93. 期待という鎖
王城の奥にある訓練棟は、朝の光を嫌うような造りをしていた。
外壁は分厚く、窓は高く細い。
光は入るが、温度は入らない。
この場所が「守るため」ではなく、「使うため」に作られていることは、建物そのものが語っていた。
エルディオは、正面玄関の前で一度だけ深く息を吸った。
鎧は整っている。
剣も、いつも通り腰にある。
呼吸も、脈も、平常だ。
――準備はできている。
それが戦場に向かう前の確認と同じであることに、彼自身はまだ気づいていなかった。
あるいは、気づいていても認めないようにしていた。
認めてしまえば、足元の石が急に冷たくなる気がしたからだ。
♢
広間には、すでに数名の騎士が集まっていた。
誰もが精鋭と呼ばれる者たちだ。
魔力量、剣技、戦歴。
どれか一つ欠けても、ここには立てない。
それでも、空気は張りつめていなかった。
戦場前の緊張とは違う。
刃が交わる前の静けさではなく、書類に押印される前の静けさ。
同じ「静けさ」でも、こちらは温度を持たない。
壁際には古い戦旗がいくつも掛けられていた。
かつての国難、魔獣侵攻、反乱鎮圧。
勝利の証として掲げられているはずなのに、どれも色褪せ、布地は薄く擦り切れている。
勝ち続けた歴史は、誇りになるより先に“消耗”を伝えてくる。
エルディオは、それらを見上げながら思った。
――ここは、勝利の場所じゃない。
勝利の“後処理”の場所だ。
勝つために人を整えて、勝ったあとに人を使い潰す。
そういう現実が、旗の向こう側から滲み出ている。
視線を戻すと、そこに並ぶ騎士たちの表情が目に入る。
誇りで胸を張る者もいる。
目を伏せている者もいる。
笑っている者はいない。
誰もが、知っているのだ。
直轄部隊とは、
「行けば死ぬ」ではなく、
「帰っても終わらない」場所だと。
――それでも、ここに立つ。
その選択をしてきた人間の顔だった。
そして、ここに立ってしまった時点で、もう“普通”には戻れないという顔でもあった。
♢
エルディオが壇前へ進むと、視線が少しだけ動いた。
露骨に逸らす者はいない。
露骨に歓迎する者もいない。
ただ、全員が同じ速さで、同じ距離から“測る”。
この男は、どれだけ持つか。
この男は、何回死にかけて帰ってくるか。
この男は、どこまで使えるか。
尊敬がないわけじゃない。
だが、尊敬という感情はこの場では贅沢だ。
贅沢だから、削がれている。
エルディオは、それを理解できる程度には戦場を知っていた。
理解できるからこそ、胸が少しだけ冷えた。
――英雄は、ここでは“肩書き”ではない。
ここでは、“燃料”だ。
自分の価値が、人格や痛みではなく、結果と継戦能力に換算される。
それは軍の合理として正しい。
だからなおさら、拒みようがない。
彼は背筋を伸ばした。
伸ばしたのは礼儀のためではない。
型に入らなければ、感情が零れるからだ。
感情が零れれば、ここでは“弱さ”として処理される。
処理される弱さは、ただの欠陥だ。――矯正されるべき欠陥だ。
♢
壇上に立ったのは、直轄部隊を統括する将軍だった。
年配だが、背筋は伸び、声には一切の曇りがない。
戦場で部下を失うことにも、勝利を得ることにも慣れた人間の声。
「本日をもって、エルディオ・アルヴェインは王国直轄部隊に正式編入される」
宣言。
それは祝福ではなく、登録に近い。
続いて読み上げられる任務規定。
“国家存亡に直結する案件”。
“危機等級四以上”。
“秘匿義務”。
“緊急招集”。
“任務拒否権なし”。
言葉の一つひとつが、細い鎖になっていく。
エルディオは、表情を変えない。
変えられない。
たとえばこの瞬間、少しでも眉を動かしたら、
「不満か」と言われる。
「恐怖か」と言われる。
「なら帰れ」と言われる。
帰れるなら、とっくに帰っている。
――帰る場所は、もう“場所”ではない。
隣にいる人だ。
そのことを思い出すと、心臓が少しだけ柔らかくなる。
柔らかくなると同時に、締めつけられる。
守るものがあるのは救いだ。
だが、守るものがある限り、人は無理をする。
その構造を、エルディオはまだ“誇り”として抱えていた。
