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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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98/141

98.最後の朝

 朝の光は、いつもと同じ角度で部屋に差し込んでいた。


 薄いカーテンを通した光は柔らかく、床に長い帯を落としている。埃がゆっくりと浮かび、空気は澄んでいた。窓の外から、鳥の鳴き声がひとつ、少し遅れてもうひとつ聞こえる。


 エルディオは目を閉じたまま、それを聞いていた。


 身体は重くない。頭も冴えている。昨夜の眠りは深く、途中で目が覚めることもなかった。呼吸をするたび、胸の奥まで空気が入る感覚がある。


 ――よく眠れたな。


 そう思える朝は、久しぶりだった。


 戦のあとの夜は、どうしても浅くなる。夢を見る。音で目が覚める。身体が先に起きて、意識が追いつかないことも多い。だが今朝は違う。目覚める前から、朝がそこにあるのが分かる。


 遠くで、かすかな金属音がした。鍋が火にかかる音だ。木の床を踏む足音は軽く、意図的に音を殺しているのが分かる。


 シャルが、起きている。


 エルディオはその気配を、心地よく受け取った。家の中にもう一人いるという事実が、こんなにも穏やかに感じられる朝があることを、彼は少し前まで忘れていた。


 ――気を遣わせてるな。


 そう思いながらも、不快ではない。むしろ、その静けさがありがたかった。彼女はいつも、朝の空気を壊さないように動く。目覚めたばかりの人間を、無理に現実に引き戻さない。


