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#0001 [学園](2)

 最初の十字路を直進し、木箱を迂回して次の三ツ又を左に進む。

 通路は先ほどより狭まり、二人が横並びになると若干手狭に感じる程度になった。しかし、しばらく進むと若干広いフロアに出た。道はさらに奥へ続いていて、その先で右へ折れている。

 先ほどから通路の隅に木箱や皮袋が纏められているのが目に付く。

 何が入っているのか、若干気になる。

 後ろ髪を引かれつつ先を進むと、三ツ又に差し掛かった。三ツ又は左に進むと予め決めたのだが、残念ながらそちら側の通路は崩落していて通ることが出来なかった。

「うーん、さすがにこれは通れそうにないね」

「加奈が本気を出せばこのくらい……」

「美帆が私のことなんだと思ってるのがひっじょーに疑問だわ」

 軽口を叩いて奥に続いている通路へ向かおうと踵を返したとき、聴覚を何かの音が揺らした。

 立ち止まると片手を上げて美帆にも静止をかける。

「ねぇ、今何か……」

 警戒心から自然、密やかになる声音で確認を取ろうとしたとき、今度こそはっきりとその音が聞こえた。

 二人は揃って、ギクリと身を強張らせる。

 ゆっくりと顔を見合わせて、僅かに震える声で問い合う。

「……今の、もしかして」

「……遠吠え、だった?」

 犬の遠吠えのような声は、しかしこの場所の異質さ故に、楽観視することを許さない緊迫感を二人に齎したのだった。

 細い通路を乱反射しながら届いた遠吠えは、しかしそのために正確な位置や距離の把握を妨げられ、漠然とした不安が心を蝕んだ。ここは用心のためにも引き返したほうが得策だろうと、図らずも二人は同時に思った。

 しかし、数メートル先で左方向に折れた通路から、ヌッと巨大な体躯が姿を現したのはそのときのことだ。

 大きさで言えばそれほどでない。大型犬ほどのそれは、漆黒の体毛に覆われていた。ランタンが放つ光は、その体毛で反射もせずに消え失せ、艶がない。漆黒に包まれた四足獣は、その狂暴性と獰猛な本性を真紅の瞳に載せ、こちらを睨み付けている。

 剥き出しの犬歯は鋭く長い。

 友好的とは程遠い。

 むしろ敵対的でさえある。

 警戒しているのか、唸り声をあげながらゆっくりと歩を進める獣は、だがその我慢が長く続かないことを、口元から滴る涎の滝が物語っていた。

 これはまずい。

 息を詰め、相手に合わせて後ずさりしながら思案する。

 こんなのがいるとは思いもしなかった。

 あの太くて強靭そうな四肢からして、全力疾走しても逃げ切ることは容易くなさそうだ。

 先手を取って、怯んだ隙に逃げるのがベターか。

 ちらりと横目で窺うと美帆は恐怖のあまり顔面蒼白になっていた。我を忘れて逃げ出すほどでないだけマシだ。

 自分がやるしかない。

 乗り気ではなかった美帆を、私が強引に誘った結果が、これなのだ。

 美帆を残すという選択肢も私にはあったはずだ。結局私は自分の心細さと美帆の優しさに負けたのだ。

 その責任は果たさなければいけない。

 心配してくれる家族の元に、美帆を返さなければいけない。

 腹をくくった。

「美帆。私が走れって言ったら全力で逃げるのよ」

 相手を警戒して視線を逸らさずに小言で囁くと、美帆が目を見開いた気配を感じた。しかし、それ以上はない。思っていたより冷静そうだ。

 美帆は小さく「わかった」と口にした。

 ゆっくりと後退しながらポケットから飴を一つ掴みとる。

 心臓が胸を叩きつける。

 もし失敗したら――なんて考えない。

 絶対に成功させるのだ。

 入り口までつけば扉がある。

 あれを閉じてしまえばきっとそれ以上追ってはこられないだろう。

 生唾を飲む。

 一つ手前にあったランタンが視界に入ってくる。


 ――――今ッ!


