表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
リィナ編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/25

09.春が終わるまで-2

 リィナの体調が日を追うごとに目に見えて悪くなっている。

 あの時――

 彼女の身体に魔力を流した日からだ。


 それが錯覚だと、何度も自分に言い聞かせた。

 魔力の流れが一時的に乱れただけだ。

 体調が悪かっただけだ。

 偶然が重なっただけだ。


 そうであってほしかった。


 それなのに――

 時間が経つほど、

 リィナの「大丈夫」が、

 言葉として成立しなくなっていく。


 立ち上がる時の、わずかな間。

 息を整えるまでの、短い沈黙。

 笑顔のあとに残る、ほんの一拍の遅れ。


 誰も気づかない程度の変化。

 でも、

 一度気づいてしまったら、

 もう見なかったことにはできなかった。


「大丈夫?」


 その言葉を、僕は何度も飲み込んだ。

 聞いてしまえば、きっと戻れなくなる。

 聞かなければ、まだ“いつも通り”でいられる。

 そう分かっているのに、

 視線は、無意識のうちに彼女を追ってしまう。


 畑に立つリィナは、

 相変わらず静かで、相変わらず優しくて、

 相変わらず、何も求めてこない。


 それが、どうしようもなく怖かった。


 助けを求めない人間が、一番、手遅れになる。

 それを、僕は知っている。


 前の人生で、

 何度も――自分自身が、そうだったから。


 ♢


 作業が終わる頃には、

 空の色が少しだけ傾いていた。


 春の夕方は、昼と夜の境目が曖昧だ。

 まだ明るいのに、どこか終わりを感じさせる。

 今日も、畑は静かだった。


 道具を片付け、いつものように土を払って、

 それぞれ帰る準備をする。


「じゃあ、またね」


 リィナが、いつも通りに言った。

 声の調子も、表情も、

 何も変わらない。


 ……変わらないように、している。


 僕は一歩、遅れて歩き出した。

 追い越すわけでも、並ぶわけでもない。

 ただ、少しだけ距離を詰める。

 彼女が畑を出るところで、足を止めた。


「……リィナ」


 名前を呼んだ瞬間、

 自分の喉が、ひどく乾いていることに気づく。


 彼女は振り返った。

「なに?」と、軽い声。


 逃げるなら、今だった。

「なんでもない」と言えば、

 今日も“いつも通り”で終われた。


 でも――

 もう、無理だった。


「君、前から……」


 言葉が、途中で詰まる。

 うまく選ばないといけない。

 踏み込みすぎれば壊れる。

 踏み込まなければ、手遅れになる。


「……身体、悪いよね」


 それだけだった。

 病名も、理由も、未来も。

 何一つ、言わなかった。


 ただ、“分かってしまった”という事実だけを、彼女の前に置いた。


 一瞬、風の音だけが残った。


 リィナは、すぐには答えなかった。

 驚いた顔もしない。

 否定もしない。


 ただ、ほんのわずか、視線が揺れた。


「……どうしてそう思うの?」


 声は、穏やかだった。

 問い返す形を取っているけれど、

 それは防御じゃない。


 確認だ。


「立ち上がるの、遅くなった

 息を整える時間も、増えた

 触れた時……」


 そこまで言って、

 僕は言葉を切った。


 “触れた時に、何かが弾けた”

 その一文を口にするのが、

 どうしても怖かった。


「……前から、ずっとだ」


 嘘はつかなかった。

 でも、全部も言わなかった。


 リィナは、少しだけ目を伏せた。

 夕方の光が、白い睫毛に影を落とす。


「……よく、私のこと見てるんだね」


 笑った。

 でも、その笑顔は、

 今までで一番、弱かった。


「いつも言ってるだろう?君に見とれてたって」

「ふふっ、そうだね。……隠してたつもりだったんだけどなぁ」


 否定しない。

 否定しなかった。


 その事実が胸の奥に、静かに刺さる。


「……ごめん」


 何に対しての謝罪か、

 自分でも分からなかった。


 踏み込んでしまったことか。

 気づいてしまったことか。

 それとも――

 気づかせてしまったことか。


「謝らないで」


 リィナは、首を振った。


「エルが悪いわけじゃない

 私が、黙ってただけ」


 その言葉は、

 責めるでも、縋るでもない。


 ただの事実だった。


「言わなかったのは……」


 彼女は一度、言葉を探すように間を置いた。


「言わなくても、一緒にいられたから

 それで、十分だった」


 胸が、締め付けられる。


 それは、


 “君がいなくても私は生きられる”


