91. 【白い花の鎮魂歌】
「エル、どこに向かってるの?」
馬車の窓から差し込む午後の光は、柔らかく、どこか曖昧だった。
街の喧噪を抜け、住宅街へ入ると、通りの音は一段低くなり、人の声も遠ざかる。
石畳の震えが規則正しく腹に伝わるたび、エルディオの心臓は「平常」を演じようとする。
けれど演技は、こういうときほど下手になる。
喉の奥が乾き、息が浅くなる。
視界の端ばかりが冴えて、目の前の景色がぼんやりする。
戦場でなら、その兆候は危険の合図だ。
――ただ今日は、危険の正体が刃ではなく、記憶だった。
向かいに座るシャルロットが、静かに言った。
問い詰める声ではない。
ただ隣にいる人間の声だ。
だからこそ、逃げられない。
エルディオは、窓の外から視線を戻さないまま答えた。
「……君を連れていきたい場所がある」
それ以上は言わなかった。
理由を言えば、言葉が整ってしまう。
整った言葉は、時に本心を隠す。
今は、隠したくなかった。
隠してしまったら、ここへ来る意味が半分消える。
シャルロットはそれ以上問わなかった。
問い詰めない。
理由を要求しない。
代わりに「大丈夫?」とも言わない。
彼女は、慰めの言葉でこの沈黙を薄めない。
ただ、隣にいる。
その“ただ”が、エルディオにとってはいつも一番重い。
重いのに、押し付けない。
押し付けないから、逃げられない。
逃げられないから――今の自分を、そのまま差し出すしかなくなる。
馬車が止まる。
御者の合図が、遠くで鳴った気がした。
扉が開き、外の空気が入り込む。冬の終わりに似た冷たさ。
冷たいのに、刺さらない。
街の中心より少しだけ空が広い場所の匂いがした。
エルは先に降り、手を差し出す。
手を差し出す、その一瞬の動作に、彼は自分でも驚いた。
昔の自分は、こういう動きを知らなかった。
必要がなかったからではない。
必要だと認めるのが怖かったからだ。
シャルロットは一瞬だけ躊躇い、それからその手を取った。
指先が触れた瞬間、エルディオの胸の奥が小さく震える。
彼女が「受け取った」――その事実が、ほんの少しだけ世界の重さを変えた。
街の一角。
小さな花屋があった。
♢
花屋の中は、外よりも少しだけ温度が高かった。
湿った土の匂い、切り花の青い香り。
生きているものと、切り離されたものが、同じ空間に並んでいる匂いだ。
この匂いは、昔の村にもあった。
あの人の家にも、春先になると一度だけ漂う匂いがあった。
薬草を干す匂い――そして、笑い声。
店主の女性が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
エルは答えない。
どの花を選ぶか、もう決めていた。
白い花。
過剰な香りのないもの。
陽に当たっても、陰にあっても、形を保つ花。
――白いのに、冷たくない花。
指先が、一輪に触れた。
花弁は薄いのに、折れそうで折れない張りがある。
「それ、綺麗でしょう」
店主が言う。
「白いのに、冷たくない。強い花です」
エルは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
“強い”という言葉が、胸に引っかかった。
あの人は、強いと言われるのが好きではなかった。
強いと言われると、弱さを許されないから。
でも――弱かったことを知っている人にだけ、彼女は強くあろうとした。
「……それを」
包まれた花束を受け取る。
白い紙に薄い紐。装飾は少ない。
まるで、余計なものを削いで本質だけ残すような包み方だった。
シャルロットは何も言わず、支払いを済ませた。
その動作が自然で、エルは胸の奥で少しだけ息を吐く。
彼女は「私がやる」とも言わない。
「あなたがやりなさい」とも言わない。
ただ、必要なことを必要なだけして、そこで止まる。
店を出るとき、店主が何気なく言った。
「大切な人に?」
エルは、少しだけ考えてから答えた。
「……ああ」
大切だった。
今も大切だ。
それは過去形にはならない。
過去形にしたら、彼女が“いなかったこと”になる。
