#0002 [煩悶]
ノックを二度。
「学園長、玲二です」
「お入りなさい」
中からすぐいらえがあり、玲二と名乗った男がドアを開いた。
「失礼します」
玲二は部屋の中に入るとすぐ左に捌け、視線で私と美帆に入室を促した。
学園長室に入るのなんて初めての経験である。「失礼しまぁす」とおっかなびっくり足を踏み入れると、続けて美帆も入室を果たした。
室内は広くスペースを取られており、書架や飾り棚などに挟まれて応接用のシックな色のソファーが置かれている。テーブルはガラス張りだ。
その奥に黒檀の執務机があり、学園長はそこへ備えられた椅子に体を預けていた。
学園長は入学式の際に一度その姿を見た限りであったが、私は内心感嘆の溜息をつかざるを得なかった。
白いものが混ざり始めた頭髪は綺麗に整えられ、皺の深い顔立ちは朗らかで優しい印象が目立つ。
臈たけた貴婦人とはこの事か、と思える。
学園長とはそのような人だった。
学園長は頬に手を当てて密やかに笑った。
「あらあら。玲二君がお客様をお連れするなんて、初めてのことではなくて? お二人とも、うちの生徒さんね」
「はい。この二人は例の地下で保護し、こちらにお連れしました」
それを聞いた学園長は僅かに表情を変えた。緊張気味の私がそれに気づいたときには、もう穏やかなものに戻っていた。
ちなみに、お連れする、と言ってしまえば語弊があろう。
「あらぬ疑いをかけられてから謝罪するより、真っ先に謝罪に出向いたほうが利口だと思うぞ。お前たちが、今後もこの学園で生活するつもりなのであれば、な」
そんな脅しに、ほいほいと着いていくことしかできなかっただけなのだ。
「そうですか。ご苦労様でした。後のことは引き受けますので、戻ってよろしいわ」
それを聞いた玲二は一礼すると「失礼します」と口にして出て行った。
取り残された私は、隣の美帆と目配せをした。
「ふふ。そう緊張なさらなくて結構よ。どうぞお座りになって」
学園長は椅子から立ち上がると、そう促した。私は緊張で回転率の落ちた脳味噌を稼動させて下座がどちらになるか導き出すと、頭を下げてそちらに座った。
「失礼します」
「し、しつれいします!」
革張りの高級そうなソファーは容易く二人分の体重を受け入れ、その座り心地に軽く驚嘆した。驚きから逸して姿勢を正していると、正面のソファーに学園長が腰掛けた。
「さて。まずはお二人には一つ、お願いをしなくてはいけません」
「なんでしょうか」
その返答がなんであるかなんとなく予想がついたが、私はあえてその先を促した。
学園長は頷いて。
「あの場所に関する、全てのことについて口外しないでいただきたいのです」
予測されたものだ。二人は頷いた。
それを見て、学園長はほっとした様子を見せた。
「ありがとうございます。私としても措置は取りたくないので、お二人のお心遣いに感謝しますわ」
それは、そうだろう。
緘口令が敷かれることは歴然としていた。
それを破ってしまえば何らかのペナルティがあることは考えていたが、学園長の口から「措置」という言葉が出たことで、背中に怖気が走った。「措置」が停学や退学という枠に収まらないものであるような……そんな予感。
私のその様子に気づかず、学園長は話を進める。
「それともう一つ、これは強制というわけではないのですけれど」
学園長は手を束ねて身を乗り出した。
「玲二君の手助けをして欲しいのよ」
「お断りします」
間髪いれず、美帆が言った。美帆は部活にも入っているので、引き受けるわけにもいかないのだろう。
「そう、それなら仕方ないわね。そちらの方はどうかしら?」
横顔に鋭い視線を感じる。
「もちろん只とは言わないわ。もし引き受けてくださるなら、奨学生待遇として迎えさせていただきますし、可能な限りの補助をお約束しますわ」
その言葉に思わず心が揺れた。瞑目し、沈思黙考する僅かな間。
好奇心と危機感だけで言うなら、好奇心が上回る。奨学生待遇というのも魅力的に思う。
しかし、即応できるかと言われれば、それは難しい問題だった。
瞼を開いた。
美帆と学園長の視線が無音の圧力を持って迫ってくる。
私は――――。
「少し考えさせてください」
保留を選んだ。
学園長は落胆を僅かに滲ませ、しかしすぐに相好を崩すと、名刺を取り出して差し出してきた。