 という宣言と、限りなく近かった。


「……それでも」


 僕は、一歩だけ近づいた。

 触れない距離。

 でも、逃げられない距離。


「それでも、僕は……分かってしまった以上……」


 声が、震える。


「知らなかったふりは、できない」


 それは、救いの言葉でも、優しさでもない。

 ただの、選択だった。


 リィナは、しばらく僕を見つめていた。

 怒りも、悲しみも、どちらも見えない。

 そして、ゆっくりと息を吐く。


「……そっか」


 たった一言。

 それだけで、春の空気が、少しだけ冷えた。


「エルって、優しいね」


 その言葉が、

 どうしてこんなにも残酷に聞こえるのか。


「でも――」


 彼女は、視線を逸らした。


「優しい人ほど、踏み込まなくていい場所まで来ちゃう」


 それは、拒絶じゃない。

 警告だ。


「それでも、来る?」


 問いかけだった。

 役割を与えない、問い。


 助けて、とは言わない。

 縋らない。

 期待しない。


 ただ、

 “それでも選ぶ?”と、聞いている。


 僕は答えられなかった。


 答えられないまま、

 もう一歩、戻れなくなった。


 ♢


 夕方の光が、ゆっくりと力を失っていく。

 昼間の温度を残したままの空気が、少しずつ冷えていくのが分かった。


 まだ空は明るい。

 それなのに、遠くには星が滲むように浮かび始めている。

 昼と夜の境目。

 どちらにも属しきれない時間。


 畑の端、いつもの帰り道。

 そこで、僕は足を止めてしまった。


 春も終わろうとしているというのに、

 風は思ったより冷たくて、

 リィナの髪を揺らしながら、僕たちの頬をなぞっていく。


 リィナはくすぐったそうに目を細め、

 乱れた髪を耳にかけて、こちらを見た。


 何も言わない。

 責めることも、促すこともなく。

 ただ、静かに、僕の言葉を待っている。


 ――その沈黙が、痛かった。


 僕は、きっと間違えた。

 いや、正しく言うなら、

 間違えると分かっていて、踏み込んだ。


 彼女の「大丈夫」は、

 最初からずっと、警告だったのだ。


 これ以上、近づかないで。

 触れないで。

 知ろうとしないで。


 そう言われ続けていたのに、

 僕はそれを“優しさ”だと、

 “遠慮”だと、

 勝手に解釈していた。


 言ってしまった。

 聞いてしまった。

 彼女に、言葉にさせてしまった。


 その瞬間から、

 引き返せない場所に足を踏み入れてしまったことを、

 僕ははっきりと理解していた。


 リィナは言った。

「それでも、来る?」と。


 今なら、まだ戻れる。

 過去の僕が、必死に叫んでいる。


 ――やめろ。

 ――また同じことを繰り返す気か。

 ――誰かに“生きる理由”を求めるな。


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 頭痛と動悸が同時に押し寄せ、

 吐き気が喉元までせり上がってくる。


 それでも、足は動かなかった。


 僕は弱い人間だ。

 昔からずっと、そうだった。

 誰かに必要とされていなければ、

 誰かの隣にいなければ、

 自分がここにいる理由を見失ってしまう。


 この世界に来ても、それは変わらなかった。


 リィナに出会って、彼女と同じ時間を過ごして、

 畑で言葉を交わして、何も求められずに隣にいられることが、どれほど救いだったか。


 恋なのか、愛なのか。

 そんなものは分からない。

 ただ、彼女が隣にいる時間だけ、

 僕は“エルディオ”ではなく、“エル”でいられた。


 それを、失いたくなかった。


 ――それでも、いいじゃないか。


 救えなくても。

 間違っていても。

 結果的に、何も変えられなかったとしても。


 ここで立ち止まって、

 何もしないまま彼女を見送るよりは、

 ずっと、ましだ。


 彼女が受け入れてくれるかどうかなんて、分からない。

 拒絶されるかもしれない。

 それでも。


 僕は、もう一度、

 誰かに縋ろうとしている。


 その自覚が、胸の奥で静かに、確かな重さを持っていた。


 リィナは、何も言わない。

 ただ微笑んで、僕を見ている。

 その微笑みが、優しさなのか、諦めなのか、

 今の僕には判断がつかなかった。


 それでも、僕は一歩踏み出す。


 彼女なら、きっと受け入れてくれる。

 ――そう信じなければ、前に進めなかった。


 いつも通り、僕の名前を呼んで、隣で笑ってくれる。


 ――そんな、都合のいい期待を抱いたまま。


 春の終わりの冷たい風が、

 背中を押すように吹いた。




ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。


春が終わるまで、はもう少しだけ続きます。


もしここまでの物語で、

何か一つでも心に残るものがあれば、

ブックマークや評価という形で

そっと教えてもらえると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