それは、できない。
できないから――ここまで引きずってきた。
花束を抱えた腕が、少しだけ重い。
その重さが、罰のようで、救いのようでもあった。
♢
墓地は、街外れの小高い丘にあった。
風が抜け、音が少ない。
人の気配が薄い場所の静けさは、時々、優しさより先に残酷さを運んでくる。
門をくぐると、足元の砂利が小さく鳴った。
音が鳴ったことに、エルは一瞬だけ身構える。
この身構えは癖だ。
音が鳴ると、誰かが振り向く。
振り向かれると、見られる。
見られると、何かを期待される。
期待されると、演じなければならなくなる。
だが――振り向く者はいない。
ここでは誰も、彼を“英雄”として見ない。
ここでは誰も、彼に“正しさ”を求めない。
求めない代わりに――過去がいる。
石の列を進み、エルは足を止めた。
ひとつの墓石。
名前が刻まれている。
指でなぞれば溝の冷たさが伝わる。
その冷たさが、現実として残る。
シャルロットが、それを見て言った。
「……連れてきたかった場所って、ここ?」
声がほんの少しだけ低い。
驚きはない。
理解しようとする音だけがある。
「……うん」
エルは、膝を折る。
花を供え、墓石に手を置いた。
掌に冷たさが移る。
昔、彼女の手を取ったときの温かさを、身体が勝手に思い出そうとして――思い出せなくて、胸が痛む。
「ただいま、リィナ……」
声は低く、震えていない。
震えないように、長い間、訓練してきた声だ。
戦場で震えないために、訓練した。
――でもこの震えは、戦場の訓練では止められない。
シャルロットは、何も言わない。
彼女は、ここで話す役目を持っていない。
話してしまえば、エルの言葉が薄くなる。
薄くなることは、逃げることと同じだ。
彼女は逃げさせない。
押し付けず、逃げさせない。
その優しさは、時々、鋭い。
「この前の約束、果たしに来たよ」
一拍。
「今度は……二人で来るって、約束」
墓石に、影が落ちる。
雲が流れて、陽の加減が変わる。
光が動くだけで、世界が少し違って見える。
「彼女は、シャルロット。シャルロット・ヴァルシュタイン」
言葉を選ぶ。
選ばないと、喉が詰まる。
「僕の……婚約者だ」
喉が、わずかに詰まる。
“婚約者”という単語は、温かさではなく責任として胸に落ちる。
でも今日は、その責任の中に――確かに温度がある。
「リィナ……」
風が吹く。
花弁が、静かに揺れた。
「ずっと、ずっと君のことを引きずっていた」
正直だった。
取り繕う意味は、もうない。
「でも……ようやく僕は」
一度、息を吸う。
「前を向いて、生きていける気がする」
そのときだった。
♢
「おや……」
背後から、声がした。
「……貴方様は」
エルは、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、二人の男女。
年を重ね、皺が増え、髪は白くなっている。
けれど目元の形は変わらない。
その目の奥の温度は、変えようがない。
リィナの両親だった。
息が止まる。
止まった息が、次の呼吸に繋がらない。
喉の奥が、熱くなる。
「……お二人とも。お久しぶりです」
エルは、深く頭を下げた。
頭を下げるのが礼儀だからではない。
顔を上げたままだと、崩れてしまう気がしたからだ。
「ええ。本当に」
母親が、柔らかく笑う。
笑うのに、目は泣きそうだ。
「あの子が旅立って……もう五年ですもの」
「……そう、ですね」
言葉が、胸に落ちる。
五年。
たった二文字の数が、胸の中で鈍く鳴る。
「リィナのことは、今でも……つい昨日のことのように思い出せるわ」
母は、墓石に視線を向けた。
指先が、花束の白に触れそうで触れない距離で止まる。
父は、シャルロットに気づいて、静かに会釈した。
シャルロットは深く礼を返す。
ここでも余計な言葉はない。
ただ、“この場を壊さない”という覚悟だけがある。
♢
「リィナは……白子として生まれました」
語りは、静かだった。
泣きながら語るのは簡単だ。
泣かずに語る方が、ずっと痛い。
