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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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91/96

91. 【白い花の鎮魂歌】

 

「エル、どこに向かってるの?」


 馬車の窓から差し込む午後の光は、柔らかく、どこか曖昧だった。

 街の喧噪を抜け、住宅街へ入ると、通りの音は一段低くなり、人の声も遠ざかる。

 石畳の震えが規則正しく腹に伝わるたび、エルディオの心臓は「平常」を演じようとする。

 けれど演技は、こういうときほど下手になる。


 喉の奥が乾き、息が浅くなる。

 視界の端ばかりが冴えて、目の前の景色がぼんやりする。

 戦場でなら、その兆候は危険の合図だ。

 ――ただ今日は、危険の正体が刃ではなく、記憶だった。


 向かいに座るシャルロットが、静かに言った。

 問い詰める声ではない。

 ただ隣にいる人間の声だ。

 だからこそ、逃げられない。


 エルディオは、窓の外から視線を戻さないまま答えた。


「……君を連れていきたい場所がある」


 それ以上は言わなかった。


 理由を言えば、言葉が整ってしまう。

 整った言葉は、時に本心を隠す。

 今は、隠したくなかった。

 隠してしまったら、ここへ来る意味が半分消える。


 シャルロットはそれ以上問わなかった。

 問い詰めない。

 理由を要求しない。

 代わりに「大丈夫?」とも言わない。

 彼女は、慰めの言葉でこの沈黙を薄めない。


 ただ、隣にいる。


 その“ただ”が、エルディオにとってはいつも一番重い。

 重いのに、押し付けない。

 押し付けないから、逃げられない。

 逃げられないから――今の自分を、そのまま差し出すしかなくなる。


 馬車が止まる。

 御者の合図が、遠くで鳴った気がした。

 扉が開き、外の空気が入り込む。冬の終わりに似た冷たさ。

 冷たいのに、刺さらない。

 街の中心より少しだけ空が広い場所の匂いがした。


 エルは先に降り、手を差し出す。

 手を差し出す、その一瞬の動作に、彼は自分でも驚いた。

 昔の自分は、こういう動きを知らなかった。

 必要がなかったからではない。

 必要だと認めるのが怖かったからだ。


 シャルロットは一瞬だけ躊躇い、それからその手を取った。

 指先が触れた瞬間、エルディオの胸の奥が小さく震える。

 彼女が「受け取った」――その事実が、ほんの少しだけ世界の重さを変えた。


 街の一角。

 小さな花屋があった。


 ♢


 花屋の中は、外よりも少しだけ温度が高かった。

 湿った土の匂い、切り花の青い香り。

 生きているものと、切り離されたものが、同じ空間に並んでいる匂いだ。

 この匂いは、昔の村にもあった。

 あの人の家にも、春先になると一度だけ漂う匂いがあった。

 薬草を干す匂い――そして、笑い声。


 店主の女性が顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


 エルは答えない。

 どの花を選ぶか、もう決めていた。


 白い花。

 過剰な香りのないもの。

 陽に当たっても、陰にあっても、形を保つ花。

 ――白いのに、冷たくない花。


 指先が、一輪に触れた。

 花弁は薄いのに、折れそうで折れない張りがある。


「それ、綺麗でしょう」


 店主が言う。


「白いのに、冷たくない。強い花です」


 エルは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 “強い”という言葉が、胸に引っかかった。

 あの人は、強いと言われるのが好きではなかった。

 強いと言われると、弱さを許されないから。

 でも――弱かったことを知っている人にだけ、彼女は強くあろうとした。


「……それを」


 包まれた花束を受け取る。

 白い紙に薄い紐。装飾は少ない。

 まるで、余計なものを削いで本質だけ残すような包み方だった。


 シャルロットは何も言わず、支払いを済ませた。

 その動作が自然で、エルは胸の奥で少しだけ息を吐く。

 彼女は「私がやる」とも言わない。

「あなたがやりなさい」とも言わない。

 ただ、必要なことを必要なだけして、そこで止まる。


