/F_o_a_F/ (たぶん)友達のともだちから聞いたはずの不穏な話
イノシシ
_/90年代末/東京都町田市近郊/男性/21歳/学生/
H君が学生時代に借りていたアパートは、踏切のすぐ近くにあった。一階の角部屋なので、早朝の始発が通る音で目が醒めることが多かった。カンカンカンカン……という遮断機の警告音が目覚まし時計代わりというわけだ。
早寝早起きが信条なので、まだ外が薄暗い時間に起こされることは苦にならなかったが、それでも冬場はすぐに布団から出る気にならず、電車が何本か通り過ぎる音をぼんやり聞く。さて、今日の一限は何の講義だったか、バイトは何時からのシフトだったかな……などと一日の予定を整理して、やっと暖かな布団から出る踏ん切りがつく。
その朝も始発の音で目が醒めた。えらく寒いのでなかなか布団から出る気がしない。
と、窓の外から砂利を踏みしめる足音が聞こえた。
H君の部屋は共有の駐車場に面している。まだ日も昇らぬ早朝から出かける人でもいるのだろうか。
だが足音は車に乗り込む様子もなく、ただ駐車場を歩き回っている。砂利を踏む音が遠くなったり近くなったりしているところから判断するに、ぐるぐると円を描いて歩いているようだ。ときたま走ってもいる。
近所の人が犬の散歩でもしているのだろう。さて、そろそろ朝飯の支度でもするかと起きあがったとき、
んごっ んご ぶひっ
という鳴き声が聞こえた。
おや、と思って耳をすますが、もう足音は聞こえない。どこかへ去ってしまったようだ。
H君の実家は林業を営んでいる。だから山に住む動物に関してはそれなりに詳しいつもりだ。
あの鳴き声はきっとイノシシだろう。最近はイノシシの数が増え、山に餌がなくなる冬場になると住宅街に降りてくることも多いと聞く。基本的には警戒心の強い動物だから人の気配を感じ取れば逃げるが、急に驚かせて逆襲された場合は危険な猛獣となる。突進してきてぶつかるのも怖いが、成獣に噛みつかれたら指なんかぜんぶ持ってかれるぞ、と父親が言っていたのを思い出した。
その後も、冬のあいだ何度か、始発が通る時間帯に砂利を踏みしめる足音とあの鳴き声を聞いた。駐車場の脇にゴミ捨て場があるので、それを漁りにきているのかもしれない。父親の言葉を思い出すと少し気になったものの、実際に見たわけではない。なにしろ寒いので、布団から出て確かめる気が起きないのだ。
むしろ気になったのは、アパートのまわりは山も林もない、自然といえば街路樹と小さな緑道公園だけの造成地だったことだ。どこにイノシシが住んでいるのだろう。もしかしたらペット豚か何かかもしれないと思うようになった。
そうこうするうちに日差しが暖かくなり、春になるともう足音はやって来なくなった。
次の年の冬。
とても寒い日だった。H君は部屋に友人たちを招き、持ちよった食材で鍋パーティーをしていた。鍋を空けたあとは当然そのまま呑み会となり、安酒をがぶがぶ呑んでいるうちに夜も更け、終電のタイミングも逃したのでそのまま朝までコースとなった。
友人たちは始発が出る頃になったら帰るというので、三人でだらだらと呑みながら電車が走り出すのを待っていた。
遮断機の警告音が鳴り始めた。
そろそろ走り出したみたいだから俺ら帰るわと友人たちが立ち上がったとき、窓の外で砂利を踏みしめる音が聞こえた。
遮断機の警告音でよく聞こえないが、確かにざっ、ざっ、ざっ、というリズミカルな足音が駐車場を走っている。
んごっ ぶ ぶひっ
くぐもった鳴き声も微かに聞こえた。
あ、去年来ていたイノシシか。
そういえば、今年の冬にやって来るのは、今朝が初めてだなと、アルコールで弛緩した頭でH君は思った。
何気なくカーテンを開け、窓から駐車場を伺う。
まだ辺りは真っ暗だ。
それは小走りに駆けていた。街路灯の光がちょうど届かないあたりにいるのでよく見えないが、地面に鼻を擦りつけながら、しきりにぶひぶひと鳴いている。
「……え、けっこうデカいやつじゃん」
H君は思わずつぶやいた。
「何? なんかいんの?」
興味を惹かれた友人たちが訊いてくる。
「ここらへん、冬になるとイノシシがやってくるっぽいんだよね」
「マジで! こんな街ん中で?」
「いや、俺も実際に見るのは初めてなんだけど。ほら、見てみろよ」
「んー、なんかぐるぐる回ってるやつか?」
「よく見えんけど、え、デカすぎね?」
「ブーブーいってるの聞こえるからちょっと静かにしてみてよ」
そのとき、始発の電車が通り過ぎた。車輌内の明かりが差し込んで、暗かった駐車場がしばらく照らされる。
駐車場の端にいた大きな影も照らされ、H君たちにもその姿がはっきり見えた。
四つん這いで駆けながら地面に鼻を擦りつけていたそれは、背広を着ていた。
電車が去り、辺りがまた暗がりに戻る間際、それはすっと二本足で立ち上がった。
こちらに振り向く気配を察し、友人のひとりがすごい勢いでカーテンを引いた。
三人は突っ立ったまま黙って見つめあった。
ドン! と大きな音を立てて玄関のドアが叩かれた。
息を殺して、じっと様子を伺っていると、
「ごめんくださーい」
という、低い不明瞭な声が聞こえた。みんなそのあたりで限界がきて、床にへたり込んでしまった。
その後も何度か、思い出したようにドアが強く叩かれた。
日が昇る頃になってやっと、玄関前の雰囲気が消えた。だが、朝の雑踏が始まり外が賑やかになるまで、誰もドアを開ける気にはならなかった。
あれは、去年の冬から何度もやって来てたんだ。この部屋の裏の、駐車場に。
そう考えると耐えられなくなり、H君はその日のうちに引越しの準備を始めた。