「肌も、髪も、全部白くて。目だけが紅くて」
母は、指先を重ねる。
「生まれたときは、本当に心配で……それでも、生きていてくれるだけで、嬉しかった」
それが、親の本音だった。
誇りでも、理想でもない。
ただの願い。
だが、村は優しくなかった。
「気味が悪い、って」
「不吉だ、って」
「近づくな、って」
淡々と語られる言葉が、鋭く胸を刺す。
エルの指が、無意識に握られる。
剣を握るときの力ではない。
握っていないと、何かが溢れてしまう力だ。
「小さな頃から、病弱で……それでも、あの子は笑っていました」
父が、静かに続ける。
「笑っている方が、周りが怖がらないからだ、と……あの子は後で言いました」
母が小さく頷く。
「優しい子なのよ。自分が傷ついているのに、周りを落ち着かせようとする」
それは優しさだった。
同時に、諦めの技術でもあった。
「……病気が分かったのは、十のときです」
母が頷く。
「魔脈萎縮症」
その言葉は、静かに落ちた。
世界から色が一つ減るような単語。
「魔力の循環そのものが、少しずつ細くなっていく病。血の巡りじゃない。骨の問題でもない。……生きる仕組みの“道”が、萎んでいく」
母の声が掠れる。
「治らない。治るはずがない」
「それを聞いたとき……あの子は」
母は、目を伏せた。
「泣きもしなかった。喚きもしなかった。ただ……困ったみたいに、笑ったの」
声が、少しだけ震える。
「『じゃあ、私、急がなきゃね』って」
その一言が、エルの胸を刺す。
十歳の子が言う言葉じゃない。
十歳の子は、未来を信じて泣くべきだ。
未来がないと言われたら、泣いて当然だ。
「でもね、夜になると……一人で泣いてた」
母は、息を吐く。
「布団の中で、声を殺して。私が起きている気配がすると、すぐに泣き止んで、笑うの」
エルの視界が少し霞む。
涙ではない。まだ違う。
ただ、胸の奥が焼ける。
「親として、それが一番辛かった」
「私たちにできたのは……医者を探すことだけ」
父が言う。
「ヘルマン先生が言いました。回復は見込めない、と」
一拍。
「……持って、あと数年だろう、と」
♢
「リィナは……葛藤していました」
母は続ける。
語りながら、何度も指先を重ね直す。
その動きが、言葉にならない痛みを示していた。
「怖くなかったわけじゃない。強かったわけでもない」
ただ――
「それでも、自分らしく生きることを選んだ」
選んだ、と言うのは簡単だ。
選ばざるを得なかった、と言う方が正しい。
でも、母は“選んだ”と表現した。
それは、娘の最後の尊厳だった。
「最初から強かったわけじゃないのよ」
母は、少し笑って、泣きそうになって、また整えた。
「ある夜ね、あの子が私に言ったの」
『ねえ、お母さん。私、死ぬの?』
十歳の子が言う。
自分の死を問う。
「私は嘘をつけなかった」
母の声が割れた。
『いつかは、みんな死ぬわ』
そんな逃げ方しかできなかった。
「そしたらね、あの子……笑って」
『うん。知ってる。だけど私、早いんでしょ?』
母は、そこで一度息を止めた。
止めて、吐いた。
「強い子じゃないの。強くあろうとしてただけ」
「怖かったと思う。悔しかったと思う。羨ましかったと思う」
村の子たちの未来が。
普通に大人になる未来が。
恋をして、結婚して、年を取る未来が。
「それでも、強くあろうとしたの」
命の灯が消える、その時まで。
♢
「十六のとき……身体が言うことを聞かなくなって」
「もう時間がない、と……私たちも、あの子も、分かっていました」
母が言う。
「歩くのが遅くなって、息が上がりやすくなって、寝ても疲れが取れなくなって」
父が続ける。
「魔力の循環が細くなると、身体の回復も遅くなる。無理をすれば、余計に削れる」
そんなときに。
「……貴方様と、出会った」
エルは、視線を落とす。
目を上げたら、過去が目の前に来てしまう。
「村の子たちとは違った。あの子を“リィナ”として見てくれた」
母は、少しだけ笑う。
「あの子は……恋をしました」
でも。
「ずっと、隠していた」
理由は、ひとつ。