 握っていた飴をランタンに向かって投げつける。当たるだけでも、ランタンが落ちても、それなりの音が鳴れば十分に隙は作れるはずだった。

 しかし、投げた飴がランタンに当たることはなかった。

 投げた飴は壁面に当たって、小さな音を立てながら跳ね返る。

 獣の視線が一瞬、そちらを逸れる。

 ドクン、と血が跳ねた。

「走って!」

 視線を逸らしていた獣が、その声に反応してこちらを向いた。すでに詰め寄っていた私は、その横っ面目掛けて蹴りを放つ。避けようと身を捩った相手の鼻に爪先が当たり、痛みに叫び声があがった。

 相手が飛び下がったのも見ずに、そのまま反転すると駆け出した。

 美帆は指示通りに走り出していたようで、前のほうを脇目も振らずに走っている。

 足先の痛みに顔をしかめながら、どれほどの牽制効果があったのか確認したくなった。

 走りながら後ろを見ると、ちょうど立ち直ったらしい獣が、獰猛な唸り声を漏らしながらこちらに向かって駆け出すところだった。

 開いた距離は、僅か五メートルもない。

 しかも、予想外だったことは四足獣のスピードがかなり早いことだった。それなりのスピードを予測していたが、これは埒外である。

 思わず心の中で悲鳴を上げた。

 必死に両足を動かすが、向こうは強靭な足を駆使し、容易く上回る速度で迫ってくる。

 五メートルあった距離は、あっという間になくなってしまった。

 焦ってポケットをまさぐってはみるが、大したものは入っていない。むしろ携帯と飴しか入ってない。

 思考が逸れた空喰を、衝撃が襲った。

 あっ、と思ったときにはすでに遅かった。

 つんのめり、急接近する地面に受け身を取ることさえできなかった。

 倒れ伏す衝撃に、背中からの獣の体当たりで受けた衝撃で、肺の中の空気が抜け出てくぐもった声が漏れた。

 余りの痛みと、呼吸困難に歯を食いしばって耐えていると、背後からの重圧が増した。外見を裏切らない体重で押さえつけられ、呼吸さえままならない現状ではどうしようなかった。

 荒い鼻息と獣臭が耳元近くを掠める。捕らえた獲物が食べられるのかどうか、匂いで判断しているのだろうか。

 必死に顔をあげて確認すると、視界にはすでに美帆の姿はなかった。

 ほっとしたような、悔しいような複雑な心境に陥って、しかしそんな場合ではないと思い直す。

 腕を使って体を捻り、獣の下から抜け出そうとするが、相手も逃がすまいと体重をかけて押さえ込んでくる。

 だが、それだけで済むわけもなかった。

 荒い息遣いが首元に近づいてくる気配を明確に感じ取り、超然とした恐怖が体の隅々に行き渡って、思わず身を硬くした。

 アフリカなどでライオンやヒョウの生活を撮影したドキュメンタリー番組の一場面。

 獲物を捕らえた王者たちは、それらを逃がさぬように喉笛に食らい付き、抵抗力が削ぎ落とすのだ。

 それがまさに今、自分の現状と酷似しているように思えた。

 これから訪れるだろう痛みと苦しみと絶望の果てに、自分は死んでしまうのだろうか。もう二度と、学校の帰り道で買い食いもできぬのであろうか。あぁ、それならばせめて一昨日、財布の中身と葛藤してストロベリーシャーベットの練乳添えの注文を泣く泣く断念するのではなかった!

 恐怖と絶望の果てにそのようなことを考えたのはコンマ二秒ほどのこと。まさに走灯馬の如く一昨日寄ったアイスクリーム屋の景色が過ぎっていった。

 だが、そこから意識を現実に引き戻させたのは、訪れるはずの激痛ではなかった。

 急に背後を押さえつける圧力が減じたかと思ったら、直後に何かが転がる激しい音が鼓膜を叩いた。私は目を瞬かせ、すばやく立ち上がりながら周囲に視線を走らせた。

 片手で抱えるほどの木箱が一つ、後方に転がっており、それを挟む形で先ほどの四足獣が唸り声をあげている。

 先ほどの大音響は、この木箱が転がる音が狭い空間で反響しまくったせいだろう。それを投げた張本人は顔面蒼白で、しかし漲るような決意に満ちた目をして、それらに対峙していた。