 エルディオはゆっくりと目を開け、天井を見上げた。


 木目の一部に小さな傷がある。前に棚を運んだときについたものだ。直そうと思いながら、そのままになっている。こうして見ると、もう生活の一部になっていた。


 布団を抜け出すと、床はひんやりしていた。朝の冷気だ。嫌な冷たさではない。きちんと目が覚める温度。


 部屋を出ると、台所から湯気が立ち上っていた。


「おはよう」


 声をかけると、シャルロットが振り向く。


「おはよう」


 返ってきた声は、いつもより少し軽かった。笑顔も、自然だ。目元が柔らかく、疲れの影はない。


 それだけで、エルディオの胸の奥がほどけた。


 ああ、戻ったんだ。


 あの戦のあとも、ちゃんと休めたんだな。


 そう思えることが、どれほどありがたいかを、彼は知っている。


 朝食の支度は、ほとんど終わっていた。焼いたパンの香り、温かいスープの湯気、切り分けられた果物。配置はいつも通りだが、どれもきちんと整っている。


 シャルロットは、スープを一口すくって味を見た。頷き、もう一度だけ、ほんの少し舌に乗せる。それから鍋を火から下ろした。


「今日は、少し薄めにしてる。朝だから」


「ありがとう」


 エルディオは椅子に腰掛ける。木がきしむ音が小さく鳴った。


 テーブルの上の布巾は、角がきちんと揃えられている。ナイフとフォークの向きも正確だ。湯気の上がり方まで、整って見える。


 ――丁寧だな。


 そう思いながらも、違和感はない。むしろ、気分がいい。


 シャルロットは席に着かず、エルディオの向かいに立ったまま、彼の皿を見ている。


「足りなかったら言って」


「大丈夫。ちょうどいい」


 実際、ちょうどよかった。焼き加減も、塩の具合も、彼の好みに合っている。


 シャルロットはそれを聞くと、少しだけ笑った。その笑顔は、どこか安心したようにも見えた。


「よかった」


 シャルロットは、まだ席に着かなかった。

 座ればいいのに、と言うほどの距離でもない。彼女は最初から、食事という時間そのものを「整える側」にいる。


 皿の位置をほんの少しだけ直す。

 エルディオの手が伸びやすい角度に、スープの器を回す。

 それは世話というほど大げさではなく、癖でもなく、ただ“自然”だった。

 彼女の指が触れた陶器は音も立てずに滑り、湯気だけがかすかに揺れる。


 エルディオは、その動きの静けさに安心する。

 戦場では、あらゆる音が命の証拠だった。

 剣の擦れる音、甲冑の軋み、誰かの息が乱れる音。

 音があるほど、生きている。

 音があるほど、危険が近い。


 けれどこの家の朝は、音が少ない。

 音が少ないのに、息ができる。

 息ができるのに、何も奪われない。

 その感覚が、ゆっくりと彼の身体の内側を温めていく。


「……ん?」


 彼は、スープをもう一口飲んでから、首を傾げた。

 薄い。確かに、薄い。

 でも物足りないわけではなく、むしろ染みる。

 胃の底に落ちた瞬間、体温が一段整う感じがした。


「ちょうどいい。朝って、こういうのがいい」


 言うと、シャルロットは少しだけ笑った。

 笑い方が軽い。

 笑顔が増えたことに、彼は気づく。


 ――明るい。


 それが嬉しい。

 彼の胸の奥で、昨日までの不安がゆっくりほどけていく。

 あの戦の後、戻れなかった何かを、彼女が責めずに、追い立てずに、ただ隣で待ってくれた気がした。


 彼女はパンを切り分け、エルディオの皿に一切れだけ置く。

 置いたあと、パン屑を指先で拾って皿の外に出さない。

 それもまた、小さな丁寧さだった。


「今日は、蜂蜜も出していい?」


「え、いいのか」


「うん。少しだけ」


 戸棚から小さな瓶が出てきた。

 いつもは節約だとか、甘いものは控えようとか、そういう話をするのに。

 今日は、そんな言葉がない。


 シャルロットは蜂蜜を垂らすとき、スプーンの先を震わせなかった。

 黄金色の筋が細く落ちて、パンの表面にゆっくり染み込む。

 落としたあと、瓶の口についた一滴を布で拭き取る。


 ――几帳面だな。


 エルディオはそれを、愛おしいと思う。

 彼女の几帳面さは、戦場の冷たさとは違う。

 整えることで救う、という種類の強さだ。


「最近、朝の光が強くなったね」


 彼が窓に目をやると、シャルロットも一緒に窓を見る。

 同じ方向を見るだけで、家が一段広くなる気がした。


「うん。冬が終わる」


「春か」


「春だね」


 短い会話が、温かい。

 意味のない言葉が、意味のある時間を作っている。


 エルディオは、ふと気づく。

 シャルロットが自分の目を見て話す回数が増えている。

 いつもも見てくれる。けれど今日は、視線が逃げない。

 逃げないのに、圧はない。

 ただ、きちんと“ここにいる”という確認みたいだった。


 その確認が嬉しい。

 嬉しいから、彼は疑わない。


 朝の会話は、他愛ないものばかりだった。


 昨日の空の話。市場で見かけたパンの話。庭の雑草がまた増えたこと。どれも重要ではない。だが、こうした話をする朝が、エルディオは好きだった。


「帰ったら、庭、少し手入れしようか」


 何気なく言うと、シャルロットはすぐに頷いた。