「自分の命が、もう残り少ないと分かっていたから」
母は、言葉を選んだ。
残り少ない、という言い方は優しい。
本当は、残りは“減っていくだけ”だった。
「恋をしたらね、欲が出るの」
「欲が出たら、生きたくなるの」
「生きたくなったら、苦しくなるの」
その地獄を、娘は最初から知っていた。
♢
「畑に行くようになって……薬草を持って帰るようになりました」
どこで調べたのかは、分からない。
「“薬になるんだよ”って、あの子は笑って」
体調は、少しずつ良くなったように見えた。
「……嬉しかった」
母の声が、掠れる。
「本当に嬉しかったの。神様が、少しだけ、あの子に時間をくれたんだって」
父が、低く言う。
「……だが、それは毒でした」
母が頷く。
「私たちは……それが毒だとも知らずに」
沈黙。
墓地の風が、一本の木の枝を揺らす。
葉擦れの音だけが、やけに大きい。
「貴方が、娘に想いを伝えたとき……」
母は、目を閉じた。
「あの子、初めて……私たちの前で泣いたの」
嬉しい。
でも、怖い。
愛している。
でも、時間がない。
「『嬉しい』って泣くのと、『怖い』って泣くのが、一緒に出たんだと思う」
「好きになってくれて嬉しい。なのに、これからがない」
「未来がないのに、今が一番眩しい」
ぐちゃぐちゃになった感情。
♢
「……身体は、もう毒に耐えられなくなっていました」
父が言う。
「薬草の“効き目”に見えたものは、身体が最後に燃やした灯りだったのでしょう」
母は続ける。
「それでも、貴方様が毎日来てくれるのが……よほど嬉しかったのね」
「貴方が帰ったあと……あの子、ずっと一人で泣いていました」
エルと一緒に居たい。
共に生きたい。
でも――
「私は、もう長くない」
だから。
「せめて……エルの重荷にはなりたくない」
だから、いつも通りを続けた。
母は、震える声で言う。
「最期の方ね……あの子、笑うのが上手になったの」
上手になった。
つまり、泣けなくなった。
「泣いたら、貴方様が苦しむって知ってたから」
「苦しむ顔を見たくないから」
「なのに……貴方様が帰ったあと、一人で泣くの」
母の涙が落ちる。
「親として、悔しかった」
「抱きしめても、痛みは消えない」
「“代わってあげる”こともできない」
「それでも、生きていてほしいって思うことしかできない」
その無力が、親を殺すのだとエルは知った。
そしてそれは、彼自身がずっと抱えていた無力と同じだった。
♢
母は、エルを見た。
「貴方様には……本当に感謝しています」
一語一語、噛みしめるように。
「あの子を、一人の人間として接してくれた」
「普通の人と同じ愛を、くれた」
「……最期に、生きる時間を、くれた」
父が、深く頭を下げる。
「エルディオ様……娘を、ありがとうございました」
そして、シャルロットを見る。
「そちらの方は……きっと、良きパートナーでしょう」
シャルロットは、ただ礼をした。
言葉はない。
それでいい。
ここで彼女が言葉を持てば、エルの痛みを奪ってしまう。
奪うことは、救いではなく“逃げ”になる。
母が、そっと言った。
「あの子が、最期の夜に……伝えて欲しいと言っていた言葉があります」
だから、そのまま伝えます。
♢
「エル――」
リィナの声が、胸に響く。
母の口から語られるのに、確かに“彼女の声”だった。
言葉は、死んでいない。
言葉は、いま生きている。
「きっと私は、あなたに深い傷を残してしまったと思う」
「だけどね……私は後悔してないよ」
「だって、あなたは私を愛してくれた、ただ一人の恋人だから」
一拍。
「でもね、もうそれも終わり」
「エル、前を向いて生きて」
「私のこと、忘れないで欲しいけど……」
「それでも、これから出会う誰かと、また恋をして」
「結婚して、子供ができて……」
「私が生きられなかった未来を……あなたは、生きて」
優しい声。
「……あんまり早く、こっちに来たらダメだよ?」
「あなたは、生きる理由を持っていない人だから…ちょっと心配」
一拍。
「でも……これだけは、忘れないで」