「では、引き受けてくださる気持ちになりましたら、こちらに連絡をください」
私はそれを咄嗟に片手で取ってしまいながら、ぺこりと頭を下げる。
「すみません、お忙しいのに」
「いいえ、こちらこそ遅くまで引きとめてしまって、ごめんなさいね。もう授業は始まっているでしょう? 学生の本分は勉学ですからね、頑張ってください」
二人は立ち上がってお辞儀した。
「では、失礼します」
「失礼しましたー」
ニコニコと笑いながら小さく手を振る学園長に見送られ、部屋を後にした。
◇ ◇
美帆がもぐもぐと、やたら盛んに口を動かしていた。
放課後のことだ。
その可愛らしいとは言いがたい食欲の犠牲になっているのは、何処からどう見てもタイヤキであった。
満腹堂という、タイヤキ、たこ焼きをはじめ、アイスクリームにラーメンといった多様な食を提供している店で先ほど購入したものだ。すでに頭の部分は胃へと消え失せ、今は背びれの辺りを咀嚼しているところである。
その光景を見ていると、立ち塞がる問題を蹴り飛ばして結論に縋り付きたくなる。
胸元を押さえ、なんとかその思いを飲み下そうとしていると、いつの間に食べ進めたのか、尻尾の部分を口からはみ出させて咀嚼している。
唇を使って残りの部分を弄んでいた彼女は、一息にそれを口腔に納めた。
私と視線が合った美帆は、目を丸くした。
「何? なんかついてる?」
不思議そうに頬に手を当てて、何か付いていないか調べている姿を見て「なぁんにもついてないよ」と返してあげた。
美帆が一瞬、ムッとした表情を作るが、すぐに興味の対象は別の場所へ移った。
「ほら加奈、見てみて! 新作だって!」
美帆はアーケードの反対側に立ち並ぶ店々の一つ、パステル文字でシャノワールと書かれた全面ガラス張りでおしゃれな雰囲気の洋菓子店を指差し、そのまま店頭に張り出された新作紹介のポスターの元へ走っていった。
店員急募! と書かれたチラシのすぐ横に張られた、桃とメロンを使った新作ケーキのポスターを見てはしゃぐ美帆を他所に、私は力なくため息を吐いた。
美帆とは別に、店員募集のチラシを見る。
時給七百五十円。休日は五十円アップ!
この辺りでは時給的には安いほうだが、駅前センター街にはスイーツのお店は若干少なかった。それよりも服飾関係のショップが断然多く、その時給も高めだ。
一本道を外れればおしゃれなカフェなどもあるが、それならば服飾店を選ぶ程度、といえば大体の時給は推定してもらえるだろう。
もちろん私の性格もあるけれど。
金欠故に一人暮らしを断念し、寮生活を余儀なくされている自分にとって、贅沢とはなかなかできるものではない。
それを目の前で行う人間と行動を共にするというのも、精神衛生上あまりよろしくはない負担を感じるのであった。
小躍りしながら店内に吸い込まれていった美帆の後姿を見て、再度ため息。
「やっぱりバイト、引き受けてみようかなぁ……」
携帯をポケットから取り出し、電話帳から一人の名前を探し出す。先ほど登録されたばかりの名前は、文字でありながらまるで堕落を誘い込む悪魔のようにも見える。
コンコン、と窓と叩く音がして視線を向けると、美帆がガラス越しに店内からこちらを呼んでいた。座っているテーブルの反対席を指差しながら、何事か口で文字を作っている。
早く中に入って来い、と促しているのだろう。
ひらひらと手を振って携帯を閉じると店内へ入る。と、すぐに空調の効いた涼やかで甘い香りに包まれた。
知らず、ほぅと息をついて、美帆の手招きするテーブルまで移動する。
席に着いた私に、早速とばかりに美帆が話しかけてきた。
「ねね! さっき携帯見てたのって、アレ?」
そのアレが差すものが何なのかわからない、なんてことはない。私たちは、一緒にその話を聞いたからである。
「アイツもヤなやつだよねぇ。ちょっとくらい見逃してくれたって、バチは当たんないっつーのに」
美帆の言うアイツとは、地下で出会ったあの男のことだろう。
助けてもらったお礼と、勝手に中へ入った謝罪を鼻であしらわれたとき、私は驚いて硬直しただけだったが、美帆は露骨に眉を顰めていた。
「しかも、あんなやつのサポートなんて。あーもう、無理無理! 断っといて正解だよ! 加奈もさっさとお断りしといたら?」
――玲二君の手助けをして欲しい――。