「加奈! 早く!」


 美帆の言葉にハッとして、私は駆け出した。

 ギャアウ! と叫び声がして四足獣が追いかけようと木箱を跳び越えてくる。美帆はもう一つ携えた木箱を両手で持ち上げ、威嚇しながら後退し始める。

「美帆!」

 恐怖と安堵と緊張がごちゃ混ぜになった声音で呼ぶと、彼女は硬い表情ながらしっかりと頷いた。

「私が、ほんとに加奈を見捨てるわけ、ないで、しょ!!」

 気合一発。

 美帆の投擲した木箱は、こちらに向けて再び歩を進めていた獣の足元付近に激突して転がった。相手もそれにぶつかることなく、すばやく後方に下がってやりすごした。

 二人はそれを見て踵を返す。

 全力疾走もかくやという勢いで、防空壕を走り始める。

 それを獣は叫び声を上げながら追従してくる。

 多少距離が開いたとはいえ脚力の差は埋めがたく、またしてもあっという間に距離が縮まってしまう。美帆も、両手に木箱だけを抱えて戻ってきたようで、それ以上に有効な手段は残されていなかった。

 ぐうたら生活を送り、悲鳴を上げる衰えた体に鞭を打ち、二人は走った。


 ついに、最後の角を曲がり、残りは十字路を挟んで一本道をなったとき、美帆が背後を振り返ってギョッとした。太い前足が凄まじい速度で振り下ろされるところだったのだ。

 慌てて壁際に寄って避けるが、今度は反対の足で横殴りに責めてくる。

 美帆が今にも倒れそうな顔をしながら立ち竦んだのを見て、ステップを踏んで左足で急制動をかける。勢いを乗せた右足で、猛然と襲い掛かる獣の前足を蹴り上げた。

 そのまま軽く踏み込んで踵落としよろしく、獣の顔面を蹴りつける。

 しかし、ギャと叫び声を上げながらも、標的を変えた四足獣はそのままこちらへ突っ込んでくる。

「ッ!」

 左足だけで体を支えていた不安定な姿勢。

 体勢を整えることなどできず、押し倒されるようにして転がった私に食らい付こうと大口を開けた獣の横っ面を、美帆の投げつけた携帯が強打した。

 最近の軽量化が進んだ携帯とはいえ、至近距離から投げつけられれば凶器である。仰け反った獣の顎に、追い討ちとばかりに膝蹴りを打ち込んでやる。

「もう少しだよっ!」

 美帆が差し伸べた手に捕まって体を引き起こすと、もはや後ろを振り返ることもせずに走った。


 例の獣は、先ほどの攻撃が予想外にダメージになったからか、先ほどまでの脚力はないながらも、恐ろしい速度で肉薄してくる。

 もう二人は、前だけを見て叫び声をあげながらも、ただただ走った。

 十字路を通りすぎたとき、暗がりに何かがいたような気がした。全力疾走をしていたためによく見えなかったが、強烈な感覚に引きずられるようにして、後方を見る。

 ちょうど、四足獣は十字路に入ったところで、その太い前足で駆けていた肉体が唐突に二つに分かれた。

 正確に言えば四つの足と胴体とに分解された。

 宙を滑るように前進していた獣の胴体部分が、支えとなるべき四肢を失って地面に落ちる。勢いに乗っていた胴体はそのまま地面をごろごろと転がっていき、壁面にぶつかってようやく止まった。遅れて事態を確認しようと四足獣の首が動き、自身の四肢を視界に入れる前に、その頭が落ちた。

「加奈ッ!?」

 突然足を止めたことに気が付いた美帆が、悲鳴のような声をあげた。しかし、自身もその光景を視界に捕らえるに至って、同じく足を止める。

 四足獣のすぐ横には、日本刀のような長い刃物を携えた青年が立っていた。彼は自身の作り上げた肉片を一瞥すると、刀を鞘に収めてこちらに視線を向けた。

 その炯眼に射竦められた美帆が、小さくヒッと息を呑んだ。

 私も怖気づいてはいたが、彼が窮地を救ってくれたのは確かである。

 お礼を言うべき場面であるが、この青年が何者なのかが謎だ。

 服装からすれば同じ学園生なことは確かだろうが。

 呆然と立ち尽くしながらも、そのようなことを考えていた私に、彼は静かに問うた。

「ここは立ち入り禁止区域となっているはずだが。お前たち、何故ここにいる」

 有無を言わせぬ口調で断じられ、冷や汗が一つ。

 額から流れ落ちていくのを知覚した。


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