「誰がなんと言おうと……私は、エルを愛してる」
♢
そこで、エルは崩れた。
膝をつき、声を上げて泣いた。
抑えきれなかった。
喉の奥が壊れて、空気が痛くて、涙が熱くて――それでも止まらなかった。
泣いていいのか分からなかった。
泣けば弱いと思われるのが怖かった。
でもここには、戦場がない。
ここには、父もいない。
ここには、“正しくあれ”という命令もない。
あるのは――
愛した人の名前と、
その人を愛してくれた両親と、
そして、隣にいる人。
シャルロットが、何も言わず、隣に寄り添う。
抱きしめない。
引き上げない。
ただ、隣にいる。
その“ただ”が、エルを壊さない。
壊さないまま、泣かせてくれる。
リィナの両親も、涙を堪えきれず、泣いていた。
五年の時間が、ここで一度だけ元に戻る。
戻らないと分かっているのに、戻ってしまう。
だから痛い。
だから泣く。
♢
――僕は、ずっと立ち止まっていた。
前を向くことが、裏切りだと思っていた。
忘れることが、罪だと思っていた。
でも、違った。
忘れないままでも、生きていい。
背負ったままでも、歩いていい。
僕は――
前を向く“資格”を得たんじゃない。
前を向いて生きる責任を、ようやく引き受けられるようになっただけだ。
それでいい。
それが、君がくれた未来だから。
――行くよ、リィナ。
今度は、ちゃんと生きる。
君の分まで。
僕の隣には、いま、別の誰かがいる。
その事実を、君に隠したくない。
君がくれた愛を、君が望んだ未来を、
“なかったこと”にしないために――僕は、歩く。
泣きながらでもいい。
立ち止まりながらでもいい。
でも、逃げない。
君の名前を、抱えたまま。
♢
泣き止むまで、どれくらいかかったのか分からない。
涙は、戦場の血と違って、拭っても拭っても終わりが見えない。
喉が痛い。胸が痛い。頭が痛い。
それでも、痛みの場所が分かるだけで、どこか安心してしまう自分がいた。
痛みがあるということは、まだ壊れ切っていないということだ。
シャルロットは、最後まで何も言わなかった。
慰めない。
励まさない。
許さない。
代わりに――離れない。
それが、どれほど難しいことかを、エルは知っている。
黙って隣にいるのは、勇気が要る。
相手の苦しみを“自分の言葉で整えない”という、強さが要る。
シャルロットは、今日もそれをした。
彼女は、正しい言葉を投げない。
だから、エルは初めて、泣くことを“自分のまま”で許された気がした。
リィナの母が、濡れた睫毛を指でそっと拭った。
泣き顔のまま笑おうとして、うまく笑えなくて、それでも言った。
「……ごめんなさいね、エルディオ様。こんな話、聞かせてしまって」
違う、と言おうとして、言えなかった。
違わないからだ。
聞かせてもらってよかった、と言えるほど強くもない。
ただ、受け取るしかない。
父が、かすれた声で続ける。
「娘は……最期まで、あなたのことを……」
言葉が途切れる。
父は一度だけ唇を噛み、視線を墓石に向けたまま言った。
「……あなたの幸せを、願っていました」
その言葉で、エルの胸の奥がまた軋んだ。
幸せ。
そんな言葉を、あの夜以来、まともに受け取ったことがない。
受け取れば、裏切りになる気がした。
自分だけが生き残ることが、許されない気がした。
でも、彼女は願ったと言う。
願った、と――両親が証言する。
誰かの優しい嘘ではなく、残された言葉だと。
エルは、震える息のまま、墓石に手を置き直した。
冷たい石。
冷たいのに、もう怖くない。
怖いのは、石じゃない。
怖いのは、そこから離れて歩き出すことだった。
リィナの母が、シャルロットに向き直る。
その視線は、試すものではない。
許可を与えるものでもない。
ただ、娘の代わりに“見届ける目”だった。
「あなたが……シャルロットさん?」
シャルロットは、少しだけ息を吸い、静かに答えた。
「はい。シャルロット・ヴァルシュタインです」
名乗りは短い。
だが、声は揺れなかった。
揺れないのは、冷たいからではない。
揺れてしまうほどの場だと理解した上で、揺れない努力をしている声だった。