「うん。帰ってきたら、一緒にやろう」


 “帰ってきたら”。


 その言葉は、自然に出てきたように聞こえた。未来を疑っていない声音。エルディオはそれを疑わずに受け取る。


「今度、あの果物も買ってこよう。今日の、甘かった」


「そうだね。あなた、あれ好きだもの」


 果物の甘さが、舌の上に残る。

 その甘さが、妙に現実的だった。

 戦場の味は、いつも薄い。口に入れても、何を食べているのか分からなくなる。

 塩気も、熱も、匂いも、ただ“栄養”として身体に流れ込むだけだ。


 けれど今は違う。

 甘い、と分かる。

 美味しい、と言える。

 言えるから、ここにいると分かる。


 シャルロットは、果物の皮を折りたたみながら言った。


「帰ったら、庭の端、見てほしい。あそこ、また増えてる」


「雑草?」


「雑草。あと、苔も」


 苔、と聞いて、エルディオは笑ってしまった。

 苔の増え方を気にする彼女が、可笑しい。

 可笑しいのに、その可笑しさが救いになる。


「苔は……放っておいてもいいんじゃないか」


「だめ。滑る」


「そんなに?」


「そんなに」


 言い切る声が、明るい。

 少し拗ねたように言うのが、またいつも通りで。

 彼はそれが嬉しかった。


 シャルロットは、話しながらも手を止めない。

 パン屑を布で集め、器の縁を一周拭く。

 拭き終わった布を折り直し、角を揃える。

 その動作が、昨日より丁寧に見える。


 ――丁寧。


 エルディオの頭にその言葉が浮かんで、すぐに消える。

 丁寧なのはいつものことだ。

 今日が特別だと感じるのは、自分が弱っているからだろう。

 そうやって、自然に誤認する。


「そうだ、あの店。今度、行こう」


 彼が言うと、シャルロットはすぐに頷いた。


「いいね。あなた、あそこのスープ好きだもの」


「覚えてたのか」


「覚えてるよ。何年一緒にいると思ってるの」


 その返しが軽い。

 軽くて、優しい。

 優しいのに、頼りすぎてはいけないという理性が、エルディオの胸の奥で小さく鳴る。


 ――でも。


 でも、今日は甘えてもいい気がした。

 朝がこんなに穏やかなら。

 彼女がこんなに元気なら。


 シャルロットは、エルディオの手元に視線を落とした。

 剣の鞘が壁に立てかけられている。

 それを見ても、彼女は顔色を変えない。


 以前の彼女なら、ほんの一瞬だけ口が固くなった。

 戦場の話をしないようにしても、武器を見ると、目の奥がわずかに曇った。

 エルディオはそれに気づいて、気づかないふりをして、気づかないふりを続けてきた。


 けれど今日の彼女は違う。

 曇らない。止まらない。

 ただ、いつも通りに、朝を進める。


 その“いつも通り”が、どれほど難しいことかを彼は知っている。

 だからこそ、それを成し遂げている彼女を、強いと思う。

 頼もしいと思う。

 ――安心する。


「エル」


 名前を呼ばれる。


「ん?」


「ちゃんと食べた?」


「食べたよ」


「ほんとに?」


 確認が一回多い。

 けれど、責める声ではない。

 母親みたいでもない。

 ただ、確かめているだけだ。

 確かめることで、何かを整えているように見える。


 エルディオは笑いながら頷いた。


「ちゃんと食べた。大丈夫」


「うん。よかった」


 その「よかった」は、少しだけ息を吐く音に似ていた。

 でも彼は、そこに意味を見つけない。

 見つけないまま、幸福の中に沈む。


 彼女はそう言いながら、果物の皮を丁寧に折りたたむ。指先の動きが、いつもより少しだけゆっくりだ。


 食事を終えると、シャルロットはすぐに片付けに取りかかった。皿を洗い、布巾で拭き、棚に戻す。動きに無駄がなく、静かだ。


 エルディオは装備の確認を始めた。剣の鞘、金具、留め具。いつもの手順。


 その途中で、シャルロットが近づいてくる。


「ちょっと」


 彼のコートの襟元に手を伸ばし、軽く払う。埃はほとんどない。それでも、もう一度、同じ動作を繰り返した。


「ここ、皺が寄ってる」


「そう?」


「うん。すぐ直る」


 指の圧が丁寧だった。皺を伸ばし、布を整え、手を離すまでが少し長い。


 靴紐も結び直された。結び目を確認し、もう一度、軽く引く。


「戦場でほどけないように」


 シャルロットは結び目を確かめたあと、指先をいったん離した。

 離して、また触れた。


 同じ場所を、二度。

 同じ強さで、二度。


 エルディオはそれを見下ろしながら、何も言わなかった。

 言えば、彼女は「癖だよ」と笑う。

 笑って終わる。

 終わってしまうのが惜しい気がして、彼は黙った。


 靴紐を結び終えたシャルロットは、手を膝の上で軽く払う。

 払ったあと、手袋の縫い目を一瞬だけ見つめた。

 それから、何事もなかったみたいに顔を上げる。


「……痛くない?」


 問いかけは軽い。

 でも内容は、戦場の前にするものじゃないほど細かい。


「痛くないよ。大丈夫」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 そのやり取りのあと、シャルロットは、エルディオの手を取った。

