第十二話 愛の形
今日は、集めた資料をまとめ、次の行動指針を決めるため、屋敷の書斎を借りての作業です。
大体の情報は聞き取りで把握していますが、実態と齟齬があってはいけません。人は嘘を吐くつもりがなくても、思い込みや情報伝達の失敗で間違った情報を口にしてしまうことだってあるからです。これも経営学の本の受け売りですけども。
「うーん、付き合いのある他市や他領はこのくらいかしら。そのうち今でも財力があったり、繋がりが強いところを重点的に調べて、補完関係にある産業を探しましょう」
「そちらは商工会議所に資料があるはずです。今でも古い家や貴族が残る土地ならば、伯爵から働きかけてもらうことも検討してみてはいかがでしょう」
ラドル騎士団長からの前評判のとおり、フィーは事務作業が得意で、書類の正確な読み取りや分別、ラポール伯爵領独自の法学の心得もあるようです。
「少なくとも、これまで訪問した組織には違法行為や脱法行為の存在は確認できませんでしたので、このまま引き継いでも問題ありません。ただし、領内法は守れても、国内法の周知徹底は難しいところがありますので、今後連絡を密にする必要があるかもしれません」
集めた書類の大半を読み終えたフィーの言葉は、騎士ではなくまるで熟練の企業家のようです。
「フィーは、そういうことにも詳しいのね」
「はい、フィルフィリシア家は商業にも力を入れているので、その影響でしょう。私以外の兄たちは皆、騎士ではなく商人の道を選びましたから」
「どうして?」
「ラポール伯爵の助言があったのです。騎士の家としてのプライドを守るため、騎士を輩出することはかまわないが、何かあったとき自分たちの食い扶持を守れるよう商いの知恵や伝手を広げておくように、と。その結果、父や兄たちは国内各地で商人として励んでいます」
「お父様も?」
「前の戦争で足を悪くしまして、それから商人に転向しました。同じように、騎士で身を立てることができなくなった人々を積極的に雇って、手助けしているようです」
なるほど。伯爵の助言があったとはいえ、騎士の名家でありながらフィルフィリシア家の人々は立派なものです。フィーもまた、時代の変化を身に染みて育ち、騎士としての技能以外も身につけたのでしょう。
ですが、すべての人がその変化についていけるわけではありません。
そのうちラポール伯爵領がラポール市となることは既定路線です。領主ではなく国に従うという今までになかったやり方に、混乱は必至でしょう。
では、私のやるべきことはその混乱の悪影響を最小限に抑え、先行くラポール伯爵の代わりに人々の暮らしを守っていくことではないか。
私に対して、ラポール伯爵が目指してほしいところは、そんなふうにも思えてきたのです。
その期待に応えられるかはまだ分かりません。たった一ヶ月ほど情報や資料を集めただけでも、これから先、途方もない膨大な量の仕事が待っていることしか判明していないようなものです。
ああでもないこうでもないと資料と睨めっこしていたところ、ラポール伯爵が杖を突いて書斎へやってきました。
「張り切っているな、二人とも」
ここのところ、互いに外出続きでろくに顔を合わせていなかったため、久しぶりの再会です。
右手の万年筆のインク汚れがひどいフィーに代わって、私が立ち上がって伯爵のもとへ椅子を持っていきます。
「帰っていらしたのですね。出迎えもできず申し訳ございません」
「かまわぬよ。それで、進捗は?」
「調査の最中ですので、何とも。でも、手応えはあります」
「そうか、それはよかった。君の部下や教師になりそうな人材にはいくつかよい返事をもらっている、折を見て会ってくれ」
「はい、ぜひ」
私は自分でも驚くほど、スムーズにラポール伯爵とやりとりができていました。緊張してセリフを用意していなければならなかった最初のころとは違い、今は自然と言葉が出てきます。不思議なものです。
すると、フィーが席を立ちました。
「私は席を外しましょう。手を洗ってまいります」
「あ、フィー」
