く取られた流しには、清掃後に片付けるのが面倒だからと、いつもバケツが置かれたままになっているのだ。
ザー。
バケツに水を貯める音が冷徹な響きで周囲に広がり始める。
ぞわり、と寒気が走った。
尻餅をついたまま動かない私に、少女先輩が詰め寄った。
「玲二君に今後一切近寄らないって言うなら勘弁してあげるけど」
高みから見下ろすようにして少女先輩が言う。
意味がわからない。どうしてあんたたちに勘弁してもらわないといけないのか。
こちらには切り札がある。
でもそれは、もっとも有効に使えるときまで取っておくべきだ。
今はまだ、体がぶつかってこけただけ、などと言い訳が出来てしまう。
それにここで切り札を使ったところで、内容が巧妙で陰湿になるだけの話。意味がない。
そういえば、物陰というわけでもなく、人通りが極端に少ないわけでもない場所なのに、先ほどから誰も通らないな……。
そんなことを思っていると、突然髪の毛を鷲掴みされ引っ張られる。髪の毛が抜けるかと思うくらい痛い。離せよこのやろう。将来ハゲたらおまえのせいだぞ。涙出る。
それでも私は喋らない。
しげしげと私の顔を観察する視線が、目を、鼻を、頬を、口を撫でていく。
言いようの無い不快感。
沈黙が落ちる中、ただ確実に溜まっていく水音が決壊のときを着々と刻んでいる。
少女先輩は私の頤に手をやり、無理やり持ち上げた。しゃがみ込んだ少女先輩の剣呑な視線が直に突き刺さる。
嫣然な微笑み。
次の瞬間、頬が熱を持った。平手で叩かれたのだと気づいたのは、倒れ付してからのこと。
衣擦れの音がして、少女先輩が立ち上がった。
「あんたみたいな女が付きまとうから、玲二君が冷たくなるのよ。いい加減にしてくれない? 彼にもう近寄らないで」
その途端、微かに蟠っていた恐怖がスルリと抜け失せた。
愛らしい顔に見合わない台詞と声音だけど、ちっとも怖くない。痛いのは痛いし辛いけど、全然怖くない。
あの獣に噛み付かれるかと思った瞬間の、あの背筋が凍る感覚。
本物の拳銃を持ったとき瞬間に感じた、命のちっぽけさ。
くだらない。
その程度のことで。
キュッと蛇口を捻る音がして、空から雨が降ってきた。
そんなことはない。
バケツの水が全身にかけられた。
新しく注がれた水道水だからか、汚臭はしない。
冷たい。
このままでいたら冗談ではなく震えだしそうだ。
張り付く髪と服の感覚が煩わしく、滴り落ちる雫がうっとおしい。
押し込められた哄笑が頭を、体を撫でて通り過ぎる。
「つめたそー」
「ねぇ、大丈夫ー?」
「これに懲りたらもう彼に付きまとわないことね」
言って、三人組は笑いながら立ち去っていく。
一人、ぽつんと取り残される。
何だ、この茶番。唐突で理不尽で、笑えて来る。
哀れな道化にも、それに付き合わされた自分自身も滑稽で仕方ない。
「ふ、ふふ。あはは」
一頻り笑って、体を起こすとポケットから携帯を取り出す。壊れてない。よかった。
これが壊れてしまえば、次の携帯を購入するお金がなかった。
私は少女たちの生み出した水溜りに沈んだまま、しばらく携帯のキーを入力し続けた。
◇ ◇
「ということで、今日のお仕事は欠席します」
敬礼して言った私の、濡れたままの全身を上から下へ胡乱に眺めて、玲二が言った。
「で?」
フリーズ。
玲二の無感動な視線が、氷点下以下の冷気を持って私を打ち据える。
ただでさえ濡れた制服に奪われた体温が、弥増して下がる気がした。
「え? あはは、嫌だなぁ、先輩わからないんですか?」
「いきなり、というわけで、とかわかると思ってるのか?」
「あの……えぇっと…………ですよね」
用件はそれだけかとばかりに鼻を鳴らして、玲二は踵を返して黒い扉に向かおうとする。
私は慌てて彼の腕を掴んで、慌てて離した。まだ濡れてた。
「あのぉ……昨日お借りした地図、きちんと覚えたのでお返ししようかと思いまして……」
調子が狂ってしまった。
腰を低くして言いながら、私はポケットから地図を取り出す。四つ折にされていたそれは、水分を含んでまるで一枚であるかのように張り付いていた。
意図せず頬が攣った。
これを持っていたことを忘れていた。
それを玲二が冷たく見下ろす。
「か……」
咄嗟に地図をポケットに仕舞い直して隠蔽を図る。
「借りたままじゃ悪いんで代わりの地図持ってきますぅぅ!!」
私は脱兎の如くその場を逃げ去り、ロッカールームに駆け戻った。サンダルシューズがぺちょぺちょと音を立てる。
ちらほらと行き交う生徒が何事かとこちらを見た。
その視線が「係わり合いたくない」という意思を持って離れていくのを努めて無視する。
小さな錠前がつけられているロッカーには手を出さなかったようだ。もしロッカーが凹んでいたり、錠前が壊されていたら犯罪物である。さすがにそこまで可哀想な頭はしてなかったらしい。
手早く鞄から折りたたんだ真新しい地図を取り出して、鍵を閉めなおす。
駆け戻る。
実習棟には玲二の姿はなかったが、例の扉は存在していた。私には見えるときと見えないときがあるので、これで扉が見えなかったら憤慨ものだっただろう。
扉の前で立ち止まり、僅かな時間で呼吸を整えた。
ロッカールームとは違う、大きな南京錠が外れていることを確認して、私は扉を開ける。
中に半裸の玲二がいた。
私はそのままの姿勢で硬直すると、満面の笑みを浮かべて、彼とつかの間視線を交わした。
そして――私はそっと地図を床に置くと、黙って静かに扉を閉めた。
水滴を散らしつつ、私はわき目も振らずに一目散に駆け出す。
玲二が追いかけてくる気配はなかった。