母は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そう。あなた、綺麗ね」
褒め言葉のはずなのに、そこには別の意味も混じっていた。
“娘が生きられなかった未来”の人。
“娘が見るはずだった景色”の人。
シャルロットは、その視線を受け止めたまま、言葉を選んだ。
「……私は、彼の過去を消しません」
一拍。
「消せると思うのも、傲慢だと思っています」
言い切る声は、強かった。
だが強さは、刃じゃない。
守るための強さだ。
「私にできるのは……彼が彼のまま、生き続けられるように、隣にいることだけです」
それは、誓いではない。
宣言でもない。
ただの事実の提示だった。
だからこそ、嘘がない。
リィナの母は、その言葉を聞いて、ふっと息を吐いた。
「……ありがとう」
その“ありがとう”が、エルの胸に刺さった。
まるで、母親同士の会話みたいだった。
リィナの母が、娘の代わりに言う“ありがとう”。
シャルロットが、誰かの代わりにはならないまま受け取る“ありがとう”。
父が、エルディオに一歩近づき、深く頭を下げた。
「……もう、謝らなくていい」
エルが咄嗟に言うと、父は首を振った。
「違います。謝るのではなく……礼を言わせてください」
父は、唇を震わせながら、言葉を押し出した。
「娘が……最後に『恋』をできたこと。それがどれほど救いだったか」
「それを与えてくれたのは、あなたです」
エルは、答えられなかった。
答えたら、何かを肯定してしまう。
肯定すれば、救われてしまう。
救われるのが怖いのに――救われたい自分も確かにいる。
その矛盾が、また涙を呼んだ。
リィナの母が、涙を拭いながら小さく笑った。
「……ねえ、エルディオ様」
母は、墓石を見たまま言った。
「もし、あなたが……これから先、生きるのが苦しくなったら」
一拍。
「今日のことを思い出して。あの子が、あなたを縛るために愛したんじゃないって」
縛るためじゃない。
その言葉が、胸の奥でやっと形になる。
愛は、鎖になり得る。
でも、彼女は鎖を望まなかった。
だからこそ――エルは鎖にしてしまった。
自分で。
エルは、ゆっくりと首を振った。
「……分かっている。分かっている、つもりだ」
声が掠れる。
「でも……」
言葉が止まる。
続けたら、言ってしまう。
“それでも辛い”と。
“それでも怖い”と。
そう言えば、弱さを曝け出すことになる。
だが、母は弱さを責める顔をしなかった。
ただ、優しく頷いた。
「うん。……それでも、なのよね」
その一言で、エルはもう一度だけ目を閉じた。
理解されることが、こんなにも痛いとは知らなかった。
痛いのに、救いだ。
救いなのに、泣ける。
やがて、リィナの両親は「また来るわね」と墓に触れ、静かに去っていった。
足音が砂利に吸われ、気配が遠ざかる。
墓の前に残ったのは、エルとシャルロットだけだった。
風が抜ける。
白い花が揺れる。
揺れ方が、まるで呼吸みたいだった。
エルは、墓石に向かって、もう一度だけ言葉を落とした。
「……今度は二人で来るって言ったの、覚えてる?」
返事はない。
でも、今日は返事がなくてもいい。
「君に見せたかったんだ」
一拍。
「……僕が、君を“終わらせる”ためじゃない」
喉が詰まる。
それでも続けた。
「君を、ちゃんと抱えたまま、次へ行くために」
次へ行く。
それは裏切りじゃない。
逃げでもない。
生きる、ということだ。
シャルロットが、ようやく一歩だけ近づき、エルの隣に膝をついた。
そして、ほんの小さな声で言った。
「……リィナさん」
名を呼ぶだけ。
祈りでも、誓いでもない。
「私は、あなたの代わりにはなれない」
一拍。
「でも、彼があなたを忘れないままでも……生きていけるように、隣にいます」
それだけを言って、シャルロットは口を閉じた。
エルは、肩で息をしながら、頷いた。
頷くことでしか、今は返せない。
そして、最後にもう一度だけ、墓に告げる。
「……行くよ、リィナ」
胸の奥が痛い。