正直、私も苦手なタイプだ。
せっかく寮暮らしで煩わしい親元を離れられたというのに、またしても苦手な人間と付き合わなければならないというのもおかしな話に思う。
しかし、手助けの内容が詳しくわからないまでも、奨学生待遇――この場合、寮費の免除と奨学金の配布――のメリットは、私にとってあまりにも強烈な誘惑である。
美帆は親に反対されるわけでもなく、むしろ背中を後押しされる形でこの学園に入学を果たしたこともあってか、親からの仕送りはそれなりのものがあるだろう。
この違いが、今日の惨状を招いていることは一目瞭然であるだった。
それに、あの地下での体験はなかなか衝撃的だった。
彼の手助けをする、ということは、再びあのような事態に遭遇することが十分あり得るわけだろう。それがこの件を引き受けるのを思い留まらせる理由の一つにもなっているのだが、しかし同時にあの防空壕に対する好奇心が存在するのも事実である。
そうなると美帆の言うとおり、相手の性格的な問題がこの一件を躊躇するのに一番大きなウェイトを占めていることになるのであるが。
――――とはいえ。
「お待たせいたしました。こちら、桃とメロンのミルフィーユでございます」
ウエイトレスの見本のような態度で、注文したケーキを運んできた店員が「ごゆっくりどうぞ」と一礼して去っていく姿を見るともなしに見つめる。
三層重ねになったパイとクリームの上にコーティングされたカットメロンが乗っている。
美味しそう。
銀のフォークを手に取った美帆が、テンション鰻登りの様子でミルフィーユを分解し、その一切れを串刺しにしてこちらへ向けた。
「ん。おいしいよ、食べてごらん!」
「いや、あんたまだ一口も食べてないでしょ」
とか言いつつ、お言葉に甘えてぱくり。
さくさくの生地に挟まれた、程よい甘さの桃果肉inメロンムースは絶妙で。
同じフォークで次の一切れを口に運んでいる美帆を見て、やっぱり引き受けようって、そう思った。
――――それが昨日のこと。
善は急げと、そのまま承諾の電話をかけ、学園長から「では、早速明日から」と言われ軽くテンパったりもした。お風呂に沈みながらアイツの顔を思い浮かべて唸ったりもした。
兎に角。
今日の放課後には例の男と会うことになっているわけで。
黒板に英文を書き付けていた教師が、教室備え付けの時計を見やる。釣られて視線を動かしてみると、授業が終わるまであと五分程だった。
最後の英文の訳を説明し終わると、再び時計を窺いながら次回の授業予定にして口にした。それを聞き流しつつ、訳文までノートに写し終わるのとチャイムが鳴ったのは、ほぼ同時のこと。
教師は手短に授業の終了を宣言すると教室から出て行った。
授業前後の挨拶をしない教師は、この英語教師と現文教師だけである。
「んあー」
両手を広げて大きく背伸びをする。同じ姿勢で長時間書き取りをしていたせいで、体中が鈍い疲労感に苛まれている。
荷物を纏めて教室を出て歩いていると、背後から美帆が現れ――――こちらに気づかないまま走り去っていった。
どうやら今日は部活らしい。
――――一年生は全員、いずれかの部活に入らなくてはならない。
なんていう制約はないが、高校生ともなれば帰宅部にその身を甘んじている者など一握りである。その一握りの一人である私も、今日からは寮に直行する生活ではなくなったのだ。
一旦ロッカールームに鞄をおいてから実習棟へ向かう途中。
渡り廊下に差し掛かったときだった。
腕組みをして壁に寄りかかっている男子生徒が一人、剣呑な雰囲気を放っていた。少々浮かれ気味で歩いていた私は、それに気づくのが遅れ、思わず立ち止まってしまった。
忘れようとも忘れられないその生徒は、あの日出会った男子生徒だったわけである。
どうやら俯き気味に目を閉じているらしく、こちらに気づいた様子がないので、事前に聞いた学園長情報を脳内プロフィールから引っ張り出して、照らし合わせてみることにする。
名前は北条玲二。二年生。私の一個上で、一組らしいので特待生のようだ。ちなみに二組から六組までは基本的に成績順に割り振られ、私は残念ながら六組だった。
一年のときにはサッカー部でエースだったというから驚きである。
運動神経抜群、成績優秀、その上見た目も悪くないときている。
これでモテないわけがない!