 店を出るとき、店主が何気なく言った。


「大切な人に?」


 エルは、少しだけ考えてから答えた。


「……ああ」


 大切だった。

 今も大切だ。

 それは過去形にはならない。

 過去形にしたら、彼女が“いなかったこと”になる。

 それは、できない。

 できないから――ここまで引きずってきた。


 花束を抱えた腕が、少しだけ重い。

 その重さが、罰のようで、救いのようでもあった。


 ♢


 墓地は、街外れの小高い丘にあった。

 風が抜け、音が少ない。

 人の気配が薄い場所の静けさは、時々、優しさより先に残酷さを運んでくる。


 門をくぐると、足元の砂利が小さく鳴った。

 音が鳴ったことに、エルは一瞬だけ身構える。

 この身構えは癖だ。

 音が鳴ると、誰かが振り向く。

 振り向かれると、見られる。

 見られると、何かを期待される。

 期待されると、演じなければならなくなる。


 だが――振り向く者はいない。

 ここでは誰も、彼を“英雄”として見ない。

 ここでは誰も、彼に“正しさ”を求めない。


 求めない代わりに――過去がいる。


 石の列を進み、エルは足を止めた。


 ひとつの墓石。

 名前が刻まれている。

 指でなぞれば溝の冷たさが伝わる。

 その冷たさが、現実として残る。


 シャルロットが、それを見て言った。


「……連れてきたかった場所って、ここ?」


 声がほんの少しだけ低い。

 驚きはない。

 理解しようとする音だけがある。


「……うん」


 エルは、膝を折る。


 花を供え、墓石に手を置いた。

 掌に冷たさが移る。

 昔、彼女の手を取ったときの温かさを、身体が勝手に思い出そうとして――思い出せなくて、胸が痛む。


「ただいま、リィナ……」


 声は低く、震えていない。

 震えないように、長い間、訓練してきた声だ。

 戦場で震えないために、訓練した。

 ――でもこの震えは、戦場の訓練では止められない。


 シャルロットは、何も言わない。

 彼女は、ここで話す役目を持っていない。

 話してしまえば、エルの言葉が薄くなる。

 薄くなることは、逃げることと同じだ。

 彼女は逃げさせない。

 押し付けず、逃げさせない。

 その優しさは、時々、鋭い。


「この前の約束、果たしに来たよ」


 一拍。


「今度は……二人で来るって、約束」


 墓石に、影が落ちる。

 雲が流れて、陽の加減が変わる。

 光が動くだけで、世界が少し違って見える。


「彼女は、シャルロット。シャルロット・ヴァルシュタイン」


 言葉を選ぶ。

 選ばないと、喉が詰まる。


「僕の……婚約者だ」


 喉が、わずかに詰まる。

 “婚約者”という単語は、温かさではなく責任として胸に落ちる。

 でも今日は、その責任の中に――確かに温度がある。


「リィナ……」


 風が吹く。

 花弁が、静かに揺れた。


「ずっと、ずっと君のことを引きずっていた」


 正直だった。

 取り繕う意味は、もうない。


「でも……ようやく僕は」


 一度、息を吸う。


「前を向いて、生きていける気がする」


 そのときだった。


 ♢


「おや……」


 背後から、声がした。


「……貴方様は」


 エルは、ゆっくりと振り返る。


 そこに立っていたのは、二人の男女。

 年を重ね、皺が増え、髪は白くなっている。

 けれど目元の形は変わらない。

 その目の奥の温度は、変えようがない。


 リィナの両親だった。


 息が止まる。

 止まった息が、次の呼吸に繋がらない。

 喉の奥が、熱くなる。


「……お二人とも。お久しぶりです」


 エルは、深く頭を下げた。

 頭を下げるのが礼儀だからではない。

 顔を上げたままだと、崩れてしまう気がしたからだ。


「ええ。本当に」


 母親が、柔らかく笑う。

 笑うのに、目は泣きそうだ。


「あの子が旅立って……もう五年ですもの」


「……そう、ですね」


 言葉が、胸に落ちる。

 五年。

 たった二文字の数が、胸の中で鈍く鳴る。


「リィナのことは、今でも……つい昨日のことのように思い出せるわ」


 母は、墓石に視線を向けた。

 指先が、花束の白に触れそうで触れない距離で止まる。


 父は、シャルロットに気づいて、静かに会釈した。

 シャルロットは深く礼を返す。

 ここでも余計な言葉はない。