誇りの形をしていれば、痛みを“意味”にできるから。
意味にできれば、怖さを“使命”に変えられるから。
♢
「階級は特務少将相当。通常の指揮系統からは二段外れる。名誉職ではない。“権限のための階級”だ」
その一文が落ちた瞬間、空気がわずかに揺れた。
少将。
その響きは重い。
年齢に見合わない。
実績に見合わないと言う者もいるだろう。
だが、直轄部隊において階級は年功序列ではない。
必要性だ。
エルディオは理解した。
これは評価ではない。
信頼でもない。
――使うためだ。
横からでも上からでも命令できるように。
誰の顔色も見ずに最前線へ放り込めるように。
断りにくくするために。
断れないようにするために。
それを理解した瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。
痛むが、怒りはない。
怒っている暇がない。
怒るというのは、まだ自分に余白がある者の行為だ。
ここに立つ人間は、最初から余白を持ち込めない。
余白を持ち込めば、そこから削られる。
「任務内容は、国家存亡に直結する案件のみ。失敗は許されない」
将軍は一度、息を置いた。
その“間”が、この場の全員にとっての予告だった。
「撤退判断は、原則としてお前に委ねる」
撤退判断を委ねる。
それは自由ではない。
責任の移譲だ。
撤退したら叱責される。
撤退しなかったら死ぬ。
そのどちらを選んでも、結果の責任は彼が負う。
それでも“委ねた”と言える。
軍はそういう言葉を選ぶ。
言葉が整っているほど、現実は鋭くなる。
鋭い現実は、刃より静かに人を削る。
刃は血を流すが、こういう現実は血を見せない。
見せないまま、骨だけ細くしていく。
♢
形式的な手続きに移る。
書類は分厚かった。
一枚ではない。束だ。
束の重みは、人生の重みとは違う。
人生はその場で測れないが、書類は測れる。
紙を押さえる指先に、将軍の視線が落ちた。
「確認しろ。署名は契約だ。お前が何を背負うかを、言葉で理解しろ」
その言い方は、優しさのようにも聞こえた。
だが裏側には明確な意図がある。
理解した上で背負え。
背負った上で壊れろ。
そう言われている気がして、エルディオは一度だけ瞬きをした。
瞬いたことで、視界の端が少しだけ滲む。
ペンを取る。
署名する。
自分の名を書くとき、これほど“他人の人生”を感じたことはなかった。
文字はいつも通り整っている。
整っているから怖い。
整った文字は、心が揺れていない証ではない。
心が揺れても、揺れを表に出さない訓練の証だ。
――それを教えたのは、誰だったか。
父の影が一瞬だけ脳裏をよぎる。
だがすぐに払う。
今日は、振り返らないと決めた日じゃない。
今日は、前に進む日だ。
前に進むための階級。
前に進むための契約。
前に進むための“資源化”。
それを、彼はまだ受け入れられる。
なぜなら――進む先に、シャルロットがいるからだ。
彼女の隣でなら、自分は人間の形を保てる。
そう信じられるだけで、足が動く。
♢
紋章が手渡される。
小さな金属片。
胸元に留めるだけのもの。
それなのに、腕が重くなる。
将軍は最後に、短く告げた。
「期待している」
その声は、まっすぐだった。
嘘ではない。
だが嘘でないからこそ、逃げ場がない。
“期待”は、背中を押す言葉の形をしている。
実際は、肩に手を置いて離さない。
期待される者は、降りられない。
期待される者は、休めない。
期待される者は、壊れても立たされる。
エルディオは敬礼した。
「承知しました」
声は揺れない。
揺れないからこそ、誰も止めない。
止めないことが“信頼”として扱われる。
止めないことが“強さ”として扱われる。
この場所は、そういう場所だ。
♢
建物を出ると、朝の光が思ったより眩しかった。
外に出た瞬間、ようやく息が深くなる。
広間の空気は、肺の奥にまで残るのに、光だけは露骨に優しい。
優しいから、少し腹が立つ。
――世界は、こんなふうに何でもない顔で回る。
その何でもなさが、今日の契約の残酷さと噛み合わない。
