兎にも角にも人間
ここは、とあるマンションの4階。
私は、就職を機に親元を離れた1人の女とこのワンルームに住んでいる。
「ただいまー」
女が帰ってきた。時間は21時。
女は帰ってくるなり今まで来ていた衣服を全て脱ぎ、今朝脱ぎ捨てて行った服を身につけた。
「疲れたー…お!「クリスマスの朝」じゃん!」
テレビをつけるなり女はこう言った。
「クリスマスの朝」この女の好きな映画らしい。
左手には銀色のタンブラーを持ち、時々口に当てる。
そんなことを数回繰り返した後、私の方を見てこんなことを言ってきた。
「ねぇれみちゃん、やっぱ金曜日のこの時間こそ生きていて良かったって思うよね」
生きていて良かった。映画を放送している間のたった2時間ほどでそう思えるのか。
人間って案外単純だな。
私は自分が何者なのか分からない。なんの為にここにいるのか、いつからここにいるのか。気がつけばこの女がいて、日常になった。
この女はよく、私に「人間ってなんだと思う?」と聞いてくる。
そんな事、自分が何者なのか分からない私に聞いたところで…
そんなことを毎回考えていると、女はいつも自ら答えを出す。
「やっぱ人間は感情があるものだよね。それが、それだけが他の生き物との決定的な違い。」
いつしか、私の中での人間は感情を持つものだと定義づけられた。
女は私に感情とは「悲しいとか、嬉しいとか、理屈とは離れたもの」だと言った。
そうすると私は、人間ではないのかもしれない。
では私は何者なのだろう。
振り出しに戻った。
とりあえず分かるのは、私の目の前にいるこの女は人間であるということ。
現に今、テレビを前に号泣している。
人間は感情から涙を流す。とこの女が言っていた。
私は…きっと涙を流したことがない。
やはり人間ではないのかもしれない。
気がつけば映画が終わったのか、女は立ち上がり風呂に入り始めた。
女は私によく色々な話をする。
「大切な人が亡くなったとき、どんな風に思うのかな」
「私にはまだまだ知らない感情があるんだろうな」
「れみちゃんはこのスープいけると思う?3日前に作ったやつだけど」
「このからあげめっちゃ美味いよ!れみちゃんもいる?
なんてねー」
私が大した返しも出来ないと分かっていながら、求めている返しが出来ないと分かっていながら、女は私に色んな言葉をかけた。
女が風呂から出てきた。先程の部屋着を着て、髪は濡れている。
ピンポーン
女が再びテレビの前へとやってきた時、呼び鈴が鳴った。
「ん?誰だろうこんな時間に」
「はーい」
「すみません、上の階のものですが、里山さんですか?」
「ええ、はい」
「私の部屋の前に「里山さんへ」と書かれた紙袋がありまして…」
「あ、ホントですか?今行きますね!」
ガチャ
「わざわざすみませ……」
バタンッ
ドタドタドタドタドタドタ……
カチャ
女が戸を開けてからすぐ、人が走り去って行く音がした。間隔の狭い音が連続し、聞こえなくなった。
少しして、女が戻ってきた。足を床につけることなく、這いつくばってやってきた。
「れみ…ちゃ…」
手のひらが赤い。そして私の名を呼んでいる。
もちろん、受け答えなどできない。
未だ顔しか見えないが、かなりの量の汗をかいている。
やがて女の上半身のほとんどが私の視界に写るようになった。
腹の辺りから、棒のようなものが飛び出ていて、薄青い部屋着に、赤い染みが広がっていた。
間もなくして、女は動かなくなった。
もしや、死というものだろうか。
私は女の元へ寄ろうとした。しかしそれは叶わなかった。
私がこの女の元へ行けるのは、女が許可をし、扉を開けた時のみ。
私の力だけではどうすることもできなかった。
ここで私は1つ疑問が生まれた。
何故私は今、女の元へ行こうとしたのか。
振り返ってみると、今まで私の意思でこの目の前で横たわる女に近づこうと思ったことがなかった。
この女に抱えられる時、もしくは目の前のこの扉が女の手によって開き、扉の外へ出た時、女が近寄ってきた場合のみだ。
これは、欲望と言わぬほか無いのではあるまいか。
横たわる女に近づきたいという、感情から生まれたものではないか。
もしかすると、私は人間なのかもしれない。
そんな事を考えていると、カーテンの隙間から、光が差した。電気の点いたままのこの部屋では分かりにくいが、間違いなく朝日だ。
「おはようございます。土曜日の朝、いかがお過ごしでしょうか」
テレビがこの部屋に挨拶をした。返すものは誰もいない。
この女は恐らく死んだ。つまり、私の日常が1つ終わりを迎えた。もしくは停止した。
いずれにせよ、今までの当たり前に変化が加えられたことは確かだ。
命が無くなっても、日常が終わっても、いつものように日が昇り、朝がやってきた……
私は今、このどこか悲観的な、喪失感とも取れるモノが、私が生きてきた中で一番人間らしい、最も感情と言えるものだと感じた。
この目の前に倒れている女か、テレビでたまたま聞いた言葉の受け売りかもしれない。
しかし、瞬発的にこう感じた。
私は自分自身が、人間なのだと確信した。