 ただ、“この場を壊さない”という覚悟だけがある。


 ♢


「リィナは……白子として生まれました」


 語りは、静かだった。

 泣きながら語るのは簡単だ。

 泣かずに語る方が、ずっと痛い。


「肌も、髪も、全部白くて。目だけが紅くて」


 母は、指先を重ねる。


「生まれたときは、本当に心配で……それでも、生きていてくれるだけで、嬉しかった」


 それが、親の本音だった。

 誇りでも、理想でもない。

 ただの願い。


 だが、村は優しくなかった。


「気味が悪い、って」


「不吉だ、って」


「近づくな、って」


 淡々と語られる言葉が、鋭く胸を刺す。

 エルの指が、無意識に握られる。

 剣を握るときの力ではない。

 握っていないと、何かが溢れてしまう力だ。


「小さな頃から、病弱で……それでも、あの子は笑っていました」


 父が、静かに続ける。


「笑っている方が、周りが怖がらないからだ、と……あの子は後で言いました」


 母が小さく頷く。


「優しい子なのよ。自分が傷ついているのに、周りを落ち着かせようとする」


 それは優しさだった。

 同時に、諦めの技術でもあった。


「……病気が分かったのは、十のときです」


 母が頷く。


「魔脈萎縮症」


 その言葉は、静かに落ちた。

 世界から色が一つ減るような単語。


「魔力の循環そのものが、少しずつ細くなっていく病。血の巡りじゃない。骨の問題でもない。……生きる仕組みの“道”が、萎んでいく」


 母の声が掠れる。


「治らない。治るはずがない」


「それを聞いたとき……あの子は」


 母は、目を伏せた。


「泣きもしなかった。喚きもしなかった。ただ……困ったみたいに、笑ったの」


 声が、少しだけ震える。


「『じゃあ、私、急がなきゃね』って」


 その一言が、エルの胸を刺す。

 十歳の子が言う言葉じゃない。

 十歳の子は、未来を信じて泣くべきだ。

 未来がないと言われたら、泣いて当然だ。


「でもね、夜になると……一人で泣いてた」


 母は、息を吐く。


「布団の中で、声を殺して。私が起きている気配がすると、すぐに泣き止んで、笑うの」


 エルの視界が少し霞む。

 涙ではない。まだ違う。

 ただ、胸の奥が焼ける。


「親として、それが一番辛かった」


「私たちにできたのは……医者を探すことだけ」


 父が言う。


「ヘルマン先生が言いました。回復は見込めない、と」


 一拍。


「……持って、あと数年だろう、と」


 ♢


「リィナは……葛藤していました」


 母は続ける。

 語りながら、何度も指先を重ね直す。

 その動きが、言葉にならない痛みを示していた。


「怖くなかったわけじゃない。強かったわけでもない」


 ただ――


「それでも、自分らしく生きることを選んだ」


 選んだ、と言うのは簡単だ。

 選ばざるを得なかった、と言う方が正しい。

 でも、母は“選んだ”と表現した。

 それは、娘の最後の尊厳だった。


「最初から強かったわけじゃないのよ」


 母は、少し笑って、泣きそうになって、また整えた。


「ある夜ね、あの子が私に言ったの」


『ねえ、お母さん。私、死ぬの?』


 十歳の子が言う。

 自分の死を問う。


「私は嘘をつけなかった」


 母の声が割れた。


『いつかは、みんな死ぬわ』


 そんな逃げ方しかできなかった。


「そしたらね、あの子……笑って」


『うん。知ってる。だけど私、早いんでしょ?』


 母は、そこで一度息を止めた。

 止めて、吐いた。


「強い子じゃないの。強くあろうとしてただけ」


「怖かったと思う。悔しかったと思う。羨ましかったと思う」


 村の子たちの未来が。

 普通に大人になる未来が。

 恋をして、結婚して、年を取る未来が。


「それでも、強くあろうとしたの」


 命の灯が消える、その時まで。


 ♢


「十六のとき……身体が言うことを聞かなくなって」


「もう時間がない、と……私たちも、あの子も、分かっていました」


 母が言う。


「歩くのが遅くなって、息が上がりやすくなって、寝ても疲れが取れなくなって」


 父が続ける。


「魔力の循環が細くなると、身体の回復も遅くなる。無理をすれば、余計に削れる」


 そんなときに。


「……貴方様と、出会った」


 エルは、視線を落とす。

 目を上げたら、過去が目の前に来てしまう。


