第二話 一生懸命にしているつもり
グリフィン伯爵領から、ラポール伯爵領まではそこまで遠いわけではありません。
私一人でも行けるくらいには——いえ、貧乏で私一人分の旅費しか用意できず、使用人の一人もつけずに寂しく旅したのですが。
東の辺境から王都までのちょうど真ん中にある、河川と大平野を擁するラポール伯爵領は、実家とは比べ物にならないほど賑やかでした。
もくもくと黒煙を吐く機関車が停まる鉄道駅があり、市中は広い道路を囲むように高層のアパートメントや店舗が立ち並ぶ整然とした大都市だったのです。
(……驚いた。貴族はほとんど貧しくなったと聞いていたけれど、ラポール伯爵家は上手く立ち回っているのね)
いや、まだ決めつけるには早いかもしれません。ラポール伯爵家だって、グリフィン伯爵家のように屋敷だけしか残っていない没落貴族の可能性もあります。だとしたら結婚に際してどう多額の支度金を用意するんだ、という否定材料もありますが、それはさておき。
人で混雑する鉄道駅の車寄せには、何台もの大型の馬車で渋滞していました。
田舎者の私はすでに怖気付いてしまう光景なのですが、ここはグッと我慢します。今更、後ろに下がれやしないのです。
一歩、一歩と前へ足を踏み出しながら、私は人々の顔よりも上を見上げます。
約束では、ラポール伯爵家の迎えがこの鉄道駅に来ているのです。
ヒールを足したって大して背の高くない私ですが、必死であたりを見回し、何かないかと探します。
たとえば、封筒に記してあったラポール伯爵家の紋章——赤い馬と荊——などが見つかれば。
駅の正面にも、壁にも、街灯にもなく、車寄せ側へ視線を向けたそのときです。
少し先にある、白い二頭立ての馬車にラポール伯爵家の紋章が印されていたのです。
嬉しさを堪えて私は早足で近づき、馬車の扉前で待機していた男性へ声をかけました。
「ラポール伯爵家の方でしょうか? グリフィン伯爵家のアルビナと申します」
間違っていたらどうしよう、と思わなかったわけではありません。この瞬間にも、心臓は飛び出しそうなほど脈打っていて、歩いて息が上がって紅潮した顔は平静を装っているだけです。
そんな心配をよそに、男性はうやうやしく頭を下げ、穏やかな声色で私を馬車へと誘導しました。
「アルビナ様、お待ちしておりました。どうぞ、中へお入りください」
この場にへたり込みたいほど疲労感に襲われたものの、私は力を振り絞って馬車へ乗り込みます。
こんなの、きっとまだ序の口です。
馬車が走り出し、そうして辿り着いた先で、私の試練はまだまだ待ち受けているのでしょうから。
嘘のような、一面の湖水の島々に浮かぶ白亜の館たちは、そのすべてがラポール伯爵家の屋敷だそうです。
湖の周囲にあるいくつかの建物もラポール伯爵家所有のゲストハウスや別邸であり、あちこちに架けられた馬車が余裕で通れるほどの石橋の先にはまた別の建物が——一体どこまでがラポール伯爵家の屋敷なのか見当もつかないほどです。
情けない間抜け面を晒さないよう気を確かに持ち、私は屋敷の本館、すなわちこれから生活する場所へと案内されました。
市街地からさほど離れていないのに一階しかない屋敷の中は不思議なほど静かで、水気の多い土地だと言うのに湿り気さえ感じません。かつてのラポール伯爵はどれほど高名な建築家を呼び、どれほど私財を投じてこの立派な屋敷を建てたのか、まったくもって同じ貴族としての格の違いを思い知らされます。
重厚な装飾がこれでもかと壁や石柱を覆い、かつ遮るもののない明るい日光が差し込む廊下を見ては絶句する私ですが、案内役の男性——執事の一人らしいです——は特に気にする素振りもなく、流れるように屋敷の主人がいる部屋の扉の前へと私を導きました。
両開きの扉が押され、厳かに広大な部屋をあらわにしていきます。
