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「羊臭い令嬢は不要だ」と婚約破棄されましたので、聖なる朝霧の丘へ帰らせていただきますわ ~実は私、国境結界を維持する唯一の羊飼いだったのですが?~

作者: uta
掲載日:2026/09/24

「羊臭い令嬢など、次期王妃にふさわしくない。婚約は破棄する」


王太子ジェラルド・アルストレアの声が、豪奢な大広間に高らかに響き渡りました。


シャンデリアの光が、彼の輝く金髪を照らしています。傍らには、蜂蜜色の巻き髪を揺らした聖女候補リゼットが、儚げな微笑みを浮かべて寄り添っていました。


私――メルディア・ヴァン・ホルストレム辺境伯令嬢は、その宣言を、まるで天気の話でも聞くように受け止めました。


(あ、これ完全にホワイト職場に戻れるやつだ)


心の中でそっと拳を握ります。前世で過労死するまで牧場を回していた元社畜としては、この状況、正直ちょっと嬉しい。


周囲の貴族たちが、くすくすと嘲笑を漏らしていました。


「まあ、あの羊臭い田舎娘が」

「ようやく殿下も目を覚まされたのね」

「自ら羊を追うような令嬢、王妃など務まるはずもないわ」


扇の陰でささやかれる声が、耳に届きます。ええ、存じております。私が社交界で何と呼ばれているか。


『野蛮』『田舎娘』『羊臭い令嬢』。


夜明け前の霧の中、丘に立って羊を導く私を、この人たちは一度も理解しようとはしませんでした。


リゼットが、勝ち誇ったように口を開きます。


「メルディア様、どうかお気を落とさないで。あなたには……その、丘のお仕事がお似合いですもの」


(哀れみを装った侮蔑。……実に見事な演技ですこと)


私は静かにドレスの裾をつまみ、淡々と一礼しました。


「承知いたしました。では、朝霧の丘へ帰らせていただきます」


喚きもしません。涙も見せません。


「……ふん。せいせいする。二度とその羊の匂いを王都に持ち込むな」


ジェラルドが、心底うんざりしたように吐き捨てます。


ええ、こちらこそ。


ただ――去り際に、ひとつだけ。


「……ところで殿下。あの丘が、何を守っているか、ご存じでしたか?」


ジェラルドは、きょとんとした顔をしました。


「……は? 何を、言っている」


何を言っているのか、まるで分かっていない顔。


それでいいのです。


「いいえ。何も。……それでよろしいのです。誰もご存じないのですから」


(ただの羊などではない、あの子たちのことを――さようなら、王都)


私は踵を返し、大広間を後にしました。


背中に浴びせられる嘲笑の一つ一つが、むしろ軽やかな解放の合図に聞こえました。


◆


王都を発つ馬車の中で、私は窓の外を流れる景色を眺めていました。


引き止める者は、誰一人いませんでした。


結構。こちらこそ、せいせいしました。


北へ、北へ。緑の平野が霧に霞み、やがて空気がひんやりと湿り気を帯びてきます。


朝霧の丘。王国の北の果て。


ここが、ホルストレム家が代々治める土地です。


そして――ここが、この国の生命線であることを、王都の誰も知りません。


千年前、我が一族の祖は、この地の精霊と契約を交わしました。


丘に立ちこめる『聖なる朝霧』。それこそが、北の魔獣領を封じる国境結界の本体なのです。


そして、その霧を生み出すのは――丘で放牧される『霧羊』たちの、静かな呼気。


羊を毎朝、正しい順路で丘へ導き、霧を編み直す。


それができる者を、『霧編みの羊飼い』と呼びます。


代々、ホルストレム家の血族のみが受け継ぐ技。そして今、それができるのは――


私、ただ一人。


(『ただの羊の世話』だと思ってたけど)


前世で牧場を経営し、獣医補助として家畜と向き合ってきた日々。


輪換放牧の理屈も、群れの心理も、家畜一頭一頭の体調管理も。すべて体に染みついていました。


それが、霧羊を導く神聖な技能と、恐ろしいほどぴったり噛み合っていたのです。


私は、無自覚でした。


毎朝あたりまえのように羊を追い、毛を刈り、霧の中で丘に立つ――それが国家防衛の要だなどと、考えたこともありませんでした。


馬車が丘の麓に着いたとき、乳白色の霧の向こうから、聞き慣れた鳴き声が響きました。


「メエ……メエェ……」


霧羊たちが、私を出迎えてくれたのです。


柔らかな毛並みが、そっと私の手に擦り寄ります。


気づけば、頬を涙が伝っていました。


(ただいま。……ここが、私の居場所だ)