「村の子たちとは違った。あの子を“リィナ”として見てくれた」


 母は、少しだけ笑う。


「あの子は……恋をしました」


 でも。


「ずっと、隠していた」


 理由は、ひとつ。


「自分の命が、もう残り少ないと分かっていたから」


 母は、言葉を選んだ。

 残り少ない、という言い方は優しい。

 本当は、残りは“減っていくだけ”だった。


「恋をしたらね、欲が出るの」


「欲が出たら、生きたくなるの」


「生きたくなったら、苦しくなるの」


 その地獄を、娘は最初から知っていた。


 ♢


「畑に行くようになって……薬草を持って帰るようになりました」


 どこで調べたのかは、分からない。


「“薬になるんだよ”って、あの子は笑って」


 体調は、少しずつ良くなったように見えた。


「……嬉しかった」


 母の声が、掠れる。


「本当に嬉しかったの。神様が、少しだけ、あの子に時間をくれたんだって」


 父が、低く言う。


「……だが、それは毒でした」


 母が頷く。


「私たちは……それが毒だとも知らずに」


 沈黙。

 墓地の風が、一本の木の枝を揺らす。

 葉擦れの音だけが、やけに大きい。


「貴方が、娘に想いを伝えたとき……」


 母は、目を閉じた。


「あの子、初めて……私たちの前で泣いたの」


 嬉しい。

 でも、怖い。

 愛している。

 でも、時間がない。


「『嬉しい』って泣くのと、『怖い』って泣くのが、一緒に出たんだと思う」


「好きになってくれて嬉しい。なのに、これからがない」


「未来がないのに、今が一番眩しい」


 ぐちゃぐちゃになった感情。


 ♢


「……身体は、もう毒に耐えられなくなっていました」


 父が言う。


「薬草の“効き目”に見えたものは、身体が最後に燃やした灯りだったのでしょう」


 母は続ける。


「それでも、貴方様が毎日来てくれるのが……よほど嬉しかったのね」


「貴方が帰ったあと……あの子、ずっと一人で泣いていました」


 エルと一緒に居たい。

 共に生きたい。


 でも――


「私は、もう長くない」


 だから。


「せめて……エルの重荷にはなりたくない」


 だから、いつも通りを続けた。


 母は、震える声で言う。


「最期の方ね……あの子、笑うのが上手になったの」


 上手になった。

 つまり、泣けなくなった。


「泣いたら、貴方様が苦しむって知ってたから」


「苦しむ顔を見たくないから」


「なのに……貴方様が帰ったあと、一人で泣くの」


 母の涙が落ちる。


「親として、悔しかった」


「抱きしめても、痛みは消えない」


「“代わってあげる”こともできない」


「それでも、生きていてほしいって思うことしかできない」


 その無力が、親を殺すのだとエルは知った。

 そしてそれは、彼自身がずっと抱えていた無力と同じだった。


 ♢


 母は、エルを見た。


「貴方様には……本当に感謝しています」


 一語一語、噛みしめるように。


「あの子を、一人の人間として接してくれた」


「普通の人と同じ愛を、くれた」


「……最期に、生きる時間を、くれた」


 父が、深く頭を下げる。


「エルディオ様……娘を、ありがとうございました」


 そして、シャルロットを見る。


「そちらの方は……きっと、良きパートナーでしょう」


 シャルロットは、ただ礼をした。

 言葉はない。

 それでいい。

 ここで彼女が言葉を持てば、エルの痛みを奪ってしまう。

 奪うことは、救いではなく“逃げ”になる。


 母が、そっと言った。


「あの子が、最期の夜に……伝えて欲しいと言っていた言葉があります」


 だから、そのまま伝えます。


 ♢


「エル――」


 リィナの声が、胸に響く。

 母の口から語られるのに、確かに“彼女の声”だった。

 言葉は、死んでいない。

 言葉は、いま生きている。


「きっと私は、あなたに深い傷を残してしまったと思う」


「だけどね……私は後悔してないよ」


「だって、あなたは私を愛してくれた、ただ一人の恋人だから」


 一拍。


「でもね、もうそれも終わり」


「エル、前を向いて生きて」


「私のこと、忘れないで欲しいけど……」


「それでも、これから出会う誰かと、また恋をして」


「結婚して、子供ができて……」


「私が生きられなかった未来を……あなたは、生きて」