噛み合わないから、現実味が薄くなる。
薄くなるから、人は簡単に自分を差し出せる。
そこに、シャルロットがいた。
訓練棟の外壁に寄りかかり、腕を組んで待っている。
鎧姿ではない。剣も帯びていない。
今日は見守る側だ。
「……終わった?」
問いは短い。
けれど彼女は、エルの顔色を一瞬で拾っていた。
“終わったか”ではなく、
“無事か”を確認する目。
「ああ」
エルは、少しだけ笑った。
「正式に、編入だ」
「おめでとう」
短い言葉。
でも、そこには嘘がない。
祝福のために言ったのではなく、彼がここまで生き延びたことへの労いとして言った声。
シャルロットは一歩近づき、エルの胸元の紋章を見た。
「……似合ってる」
その言葉に、エルの胸が少しだけ軽くなる。
「誇らしい?」
冗談めかして聞くと、シャルロットは少しだけ考えてから答えた。
「うん。誇らしいよ」
即答だった。
「あなたが、ここまで来たこと」
「ちゃんと、生きて、選んできたこと」
それは戦力としてではない。
一人の人間としての評価だった。
エルは、その言葉を胸に刻む。
刻む、というのは大げさではない。
彼の人生はいつも、外側から貼り付けられた称号と、勝利の数字で測られてきた。
誰かに“人間”として見られることは、珍しい。
珍しいからこそ、息がほどける。
だが同時に、ほどけた分だけ、胸の奥の柔らかい場所が露わになる。
そこに触れられるのが怖い。
怖いのに、触れられたい。
彼は、笑ってしまった。
ほんの少しだけ。自分でも驚くほど自然に。
「……シャルは、いつもそう言う」
シャルロットは、首を傾げる。
「いつも?」
「ああ。僕が何かを“成した”って言われるたびに」
エルは、胸元の紋章に指先を触れた。
冷たい。金属の温度だ。
けれど、その冷たさの向こうに、今の自分の体温がある。
「君だけが、僕を“結果”じゃなくて……ここまで来たって言う」
それは、救いだった。
だからこそ――その救いが、彼を前へ押す。
シャルロットは一瞬、目を伏せた。
伏せたまま、短く息を吸う。
それは泣きそうなときの仕草にも見えたし、感情を整えるときの仕草にも見えた。
「だって、あなたは……生きてきたから」
声は静かだった。
けれど、静かだからこそ重い。
生きてきた。
それは褒め言葉の形をしている。
同時に、命を削ってきたことへの確認でもある。
エルは、その重さを“愛”だと受け取った。
受け取ってしまった。
だから、次の言葉を選び間違える。
「……大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるような声音だった。
シャルロットに向けたはずなのに、どこか自分の胸へ向けた言葉。
「僕は――」
言いかけて、言葉を探す。
昨日の墓地で、“前を向いて生きる責任を引き受ける”と言った。
だから、今日は強い言葉を選ぶべきだと分かっている。
だが、強い言葉はいつも同じ形になる。
誓い、決意、使命。
それらは彼を立たせるが、抱きしめてはくれない。
代わりに、彼は別の言葉を選んだ。
選んでしまった。
「……君がいるから」
その瞬間、シャルロットの瞳の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
ほんの少しだけ。
誰も気づかない程度の、小さな揺れ。
エルは気づかない。
気づけない。
彼は“君がいる”という事実に救われている。
救われているから、疑えない。
「君がいるから、僕はちゃんと戻ってこられる」
それは、甘い言葉だ。
彼にとっては、やっと口にできた本音だった。
でも、その本音は――シャルロットの胸の中で、別の形に変わり始める。
彼女は笑った。
いつも通りに。
エルが安心できる笑い方で。
「うん。……戻ってきて」
言葉は短い。
短いのに、縫い目が細かい。
縫い目が細かいほど、外からはほつれが見えない。
エルはその笑顔に、救われたまま歩き出す。
訓練棟の外壁が背後へ遠ざかる。
石畳の上に、二人分の足音が重なる。
王城の高い塔が見える。
空は青い。
青いのが腹立たしいほど、世界は平然としている。