社交界の嘲笑も、婚約破棄の屈辱も、この霧の中では何ほどのこともありません。


私は、帰ってきたのです。働きたくなかった場所から、働きたい場所へ。


◆


「お帰りなさいませ、お嬢様」


羊飼い小屋の戸口で、白髪を後ろで結った小柄な老女が、皺だらけの手を広げて私を迎えました。


ノラ。ホルストレム家に何代も仕えてきた、忠義の家令兼乳母です。


「ノラ……ただいま」


「さあ、お座りになって。温かい羊乳のスープを用意しましたよ。冷えたでしょう」


変わらぬ日常。変わらぬ温もり。


木の器から立ちのぼる湯気を口にすると、体の芯までじんわりとほどけていくようでした。


王都では、私がどれだけ嘲笑されても、ノラだけは違いました。


「王都で、何かございましたか」


ノラが静かに尋ねます。私は微笑みました。


「婚約を、破棄されたわ。羊臭い令嬢は不要だ、と」


ノラの手が、一瞬止まりました。それから、ふっと、可笑しそうに笑ったのです。


「まあ。……あの方々は、ご自分たちが何を手放したのか、お分かりにならないのでしょうね」


「ええ。誰も知らないもの。この丘のことを」


ノラは炉の火を見つめ、ゆっくりと語り始めました。


「千年前、初代様が精霊と契約を交わされたとき――霧羊たちは、ただの守り手ではなかったと伝わっております」


「初代様は『霧編み』の中でも特別なお方。白金に輝く伝説の霧羊――アルジェント様を、唯一導けたお方だったとか」


「白金の……霧羊」


聞いたことのない名でした。


「ええ。長らく、霧の最奥に隠れ、どの羊飼いの前にも姿を見せぬ個体。……いつかお嬢様が、その資質をお示しになる日が来るやもしれませんね」


ノラの言葉に、私は静かにスープをすすりました。


そのときはまだ、それが何を意味するのか、分かってはいませんでした。


ただ――窓の外、深い霧の奥で。


(窓の外……深い霧の奥で。何かが、こちらを見つめている気がする)


その気配だけを、確かに感じていたのです。


◆ ――王都・王城 数日後


異変は、静かに始まりました。


朝霧の丘から立ちのぼる霧が、日に日に薄れていったのです。


正しい導き手を失った霧羊たちは、丘に霧を編めなくなりました。


そして――千年間、揺らぐことのなかった国境結界に、ひびが入り始めたのです。


北の魔獣領から、黒い瘴気が滲み出す。魔獣が、じわりじわりと国境を越えてくる。


王城の広間は、大混乱に陥っていました。


「殿下! 北の砦から緊急の報せです! 結界が……結界が消失しつつあると!」


伝令の悲鳴じみた声に、ジェラルドは眉をひそめました。


「何を騒いでいる。……結界がどうしたと?」


「魔獣が、国境を越えて――」


「そんなもの、聖女リゼットの『聖なる光』があれば事足りるだろう。……そうだな、リゼット?」


全員の視線が、リゼットに集まりました。


彼女は、白い聖衣の裾を握りしめ、うろたえるばかり。


「わ、私の力は……その、治癒が専門で……魔獣領の封印など、とても……」


「なんだと!? 貴様、聖なる光で国を守ると言ったではないか!」


「そ、そんな……私は、ただ……!」


沈黙。


そして、貴族の一人が震える声で言いました。


「まさか……朝霧の丘の霧が消えたのは、あの令嬢が去ったからでは……?」


「メルディア嬢が、結界を……?」


ざわめきが、津波のように広がっていきます。


「まさか……朝霧の丘の霧が消えたのは、あの令嬢が去ったからだと言うのか」


ジェラルドの顔から、みるみる血の気が引いていきます。


(あの丘が、何を守っているか、ご存じでしたか――)