 優しい声。


「……あんまり早く、こっちに来たらダメだよ?」


「あなたは、生きる理由を持っていない人だから…ちょっと心配」


 一拍。


「でも……これだけは、忘れないで」


「誰がなんと言おうと……私は、エルを愛してる」


 ♢


 そこで、エルは崩れた。


 膝をつき、声を上げて泣いた。

 抑えきれなかった。

 喉の奥が壊れて、空気が痛くて、涙が熱くて――それでも止まらなかった。


 泣いていいのか分からなかった。

 泣けば弱いと思われるのが怖かった。

 でもここには、戦場がない。

 ここには、父もいない。

 ここには、“正しくあれ”という命令もない。


 あるのは――


 愛した人の名前と、

 その人を愛してくれた両親と、

 そして、隣にいる人。


 シャルロットが、何も言わず、隣に寄り添う。

 抱きしめない。

 引き上げない。

 ただ、隣にいる。


 その“ただ”が、エルを壊さない。

 壊さないまま、泣かせてくれる。


 リィナの両親も、涙を堪えきれず、泣いていた。

 五年の時間が、ここで一度だけ元に戻る。

 戻らないと分かっているのに、戻ってしまう。

 だから痛い。

 だから泣く。


 ♢


 ――僕は、ずっと立ち止まっていた。


 前を向くことが、裏切りだと思っていた。

 忘れることが、罪だと思っていた。


 でも、違った。


 忘れないままでも、生きていい。

 背負ったままでも、歩いていい。


 僕は――


 前を向く“資格”を得たんじゃない。


 前を向いて生きる責任を、ようやく引き受けられるようになっただけだ。


 それでいい。


 それが、君がくれた未来だから。


 ――行くよ、リィナ。


 今度は、ちゃんと生きる。


 君の分まで。


 僕の隣には、いま、別の誰かがいる。

 その事実を、君に隠したくない。

 君がくれた愛を、君が望んだ未来を、

 “なかったこと”にしないために――僕は、歩く。


 泣きながらでもいい。

 立ち止まりながらでもいい。

 でも、逃げない。


 君の名前を、抱えたまま。


 ♢


 泣き止むまで、どれくらいかかったのか分からない。


 涙は、戦場の血と違って、拭っても拭っても終わりが見えない。

 喉が痛い。胸が痛い。頭が痛い。

 それでも、痛みの場所が分かるだけで、どこか安心してしまう自分がいた。

 痛みがあるということは、まだ壊れ切っていないということだ。


 シャルロットは、最後まで何も言わなかった。

 慰めない。

 励まさない。

 許さない。

 代わりに――離れない。


 それが、どれほど難しいことかを、エルは知っている。

 黙って隣にいるのは、勇気が要る。

 相手の苦しみを“自分の言葉で整えない”という、強さが要る。

 シャルロットは、今日もそれをした。

 彼女は、正しい言葉を投げない。

 だから、エルは初めて、泣くことを“自分のまま”で許された気がした。


 リィナの母が、濡れた睫毛を指でそっと拭った。

 泣き顔のまま笑おうとして、うまく笑えなくて、それでも言った。


「……ごめんなさいね、エルディオ様。こんな話、聞かせてしまって」


 違う、と言おうとして、言えなかった。

 違わないからだ。

 聞かせてもらってよかった、と言えるほど強くもない。

 ただ、受け取るしかない。


 父が、かすれた声で続ける。


「娘は……最期まで、あなたのことを……」


 言葉が途切れる。

 父は一度だけ唇を噛み、視線を墓石に向けたまま言った。


「……あなたの幸せを、願っていました」


 その言葉で、エルの胸の奥がまた軋んだ。


 幸せ。

 そんな言葉を、あの夜以来、まともに受け取ったことがない。

 受け取れば、裏切りになる気がした。

 自分だけが生き残ることが、許されない気がした。


 でも、彼女は願ったと言う。

 願った、と――両親が証言する。

 誰かの優しい嘘ではなく、残された言葉だと。


 エルは、震える息のまま、墓石に手を置き直した。

 冷たい石。

 冷たいのに、もう怖くない。

 怖いのは、石じゃない。

 怖いのは、そこから離れて歩き出すことだった。


 リィナの母が、シャルロットに向き直る。

 その視線は、試すものではない。

 許可を与えるものでもない。

 ただ、娘の代わりに“見届ける目”だった。


「あなたが……シャルロットさん?」