確かに改めて見てみると、背はそれなりに高いし、サラサラな短めの髪も清潔感がある。足もスラッと長く、顔のパーツは可愛い系というよりはカッコイイ系だし、控え目に判定しても、十分な美男子である。人気投票でもすれば、上位に食い込むこと間違いなし。
ただ、一番問題なのは、その性格ではあるのだが……今考えてみれば、進入禁止区域に入ったのは自分たちだから、厳しい対応をされたのは当然である。
となれば、あれがデフォルトではないはずだから、物腰柔らかになるとポイント急上昇である。うっひゃあ!
などと考えながら観察していると、突然目が合った。
いつの間にかこちらに気づいていたらしい。
先ほどまでの多少邪な思考のこともあって、悪いことをしたわけでもないのに、何故か大量の冷や汗が出てきた。
無言で見詰め合うこと数秒。
「……お前」
「な、なにっ?」
緊張のあまり声が裏返ってしまったが、玲二は気にした様子もない。
「俺の手助けをするのが、お前の仕事だったな?」
言われて、そういえばそんなこともあったと思い出す。
そうだ。これからのパートナーを観察していただけなのだ。お互いのことを知らなければパートナーが務まるわけがない。悪いことなんてこれっぽっちもないのである。
開き直りのような思考の結果、少し気持ちが落ち着いた。
「あ、そうですそうです」
愛想笑い混じりに笑いながら返事をする。
抑揚の乏しい、まるで水のようにさらさらとした声音で、彼は続けて言った。
「以後、俺に関わるな」
「…………は?」
関わるな、ということは、えぇっと……?
「お前みたいなのにうろちょろされても邪魔なだけだ。報酬は変更されないから、もうこれ以上この件に首を突っ込んでくるな」
あまりの拒絶っぷりに、脳みそどころか体ごとフリーズした。
言いたいことを言い終えた玲二が、踵を返して去っていく後ろ姿を、ただ呆然と見送った。
…………何、今のって……。
「どういうこと?」
私の呟きは、誰にも聞かれることもなく宙に溶けていった。
前言撤回。
やはり、一番の問題は性格だった。
反芻してみれば、これは何のトラップだ! と言わんばかりの高待遇である。
玲二に関わらず、かつ例の地下道を口外しないだけで、寮費は無料だし、奨学生にもなれる。諸手を上げて喜んでいいところかもしれない。
――――だけど。
「それで簡単に納得できるわけないじゃん」
明らかに馬鹿にされて、迷惑がられて、情けまでかけられるなんて、とんだ屈辱だ。自己中野郎め。こんなので納得できるわけがない。
長年両親を相手にして折れていた反骨精神のようなものがメラメラと燃え上がった。
見てろ、ぎゃふんと言わせてやる。
玲二が向かった先は実習棟。
ということは、おそらく例の地下へ行ったのだろう。
私は燦然と目を光らせながら入り口へ向かった。
だが、しかし。
「――――ない……」
確かな位置を記憶していたわけではないが、そう遠くない過去のことである。
忘れるわけがない。
なのに、いくら探そうとも黒い扉はおろか、奥まった通路すらなかった。
実習室と準備室が規則正しく並び、通路が入る余地もないのである。
なんだか眩暈がする。
まさか、今までのことは夢? 白昼夢? そんな馬鹿な、誰か嘘と言って!
同じ場所を何度も行き来し、丹念に調べた結果。
諦めた。
「どういうこと……」