去り際のメルディアの言葉が、今になって、王太子の耳の奥で反響しました。


ジェラルドは、玉座の間の床に膝をつき、掠れた声を絞り出しました。


「……羊飼いを。羊飼いを、連れ戻せ……! 早くしろ、国が滅ぶぞ!」


傲慢な王太子が、初めて見せた醜態でした。


ですが――失ってから気づいても、もう遅いのです。


そのころ丘では、また別の来訪者が、霧を割って現れようとしていました。


◇ 朝霧の丘


乳白色の霧の中を、黒銀の軍装をまとった長身の男が、静かに歩いてきました。


漆黒の短髪。頬に走る古い戦傷。そして――竜の血を引く証、縦に細まった深紅の瞳。


王国最強の竜騎士団長、アルヴィス・レン・ドラクヴァルト。


『冷酷無比の竜狩り』と、王都で恐れられている男です。


背後の空には、巨大な竜の影。契約竜ヴェルグが、翼を休めています。


「魔獣討伐の任で来た」


低く、抑揚のない声。私は羊の群れを背に、彼と対峙しました。


ですが――彼の深紅の瞳は、討伐すべき魔獣ではなく、霧の中で佇む霧羊たちと、それを導く私を、じっと見つめていました。


そして、一目で。


彼は、理解したのです。


「……これが、結界の本体か」


私は、思わず目を見開きました。


この丘に来て、誰かが一目で見抜いたのは、初めてでした。


「なぜ、お分かりに?」


アルヴィスは、傍らのヴェルグを一瞥しました。


「俺も、獣を導く者だ。群れを統べる者の孤独も……その価値も、知っている」


短い言葉。けれど、そこには確かな敬意がありました。


次の瞬間、一頭の霧羊が、群れから逸れて霧の奥へ駆け出そうとしました。


アルヴィスが、無言で身を翻し、大きな体で羊の進路を塞ぎます。


そして、驚くほど優しい手つきで、羊を群れへと戻したのです。


「……手を貸す。羊は、逃がすと厄介だ」


ぶっきらぼうな声。けれど、その所作は、明らかに動物を知る者のものでした。


(この人……所作が、明らかに動物を知る者のものだわ)


私たちは、無言で羊を追いました。霧が、少しずつ濃さを取り戻していきます。


やがて朝日が霧を金色に染めたとき――アルヴィスの口元が、ほんの少し、ゆるみました。


初めて見る、彼の笑みでした。


「……竜も、朝は機嫌がいい。ヴェルグは特に、焼いた羊乳のパンを好む」


「まあ」


「あれは、賢いんだ。俺が朝食を持っていくと、翼を震わせて出迎える。羽根の艶も、餌で変わってな――」


竜の話になった途端、急に饒舌になる竜騎士団長。


(あ、この人。動物のこと話すと、止まらなくなる人だ)


私は思わず、くすりと笑ってしまいました。


「ふふ。……竜のお話になると、急に饒舌でいらっしゃるのですね」


「……悪いか」


「いいえ。……とても、いいと思います」


『羊臭い』と嘲られた私を、この人だけは――『尊い』と、その瞳で語っていたのです。


◆


王家からの使者が、丘を訪れたのは、その翌日でした。


泥にまみれ、息を切らせた使者が、恭しく――ほとんど土下座せんばかりに、書状を差し出します。


「メルディア様! どうか、どうか王都へお戻りを! 結界が崩壊寸前なのです!」


「王家は、あなた様に、あらゆる謝罪と補償を――! どうか、この通りでございます!」


私は、書状を静かに受け取りました。


中身は、要約すればこうです。


『先の婚約破棄は誤りであった。至急帰還し、結界を修復せよ。相応の地位を約束する』


(相応の地位、ね。……今さら、使い潰される席に戻れと?)


私は、窓の外の霧を見つめました。


前世で、身を粉にして働いて、それでも報われず倒れた私。


今度こそ、自分の居場所は、自分で決めます。


「お顔をお上げください。……北の民に罪はありません。結界は、必ず守ります」


「で、では――!」


「ですが、王都へは戻りません。返書をお持ちください」


私は、羽ペンを取り、たった一枚の返書をしたためました。


悩む必要は、ありませんでした。


「『殿下が仰った通り、私は羊臭い令嬢ですので、王都には不要でございましょう?』」


羽ペンが、迷いなく走ります。


「『丘の守りは、丘を敬う者と共に、この地にて果たします。――独立した辺境守護者として、対等な契約のもとに』」


羽ペンを置き、私は静かに息を吐きました。


誰かに使い潰される羊飼いではなく――自らの意志で、この丘を守る者として。


傍らで書状を覗き込んだアルヴィスが、ぽつりと言いました。


「……いい返答だ」


「あら。冷酷無比の竜騎士団長様が、反逆的な女をお褒めに?」


「反逆ではない。当然の対価を求めているだけだ。……俺が、後ろ盾になる」


さらりと告げられた言葉に、私は思わず彼を見上げました。


「……よろしいのですか。国の英雄が、王家に楯突くことになりますよ」


深紅の瞳が、まっすぐに私を見ています。


「あなたのしていることは、尊い。俺は、それを知っている」


(ああ。この人は――『臭い』ではなく、『尊い』と。ちゃんと、言葉にしてくれる人なのですね)