 シャルロットは、少しだけ息を吸い、静かに答えた。


「はい。シャルロット・ヴァルシュタインです」


 名乗りは短い。

 だが、声は揺れなかった。

 揺れないのは、冷たいからではない。

 揺れてしまうほどの場だと理解した上で、揺れない努力をしている声だった。


 母は、ほんの少しだけ目を細めた。


「……そう。あなた、綺麗ね」


 褒め言葉のはずなのに、そこには別の意味も混じっていた。

 “娘が生きられなかった未来”の人。

 “娘が見るはずだった景色”の人。


 シャルロットは、その視線を受け止めたまま、言葉を選んだ。


「……私は、彼の過去を消しません」


 一拍。


「消せると思うのも、傲慢だと思っています」


 言い切る声は、強かった。

 だが強さは、刃じゃない。

 守るための強さだ。


「私にできるのは……彼が彼のまま、生き続けられるように、隣にいることだけです」


 それは、誓いではない。

 宣言でもない。

 ただの事実の提示だった。

 だからこそ、嘘がない。


 リィナの母は、その言葉を聞いて、ふっと息を吐いた。


「……ありがとう」


 その“ありがとう”が、エルの胸に刺さった。

 まるで、母親同士の会話みたいだった。

 リィナの母が、娘の代わりに言う“ありがとう”。

 シャルロットが、誰かの代わりにはならないまま受け取る“ありがとう”。


 父が、エルディオに一歩近づき、深く頭を下げた。


「……もう、謝らなくていい」


 エルが咄嗟に言うと、父は首を振った。


「違います。謝るのではなく……礼を言わせてください」


 父は、唇を震わせながら、言葉を押し出した。


「娘が……最後に『恋』をできたこと。それがどれほど救いだったか」


「それを与えてくれたのは、あなたです」


 エルは、答えられなかった。

 答えたら、何かを肯定してしまう。

 肯定すれば、救われてしまう。


 救われるのが怖いのに――救われたい自分も確かにいる。

 その矛盾が、また涙を呼んだ。


 リィナの母が、涙を拭いながら小さく笑った。


「……ねえ、エルディオ様」


 母は、墓石を見たまま言った。


「もし、あなたが……これから先、生きるのが苦しくなったら」


 一拍。


「今日のことを思い出して。あの子が、あなたを縛るために愛したんじゃないって」


 縛るためじゃない。

 その言葉が、胸の奥でやっと形になる。


 愛は、鎖になり得る。

 でも、彼女は鎖を望まなかった。

 だからこそ――エルは鎖にしてしまった。

 自分で。


 エルは、ゆっくりと首を振った。


「……分かっている。分かっている、つもりだ」


 声が掠れる。


「でも……」


 言葉が止まる。

 続けたら、言ってしまう。

 “それでも辛い”と。

 “それでも怖い”と。

 そう言えば、弱さを曝け出すことになる。


 だが、母は弱さを責める顔をしなかった。

 ただ、優しく頷いた。


「うん。……それでも、なのよね」


 その一言で、エルはもう一度だけ目を閉じた。

 理解されることが、こんなにも痛いとは知らなかった。

 痛いのに、救いだ。

 救いなのに、泣ける。


 やがて、リィナの両親は「また来るわね」と墓に触れ、静かに去っていった。

 足音が砂利に吸われ、気配が遠ざかる。


 墓の前に残ったのは、エルとシャルロットだけだった。


 風が抜ける。

 白い花が揺れる。

 揺れ方が、まるで呼吸みたいだった。


 エルは、墓石に向かって、もう一度だけ言葉を落とした。


「……今度は二人で来るって言ったの、覚えてる?」


 返事はない。

 でも、今日は返事がなくてもいい。


「君に見せたかったんだ」


 一拍。


「……僕が、君を“終わらせる”ためじゃない」


 喉が詰まる。

 それでも続けた。


「君を、ちゃんと抱えたまま、次へ行くために」


 次へ行く。

 それは裏切りじゃない。

 逃げでもない。


 生きる、ということだ。


 シャルロットが、ようやく一歩だけ近づき、エルの隣に膝をついた。

 そして、ほんの小さな声で言った。


「……リィナさん」


 名を呼ぶだけ。

 祈りでも、誓いでもない。


「私は、あなたの代わりにはなれない」


 一拍。


「でも、彼があなたを忘れないままでも……生きていけるように、隣にいます」


 それだけを言って、シャルロットは口を閉じた。