当たり前のように、馬の群れが描かれたフレスコ画の天井と、金があしらわれた背の低い調度品が並び、ベルベットのカーテンには埃一つ、ほつれ一つ見当たりません。
その中心に、金と白の杖を立てかけた分厚いアームチェアに腰掛け、こちらを見ている老人がいました。
間違いありません。写真で見たとおりの老伯爵が、私を目でしっかりと捉えていました。
親よりもはるか年上の老伯爵に嫁ぐ身となった私ですが、いざ相対しても思っていたよりも威圧感は覚えません。
私は大理石の床に足音が響かないよう部屋に足を踏み入れ、白髪を後ろに流し、白髭を蓄えたラポール伯爵の正面に立ちました。
ところが、私が挨拶をする前にラポール伯爵は制止するように右手を挙げ、自分から口を開いたのです。
「よく来た、アルビナ嬢。長旅で疲れたことだろう、今日は挨拶だけ済ませておこう」
若干微笑むラポール伯爵は、低く穏やかな声の持ち主でした。
少なくとも、私の抱えている緊張は、失礼のないよう脳内で繰り返してきた挨拶の練習を実践する邪魔をせず、しっかりと一礼できたのです。
「お初にお目にかかります、ラポール伯爵閣下。私、アルビナと申します。あなたの妻となるため、はるばるやってまいりました。今後ともよろしくお願いいたします」
言えた、ちゃんと言った。やった。
噛むことなく、初めての挨拶の言上はつつがなく終えました。
ところがです。
ラポール伯爵は、おかしそうに笑うのです。
「ふっ、ふふふ」
急に不安になり、私は尋ねます。
「何か、粗相がございましたか」
上手くいっていると思っているときほど、失敗していることに気づかないものですから、何かしでかしたのかと私は戦々恐々です。
しかし、そうではなかったのです。
ラポール伯爵は、意地悪くこう言いました。
「いや、何とも心の籠もっていない挨拶だと思ってな」
それは嫌味か、嘲笑かも定かではありませんが、私は頬を赤くするばかりです。まるで、心の中を覗かれているかのようですし、不快なのは間違いありません。
私は、仕方なく謝っておきました。
「……それは、失礼いたしました」
「かまわぬ。言っておくが、私はもう六十八になる。孫もいるこの年齢で、君と夫婦の営みをしようとは思っていないよ」
ラポール伯爵は、はっきりとそう宣言しました。
目を白黒させる私としては、いいのか悪いのか、ただただ混乱しきりです。
「で、ですが、私はあなたと結婚するのでは?」
「ああ、書類上はな。私は、君の祖父とは前の前の戦争からの戦友だったのだよ。彼が亡くなってもう何年か……ふと今のグリフィン伯爵家の窮乏を聞きつけ、援助の代わりに君と結婚することになった。近頃は、貴族間の援助が同族相憐れむだの何だのと批判の的になる。だが、親族であればある程度は批判を躱わせるのでね」
何ともまあ、ラポール伯爵は老いてなお口の滑らかなことです。
つまるところ、ラポール伯爵と私の結婚は『白い結婚』である。そういうことでした。
ただ、それでも実家グリフィン伯爵家は助かるのですから、私としては問題ありません。
謎の安心感を覚えた私は、正直に口にします。
「では……グリフィン伯爵家は、何とかなるのですね。安心しました」
「心配はいらない、君の弟が家督を継ぐまでは援助することになっている」
「そうですか。それならよかった、感謝いたします」
今度こそ、私は本心そのものを口にしたつもりです。弟が次のグリフィン伯爵としてやっていけるなら、十分すぎるほど対価をいただいたことになりますからね。
「ただ、周囲の目もある。君には私の妻らしく振る舞ってほしい、以上だ」
「分かりました。あなたの顔と家名に泥を塗らぬよう、励みます」
ラポール伯爵は「うむ」とだけ返事をして、私から顔を背けました。もう退室していい、という意思表示だと受け取った私は、遠慮なく出ていきます。
結婚を決めてから今の今まで、私は不安だらけでした。