伯爵へ一礼したフィーはすみやかに、書斎をあとにしました。
言われなくても、その意図は分かります。私と伯爵を二人にして、話をさせようという配慮でした。
「もう、気遣わなくていいのに」
「適度にお節介なのはいいことだ。君もやることができて、充実しているだろう?」
「……それは、はい、確かに」
「けっこう。私にもできることがあれば協力しよう。もっとも、今更この老骨には名前を使うことくらいしかできぬがね」
「十分です。 いつまでも伯爵に頼ってばかりでは、やっていけませんから」
そう言ったあと、私はラポール伯爵と目を合わせ、おかしくて笑い合ってしまいました。
それは、今度こそ虚勢を張ったわけではなく、本当にそう思ったからこそ、私の口をついてでた言葉でした。
しかし、ラポール伯爵の顔からはスッと笑みが消えました。
「伯爵? 何か?」
機嫌を損ねただろうか、と私が顔を覗き込むと、ラポール伯爵は首を横に振りました。
「ああ、いや……若者に苦労をかけさせる老人はどうしようもない、と思ってな」
「何のことでしょう?」
「世代のことだ。この国は、前の戦争で負けた。それは私を含めた大人たちが責任を取るべきだった、なのに実際に大損を被っているのは君のような若い次の世代で——それに、君の兄のような青年たちの命を平然と奪い、輝かしい未来を潰した罪は重い」
その言い振りは、老伯爵の顔のしわの一本一本にまで、後悔が染み込んでいるかのようです。
私は、後悔が悪いとは思いません。でも、そればかりでもよくないのです。泥濘のように前へ進む足を絡め取り、諦めさせてしまうから。
私の父とは違い、ラポール伯爵は今も後悔と戦っています。何度も何度も、進むごとに重くなっていく泥を払いのけながら、それでも前へ進んでいます。
私にできることは何でしょうか。老伯爵に肩を貸すことができなくても、後悔という泥を払う手伝いくらいはできるはずです。
「仕方ありません。現状を嘆くよりも、できることをすべきです。私は、少なくともそのつもりでラポール伯爵家へ嫁ぎました」
私にはそれ以上上手く取り繕うことはできませんが——ラポール伯爵は、意図を察してくれたようです。
杖を押さえ、ラポール伯爵はニヤリと笑いました。
「ふふっ、いかんな。老人は嘆いてばかりだ」
「まったくです」
「言うようになったな、君も」
「慣れてきました。いつまでもヘソを曲げていたって、どうにもなりません」
そう、私だっていつまでもラポール伯爵を認めないままじゃ、どうにもならないのです。
後悔してもいい、だけど進まない理由にしてはいけない。進むための理由を、必死になってかき集めて、私たちは生きていくのです。
そのことを、私は懸命に伝えようとしました。
「私には亡き兄と違ってまだ未来があると思えば、前へ進む気力が湧きます。でも、いずれはそれだけでは立ち行かなくなる。つらいことに打ちのめされて、立ち上がれなくなるときだってたくさんこの先訪れるでしょう。だから、それ以外の理由も欲しいのです。例えばその……伯爵とのいい思い出とか、そういうものを」
ラポール伯爵が鷹のように鋭いはずの目を丸くしたのを私が見たのは、このときが初めてです。
『白い結婚』だからって、夫婦が仲良くなってはいけないわけではありません。そこに一般的な夫婦の『愛』がなくても、別の形の『愛』があっていいのではないでしょうか。
家族愛でも慈愛でも、何でもいいのです。互いを思い、一緒にいたいと欲する気持ちは愛なのですから。
そういう意味では、私はラポール伯爵を『愛している』と言ってもおかしくはないのでしょう。
ラポール伯爵も、仲良くなりたいという思いを持つ私を、拒むことはありませんでした。
「分かった。明日から、できるだけ食事は一緒にしよう」
「……はい!」
「フィーはどうする?」
「本人に決めさせましょう」
私もラポール伯爵も、会話一つ一つがおかしく、くすくすと笑いが絶えません。
しばらくして戻ってきたフィーは怪訝そうに、そして納得して作業を再開しました。