 取る、というより、確かめるみたいに触れた。

 指先から掌へ、掌から手首へ。

 怪我の跡がないか確認する動きに似ている。


 でも彼女の触れ方は、医療の冷たさがない。

 ただ温度だけがある。


 ほんの少し長く、手を握る。


 長い、と言えるほどではない。

 けれど“いつもより”長い。

 その差分だけが、胸の奥に残る。


 エルディオは、その温度を嬉しいと思った。

 嬉しいと思うほど、戦場の冷えが遠のく気がした。


「ありがとう」


 髪にも触れられた。前髪を整え、耳にかからないようにする。


 その一つ一つが、自然だった。


 大切にされている。


 エルディオは、そう受け取った。支えられている、と。


 準備が整う頃、家の中は妙に片付いていた。机の上に余計なものはなく、椅子の位置も揃っている。いつもの几帳面さだ、と彼は思う。


 けれど、いつもの几帳面さにしては“抜け”がない。


 布巾は乾ききっている。

 床に落ちたパン屑ひとつ残っていない。

 窓辺の小さな鉢植えは、葉の向きが揃えられている。

 たった今まで人が動いていたはずなのに、生活の痕跡が薄い。


 それは不自然ではなく、ただ静かに完成していた。


 エルディオはコートの裾を指でつまみ、体の前で軽く払った。

 埃は立たない。

 戦場の埃とは違う、室内の埃が、今朝はほとんどない。


 シャルロットは、その動作を見て、すぐに近づいてきた。

 何かを直すというより、確認するみたいに。


「袖、動かしにくくない?」


「大丈夫だよ」


 エルディオが答えると、シャルロットは頷く。

 頷き方がきれいだった。

 首の角度まで正しいみたいに、余分がない。


 彼女はコートの肩口を整えると、そのまま背中側に回り込んだ。

 布を引いて、縫い目を指で辿り、ほんの少しだけ引っ張って皺を伸ばす。

 その指先は慎重で、丁寧で、触れた痕が残らない。


 触れた痕が残らないのに、温度だけは残る。


 エルディオは、その温度が好きだった。

 好きだから、息を吐く。

 吐いた息が、少しだけ軽くなる。


 シャルロットは一歩引いて、全体を見た。

 まるで装備の点検みたいに、上から下まで目を走らせる。

 それでも視線は冷たくない。

 冷たくないから、彼は気づかない。


 気づかないまま、彼はその視線を「安心の確認」だと思う。


「……うん。これなら大丈夫」


 シャルロットの声は、明るかった。

 明るいからこそ、言葉が重くならない。


 エルディオは笑って返す。


「いつも、ありがとうな」


 礼を言うたびに、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。

 礼を言いすぎると、彼女の負担が増えてしまう気がする。

 彼女が支える側に固定されてしまう気がする。


 ――でも。


 でも、彼女が元気ならいい。

 彼女が笑っているならいい。


 そうやって、自分に都合のいい理屈で、安心を拾っていく。


 シャルロットは、エルディオの肩から手を離したあと、指先をわずかに握った。

 握って、すぐに開く。

 まるで温度を手の中に留めないようにするみたいに。


 それから彼女は、机の上をもう一度だけ見渡した。

 目線が、紙の置かれている位置を避ける。

 避けたまま、椅子の背を指で押して、机との距離を揃える。


 部屋が整うたびに、空気が静かになる。

 静かになるほど、朝が「良い朝」になる。


 良い朝になればなるほど、戦場の影が薄くなる。

 薄くなるから、次の戦場が現実味を増す。


 その循環に、エルディオは名前をつけない。

 つければ重くなる。

 重くなると、シャルロットの笑顔が曇るかもしれない。


 だから彼は、見なかったことにする。


 シャルロットは、棚の前に立って、ひとつだけ深呼吸をした。

 深呼吸は短い。

 吸って、吐いて、終わり。

 誰にも気づかせない速度。


 そして彼女は、いつも通りの速度で振り向いた。


「……行く前に、水、飲む?」


「うん。もらう」


 水筒から注がれた水は冷たすぎず、温すぎず、ちょうどいい。

 その“ちょうどよさ”が、今日という日の全部みたいだった。


 エルディオが飲み終えると、シャルロットは受け取った器を洗い場に運ぶ。

 運びながら、途中で一度だけ立ち止まって、器の縁を指で拭った。


 拭う必要があるほど濡れてはいない。

 でも、拭う。


 拭うことで、整う。

 整うことで、朝が完成する。


 完成した朝は、誰にも壊せない。


 だから――誰も、止められない。


 エルディオは装備の金具を触りながら、心の中で思った。


 今日も、ちゃんと帰ってこよう。


 その言葉は決意で、祈りで、習慣だった。

 習慣だったから、疑わなかった。


 シャルロットは引き出しを開け、何かを入れて閉めた。中身は見えなかった。エルディオの視線は、外れかけた金具に向いていたからだ。


 玄関に向かう。


 扉の前で、エルディオは一度立ち止まる。


「行ってくる」


「うん」


 シャルロットは頷き、微笑んだ。


「いってらっしゃい」


 その返事が、ほんの僅かに遅れたような気がした。


 眠いのかな。


 そう思った次の瞬間、彼女の声が小さく落ちた。


「……ごめんね」


 風に紛れるほどの音量だった。


「え?」


 エルディオが聞き返すと、シャルロットはすぐに首を振る。


「なんでもない」


 笑顔は完璧だった。


 喉の奥が、少し乾いた。唾を飲み込もうとして、飲み込めない感覚があった。それでも、口元はきちんと動く。笑顔の筋肉は、迷わない。


 エルディオはそれ以上、何も聞かなかった。


 扉を開け、外に出る。冷たい空気が頬を撫でる。


 振り返らずに、扉を閉める。


 木と金具が触れ合う、いつもの音。


 彼は何も疑わずに扉を閉めた。

 その音だけが、今日の結末を先に決めた。


この回は、何も起きない話です。

戦も、別れも、悲劇も、まだ起きていません。


ただ、朝があって、食事があって、会話があって、

「いつも通り」が、少しだけ丁寧だっただけです。


だからこそ、この朝は完成していました。

完成してしまった朝は、壊れません。

壊れないから、誰も止められません。


次の話で起きることは、

この朝のせいではありません。

けれど、この朝があったからこそ、

それは取り返しのつかないものになります。


ここまで読んでくれて、ありがとうございました。

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