でも、その痛みはもう“罰”じゃない。
――持っていく痛みだ。
手放せないものを、手放さないまま歩くための痛みだ。
エルは立ち上がり、シャルロットに手を差し出した。
シャルロットは迷わずその手を取る。
二人の指が重なった瞬間、墓地の風が少しだけ温かく感じた。
きっとそれは、気のせいだ。
でも――気のせいでいい。
気のせいでもいいから、今日を“生きる”側に残したかった。
この回を書いている間、何度も手が止まりました。
「泣かせたい」とか「感動させたい」とか、そういう欲からじゃなくて――たぶん、私が怖かったんだと思います。
リィナを“物語の過去”にしてしまうのが。
彼女を、都合よく美しい死にしてしまうのが。
エルが前を向くための装置にしてしまうのが。
でも、リィナは装置じゃない。
誰かの成長のための犠牲でもない。
彼女は、彼女のまま生きて、彼女のまま苦しんで、彼女のまま愛して、彼女のまま逝った。
それを、ちゃんと書かないといけなかった。
魔脈萎縮症――治らない病名を口に出すところは、書きながら胸が痛かったです。
病名って、言葉なのに、宣告みたいに人の未来を切ってしまう。
十歳の子の未来を「数年」と言ってしまう残酷さ。
それでも笑ってしまう子の、あの“困ったみたいな笑い”が、私にはいちばんきつかった。
泣き叫んでくれた方が、まだ救えた気がするから。
泣けない子は、周りに“強いね”って言われて、強くあらねばならなくなるから。
この回は、エルが“泣けるようになる回”です。
泣くことは弱さじゃないって言いたいわけじゃない。
泣くのは弱い。弱いからこそ泣く。
でも、弱いまま生きるって、たぶん一番難しい。
エルはずっと、強い型の中でしか生きられなかった。
だから彼は、涙を抑える訓練だけは上手になってしまった。
その上手さが、彼を救わなかった。
むしろ彼を、ずっと“置き去り”にした。
そして、シャルロット。
この子に「何を言わせるか」は、最後まで迷いました。
慰めの言葉は簡単に書ける。
でも、慰めって、時に残酷だから。
痛みを整えてしまう。
痛みを薄めてしまう。
「大丈夫だよ」って言って、まだ大丈夫じゃないものを置いていってしまう。
だから彼女には、言葉を減らした。
言葉を減らして、隣にいるという行為だけを残した。
抱きしめないのは冷たいからじゃない。
彼の痛みを奪わないため。
彼の涙を“彼のもの”にするため。
この回のシャルロットは、強いです。
派手な強さじゃなくて、逃げない強さ。
リィナの両親の涙も、書いていて苦しかった。
親は、子を代われない。
抱きしめても病は消えない。
それでも「生きていてくれるだけで嬉しい」と言ってしまう。
その言葉が、どれほど祈りで、どれほど残酷で、どれほど人間的か。
“ありがとう”が刺さるのは、その言葉が美しいからじゃない。
その言葉が、ずっと言いたくて言えなかった言葉だからです。
この回で一番言いたかったのは、たぶんここです。
「忘れないまま、生きていい」
「背負ったまま、歩いていい」
前を向くことは、忘れることじゃない。
前を向くことは、裏切ることじゃない。
前を向くって、抱えたまま歩くことだ。
そしてそれは、きれいにできない。
泥臭いし、涙も出るし、格好悪い。
でも、格好悪いまま生きることを、リィナはエルに残したんだと思う。
……だから、私はこの回を「鎮魂歌」にしました。
鎮魂歌は、死者のためだけじゃない。
生き残った側の魂のための歌でもある。
死んだ人に謝る歌じゃなくて、生きる側が“生きることを許す”ための歌。
リィナ。
あなたはやさしかった。やさしすぎた。
そして、強くあろうとした。
強くあろうとするしかなかった。
その全部が、痛い。
エル。
泣いていい。
泣き方が下手でもいい。
声が壊れてもいい。
それでも生きろ。
それが、彼女の望んだ未来だ。
この回を書き終えた今、私も少しだけ、息ができます。
たぶん、読んでくれたあなたも。
泣いてしまったなら、泣いてしまっていい。
この鎮魂歌は、あなたの涙も否定しない。