もし結婚相手のラポール伯爵が若い娘を好む色惚けジジイだったらどうしよう、とか、そんな失礼なことばかり考えていたものですから、私は知らずに背負っていた肩の荷が降りたようです。
ひとまず冷静にして、『白い結婚』を喜ぶようなはしたない真似はしないようにしなくてはなりません。
第一、ラポール伯爵は縁あるグリフィン伯爵家を援助するための形だけの結婚を了承してくれた恩人なのですから、私は頭が上がりません。こんな豪邸に住む裕福な貴族が手を差し伸べてくれる機会など、もう降って湧いてはこないのです。大事にしなくては。
廊下に出ると、執事がさらに案内を続けるとのことです。冷静を心がけて、楚々とついていきます。
初対面の場所から廊下を曲がり、さほど離れていないところにまた両開きの扉がありました。
執事の手で開かれた扉の向こうには、ドーム状の高い天井を持つ一室が広がっていたのです。ここも天井にフレスコ画があり、照明用のシャンデリアはありません。テーブルやソファといった家具があるのみです。しかもこの一部屋だけで実家の食堂より大きく、さらに別の扉が二つほどあって、まだ部屋は続いているのです。
驚いて息を呑んで、それから執事に声をかけられて正気に戻った私は、ラポール伯爵の妻らしく、恥とならないように、と何度も心の中で唱えてから、執事へ応じました。
「こちらが居室となります。奥には寝室が、それとドレスルームや読書室がございます」
「ありがとう。食事はどうすればいい?」
「それについては旦那様より、しばらくは自室で摂るように、とお言いつけが」
私は黙って頷きました。ラポール伯爵にも家族はいるでしょう、いきなり若い妻と顔を合わせて、家族の食事を摂ることを許せるとは限りません。気まずい思いはしたくないですからね。
ひと通り案内を受けて、ドレスルームにポツンと置かれていたトランクから荷物を取り出し、私はソファに身を投げ出しました。
張りのあるソファにぽすんと落ちて、目を閉じます。自分で思っているよりもずいぶんと気疲れしているらしく、眠気が襲ってきたのです。
ちょっとした午睡は許されるだろう、と休まったのも束の間、どこからか声が聞こえてきました。
扉が閉まっていても、廊下の音はそれなりに聞こえます。
「あの方? 旦那様の遺産目当て?」
「しー、聞こえるわよ。若い身空で、ご実家の援助と引き換えにって話よ」
「よくある話よねぇ。まあ、旦那様に限ってはあんな小娘に手を出しはしないだろうけど」
「それでも、他の使用人や屋敷に出入りする人間と何かがあったっておかしくないでしょ。執事長に目を光らせろって言われてるのよ」
「はん、若奥様から手出しされちゃどうにもならないでしょうに」
噂好きなメイドたちの話が、すっかり私の耳にも筒抜けでげんなりします。
別に、ラポール伯爵家で好意的に迎えられるとは思っていませんでした。財産目当ての後妻と罵られても、実際そのとおりなのですから。
(つまり……私はお飾り、援助の抵当ってことじゃない。何ができるわけでもなし、ラポール伯爵家の人々からは援助だけじゃなく、老伯爵の遺産目当てと思われて視線が厳しいだろうし、あの老伯爵と仲良くできる気もしない。こんな針の筵で何年暮らせばいいの? 老伯爵が死んだ後、私には死別歴がつくだけってこと? そんなの、あんまりじゃない……)
これが不幸な結婚でなくて、何というのでしょうか。
かつての貴族令嬢たちは、婚約者と結婚して貴族らしく跡取りを儲けて優雅に暮らして……なんてできたのでしょう。そこに不幸はあっても、貴族として私ほど惨めではなかったはずです。
でも、そんな時代は終わりました。
貴族令嬢は、富裕層の市民たちが肩書きと身分のために娶り、そこに後戻りできる実家も温かな愛もありません。私は白い結婚だからまだよかったものの、年を取った大金持ちが望んで若い貴族令嬢と結婚する、という例もあるのですから、果たしてどうすればよかったのか。