◆ 王都・その後


因果応報とは、実によくできた言葉です。


王太子ジェラルドは、結界喪失の全責任を負うことになりました。


国家の生命線たる守護者を、私情と浅慮で切り捨てた愚かさ。魔獣の被害は各地に及び、彼の名は民の恨みを一身に背負いました。


『次期王妃にふさわしくない』と嘲った令嬢こそが、国を支える唯一の要だった――その事実が明るみに出たとき、彼の立場は、もはや取り返しがつきませんでした。


王太子は、廃嫡。


輝いていた金髪の美形は、青ざめた顔で王城を去っていったといいます。


そして、聖女候補リゼット。


結界の危機に、彼女は何一つ役に立ちませんでした。


それどころか――追い詰められた彼女の『聖なる光』が、詳しく検分された結果。


その力は、宣伝されていたような万能の聖なる力などではなく、ごく限定的な治癒に過ぎず、多くは誇張と演出による詐称であったことが、露見したのです。


見せかけの聖女。華やかさだけで、実質を伴わない偽物。


彼女の儚げな微笑みも、清楚な白い聖衣も、すべてが張りぼてであったと知れ渡り――リゼットは、社交界から静かに姿を消しました。


華やかで、中身のない者たち。


地味で、けれど不可欠だった者。


失ってから、人はようやく、その価値に気づくのです。


◇ 朝霧の丘


「お嬢様。王都では、廃嫡やら詐称露見やら、随分と賑やかなことになっているそうですよ」


ノラが、羊乳のスープを運びながら微笑みます。


「そう。……ざまぁ、なんて叫ぶ気も起きないわ。ただ、霧が編み直せれば、それでいい」


「お嬢様らしゅうございます。……今朝の霧は、いっそう美しゅうございますね」


「ええ。……ここが、一番落ち着くわ。奪われない、私だけの居場所」


静かな朝。柔らかな羊の鳴き声。


私は、ようやく手に入れたのです。


奪われない居場所を。誰にも侮られない、自分だけの丘を。


◆


穏やかな日々が、朝霧の丘に戻ってきました。


アルヴィスは、あれから何度も丘を訪れるようになりました。


表向きは『魔獣領の警戒任務』などと言っていますが。


実際は、羊の番を手伝い、ヴェルグに羊乳のパンを焼いてやり、私と並んで霧の中に立っている時間の方が、ずっと長いのです。


「……メルディア」


「なあに?」


「その、羊の匂いは。……悪くない」


ぶっきらぼうに、けれど耳を赤くしながら告げる竜騎士団長を見て、私は思わず噴き出してしまいました。


「まあ。それ、口説いているつもり?」


「……そうだ」


(迷いのない返事。……今度は私の頬が熱くなる番だなんて)


前世では、恋をする暇もなく働き詰めでした。


この丘で、こんな穏やかな幸せを手にできるなんて、思ってもみませんでした。


――そんな、ある朝のことです。


いつものように霧を編んでいると、群れの奥、いっそう深い霧の中で。


何かが、ゆっくりと、動きました。


「……メエ」


静かな鳴き声。けれど、いつもの霧羊とは、まるで違いました。


霧を割って、一頭の羊が姿を現します。


白金に輝く毛並み。通常の霧羊よりひと回り大きな体。


そして――星を溶かしたような、銀色の瞳。


その呼気は、純白を超えて、虹色の光彩を帯びていました。


「アルジェント……」


背後で、ノラが息を呑む声がしました。


「お嬢様……あれは、白金の霧羊。千年前、初代様しか導けなかったという、伝説の……」


どの羊飼いの前にも、決して姿を現さなかった個体。


その羊が今、まっすぐに――私を、見つめているのです。


「なぜ、私の前に……」


アルヴィスが、静かに私の隣に立ちました。


「お前が、資質を継ぐ者だからだ。……ただの後継者ではなく、初代と同じ『真の霧編み』の」


白金の霧羊アルジェントは、一歩、また一歩と、私に近づいてきます。


(この瞳の奥……千年前の、まだ知らぬ約束の名残のような)


その瞳の奥に、何か――千年前の、まだ知らぬ約束の名残のようなものが、宿っている気がしました。


国境結界の、さらなる秘密。


精霊との、再びの契約。


そして、千年前の因縁。


この一頭の出現が、何かの始まりであることを、私は直感していました。


私はそっと手を伸ばし、白金の毛並みに触れます。


温かく、そして――力強い脈動が、指先から伝わってきました。


「はじめまして。……いいえ、お帰りなさい、かしら」


アルヴィスが、深紅の瞳を細めます。


「……何かが、始まるな」


「ええ。今度は――私の意志で、始めましょう」


朝日が霧を虹色に染め上げ。


私の新しい物語は、静かに、その幕を開けようとしていました。

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