 エルは、肩で息をしながら、頷いた。

 頷くことでしか、今は返せない。


 そして、最後にもう一度だけ、墓に告げる。


「……行くよ、リィナ」


 胸の奥が痛い。

 でも、その痛みはもう“罰”じゃない。


 ――持っていく痛みだ。


 手放せないものを、手放さないまま歩くための痛みだ。


 エルは立ち上がり、シャルロットに手を差し出した。

 シャルロットは迷わずその手を取る。


 二人の指が重なった瞬間、墓地の風が少しだけ温かく感じた。


 きっとそれは、気のせいだ。

 でも――気のせいでいい。


 気のせいでもいいから、今日を“生きる”側に残したかった。



この回を書いている間、何度も手が止まりました。

「泣かせたい」とか「感動させたい」とか、そういう欲からじゃなくて――たぶん、私が怖かったんだと思います。

リィナを“物語の過去”にしてしまうのが。

彼女を、都合よく美しい死にしてしまうのが。

エルが前を向くための装置にしてしまうのが。


でも、リィナは装置じゃない。

誰かの成長のための犠牲でもない。

彼女は、彼女のまま生きて、彼女のまま苦しんで、彼女のまま愛して、彼女のまま逝った。

それを、ちゃんと書かないといけなかった。


魔脈萎縮症――治らない病名を口に出すところは、書きながら胸が痛かったです。

病名って、言葉なのに、宣告みたいに人の未来を切ってしまう。

十歳の子の未来を「数年」と言ってしまう残酷さ。

それでも笑ってしまう子の、あの“困ったみたいな笑い”が、私にはいちばんきつかった。

泣き叫んでくれた方が、まだ救えた気がするから。

泣けない子は、周りに“強いね”って言われて、強くあらねばならなくなるから。


この回は、エルが“泣けるようになる回”です。

泣くことは弱さじゃないって言いたいわけじゃない。

泣くのは弱い。弱いからこそ泣く。

でも、弱いまま生きるって、たぶん一番難しい。

エルはずっと、強い型の中でしか生きられなかった。

だから彼は、涙を抑える訓練だけは上手になってしまった。

その上手さが、彼を救わなかった。

むしろ彼を、ずっと“置き去り”にした。


そして、シャルロット。

この子に「何を言わせるか」は、最後まで迷いました。

慰めの言葉は簡単に書ける。

でも、慰めって、時に残酷だから。

痛みを整えてしまう。

痛みを薄めてしまう。

「大丈夫だよ」って言って、まだ大丈夫じゃないものを置いていってしまう。

だから彼女には、言葉を減らした。

言葉を減らして、隣にいるという行為だけを残した。

抱きしめないのは冷たいからじゃない。

彼の痛みを奪わないため。

彼の涙を“彼のもの”にするため。

この回のシャルロットは、強いです。

派手な強さじゃなくて、逃げない強さ。


リィナの両親の涙も、書いていて苦しかった。

親は、子を代われない。

抱きしめても病は消えない。

それでも「生きていてくれるだけで嬉しい」と言ってしまう。

その言葉が、どれほど祈りで、どれほど残酷で、どれほど人間的か。

“ありがとう”が刺さるのは、その言葉が美しいからじゃない。

その言葉が、ずっと言いたくて言えなかった言葉だからです。


この回で一番言いたかったのは、たぶんここです。

「忘れないまま、生きていい」

「背負ったまま、歩いていい」


前を向くことは、忘れることじゃない。

前を向くことは、裏切ることじゃない。

前を向くって、抱えたまま歩くことだ。

そしてそれは、きれいにできない。

泥臭いし、涙も出るし、格好悪い。

でも、格好悪いまま生きることを、リィナはエルに残したんだと思う。


……だから、私はこの回を「鎮魂歌」にしました。

鎮魂歌は、死者のためだけじゃない。

生き残った側の魂のための歌でもある。

死んだ人に謝る歌じゃなくて、生きる側が“生きることを許す”ための歌。


リィナ。

あなたはやさしかった。やさしすぎた。

そして、強くあろうとした。

強くあろうとするしかなかった。

その全部が、痛い。


エル。

泣いていい。

泣き方が下手でもいい。

声が壊れてもいい。

それでも生きろ。

それが、彼女の望んだ未来だ。


この回を書き終えた今、私も少しだけ、息ができます。

たぶん、読んでくれたあなたも。

泣いてしまったなら、泣いてしまっていい。

この鎮魂歌は、あなたの涙も否定しない。

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