シャルロットは、歩調を一つも乱さない。
だが彼女の視線は、時々、ほんの一瞬だけ訓練棟の窓へ吸われる。
あの細い窓の奥にあるものは、見えない。
見えないのに、見える気がしてしまう。
――あの中で交わされた言葉。
――契約。
――任務拒否権なし。
――期待している。
――君にしかできない。
それらは全部、祝福の顔をしている。
なのに、鎖の形をしている。
シャルロットは、分かってしまう。
“英雄”という肩書きを外した瞬間、彼はもっと綺麗に使われる。
使う側は、彼の痛みを見ない。
見ないからこそ、迷いがない。
迷いがないから、壊れるまで止めない。
それを――エルはまだ“誇り”と呼ぶ。
誇りは悪じゃない。
誇りは人を支える。
だが誇りは、ときに人を殺す。
自分の手ではなく、誇りの形をした義務で。
シャルロットは、息を吐いた。
吐いた息が白くならない季節なのに、胸の奥だけが冷える。
それでも、彼女は言わない。
「怖い」とも。
「嫌だ」とも。
「やめて」とも。
言えばエルは立ち止まる。
立ち止まったら、彼は“前を向く責任”をまた罪に変える。
罪に変えたら、彼はまた過去に沈む。
だから言わない。
言わないかわりに、繋ぐ。
シャルロットは、そっとエルの袖口を掴んだ。
軽い力。
でも、離れない力。
エルは、その重さを“支え”だと思う。
支えだと思って、安心する。
――違う。
それは支えであり、同時に、祈りだった。
どうか戻ってきて。
どうか壊れないで。
どうか私のいない場所へ行かないで。
祈りは言葉にならない。
言葉にした瞬間、現実になってしまうから。
だから彼女は、笑う。
笑って、繋いで、歩く。
エルは気づかない。
その袖口を掴む指が、ほんの少しだけ震えたことに。
震えが、寒さではなく――理解から来ていることに。
――だから、気づかなかった。
シャルロットの視線が一瞬だけ、訓練棟の高い窓へ向いたことを。
光が入りにくい、あの細い窓へ。
見えないはずの中を、彼女は見ようとした。
見ようとしてしまった。
そして、すぐに視線を戻し、いつも通り微笑んだ。
「帰ろう」
「……ああ」
並んで歩く。
影が二つ、地面に伸びる。
その影は、まだ重なっている。
♢
この日、エルディオは思っていた。
――まだ大丈夫だ。
誇りはある。
愛する人もいる。
守る未来も、確かに見えている。
王国に必要とされている。
代わりはいないと言われた。
それは恐怖ではなく、使命だと思えた。
だから、この違和感には名前を付けなかった。
名前を付けてしまえば、誇りが責任に変わってしまうから。
責任に変われば、“守るために壊れる覚悟”が必要になるから。
そして――その覚悟を一番早く理解してしまうのは、
隣を歩く人間だということを。
シャルロットは歩調を合わせたまま、ほんの小さく息を吸った。
言葉にはしない。
言葉にしたら、エルが立ち止まってしまう。
立ち止まったら、彼はまた“前を向く責任”から逃げてしまう。
だから彼女は、笑う。
笑って、手を伸ばし、袖口を軽く掴む。
逃げないように繋ぐのではない。
“帰ってこられるように”繋ぐ。
その手は、優しくて、重い。
袖口を掴む力が、ほんの一瞬だけ強くなる。
エルはそれを「愛おしさ」だと思って、何も言わずに歩幅を合わせた。
違う。
それは――置いていかれないための力だ。
それでもシャルロットは笑う。
笑ってしまう。
彼が前を向いたまま歩けるように。
そして、その笑顔の裏でだけ、彼女は静かに数える。
“帰ってくる確率”を。
“壊れる速度”を。
まだ、この日は誇らしかった。
まだ、未来は明るく見えていた。
だからこそ――誰も、止まれなかった。
直轄部隊への編入――それは昇進でも、祝福でもなく、静かな「登録」でした。
英雄として称えられるほど、個人は薄くなっていく。必要とされるほど、逃げ道は消えていく。
それでもエルは、まだ誇りで立ててしまう。
そしてシャルは、笑ったまま理解してしまう。
この回は、二人が並んで歩けている“今”を守るために、あえて冷たい言葉を多くしました。
次から、温度が変わります。




