89.婚約-1
馬車の揺れは一定で、揺れるたびに窓の外の景色が一段ずつ、静かなものへ変わっていった。
王都の喧噪は背中に遠ざかり、石畳の音が規律のある響きに収まり、屋敷の並ぶ通りに入るころには、会話というもの自体が贅沢に思えるほど、空気が薄く整っていた。
エルディオは、膝の上で指を組み直した。
組み直して、ほどいて、また組む。
自分でも気づくほど、手の動きだけが落ち着きなく動いている。剣を握るときは、こんな風に指が迷うことはない。
迷いは、刃の上では命取りになるからだ。
だが、今日の相手は刃では切れない。
婚約。
その言葉が、祝福として胸を温める前に、契約として胃の底を冷やす。
喜びがないわけではない。
シャルロットが隣にいる。
彼女が自分の名前を呼び、視線をくれる。
それだけで呼吸が戻る瞬間がある。
けれど、同じくらいの確かさで、別のものが喉に張りついている。
――家。
家に入ると、言葉が死ぬ。
そのことを、エルはもう何度も知っていた。
自分の過去を思い出すというより、自分の身体が先に覚えている。
背筋が伸びる。
呼吸が浅くなる。
心臓が冷たくなる。
口の中の唾液が乾く。
挨拶の言葉は組み立てられるのに、そこに自分が乗らない。
馬車の向かいに座るシャルロットは、窓の外を見ていた。
薄い微笑みを浮かべているわけでもない。
硬く構えているわけでもない。
彼女はいつも、必要以上に感情を誇示しない。
だからといって冷たいわけでもない。
言葉の代わりに、呼吸と目線と距離で、隣にいることを示す。
ふと、シャルロットが視線を戻し、エルの手元を見た。
次に、何も言わず、軽く自分の指先を伸ばす。
触れるか触れないかの距離で、彼の手の上に影を落とすだけ。
その“触れない”という選択が、ひどく優しかった。
「……緊張してる?」
小さな声。馬車の揺れに紛れるような音量。
エルは、首を振ろうとして、やめた。
否定は嘘になる。
肯定は格好がつかない。
いつもなら、そのどちらも簡単に切り捨てられるのに、今日は切り捨てられない。
「……していない、と言ったら嘘になる」
ようやく出た声は低く、乾いていた。
シャルロットは頷く。
「そう。じゃあ、嘘じゃない方でいい」
その言い方が、妙に胸に刺さった。“嘘じゃない方”。
彼女は、管理しない。
矯正しない。
正しい答えを押し付けない。
エルが息を吐ける場所を作るだけだ。
「ねえ、エル」
「……何だ」
「今日、私の家で話がどう進んでも、あなたはあなたのままでいて」
それは命令でも励ましでもない。
確認に近い。
彼女自身に言い聞かせているようでもあった。
エルは答えられず、視線を落とした。
馬車の床板の小さな傷が目に入る。
戦場なら気づかない傷。
平和だから見える傷。
「……難しい」
「うん。知ってる」
知っている、と言われるだけで、胸がほんの少し緩む。
知っているのに、責めない。
それは救いだ。
救いがあるほど、失う未来が怖い。
馬車は門をくぐった。
ヴァルシュタイン家の紋章が掲げられ、衛兵の敬礼が無音に近い速度で行われる。
敷地に入った瞬間、空気の匂いが変わった。
土と石と、整えられた草木の匂い。
そこに混じるわずかな香料。
貴族の邸宅が持つ、あの均衡した匂い。
玄関前で馬車が止まり、扉が開く。
使用人が深く頭を下げる。
動きは滑らかで、必要以上に音がしない。
規律が空気に染み込んでいる。
エルの背筋が、勝手に伸びた。
この感覚が嫌いだ。
落ち着くような気がすることが、もっと嫌いだ。
落ち着くということは、過去に適応していた証拠だ。
支配に馴染んでいた証拠だ。
シャルロットは先に降りた。
動きに迷いがない。
家の娘として、屋敷の温度を知っている。
けれど彼女は、その温度に飲まれていない。
温度を使いこなしている。
エルが降りると、使用人が視線を下げたまま案内を告げる。
「客間へお通し申し上げます。皆様、すでにお揃いでございます」
――すでに。
その言葉が、耳の奥で硬く鳴った。
胸の奥が冷える。
何が待っているかは分かっているはずなのに、現実が近づくほど、身体が拒否する。
廊下を進む。
絨毯の踏み込みは柔らかく、足音が吸われる。
壁の装飾は過剰ではなく、むしろ“整い過ぎている”。
ここでは、感情さえも余計なものとして削ぎ落とされる。
客室の扉が開く。
最初に見えたのは、座っている二人の影だった。
アイン・アルヴェイン。
ミレイユ・アルヴェイン。
――なぜ。
喉まで出た言葉は、そこで止まった。
止まるのは予想していた。
予想していたのに、止まった瞬間、心臓が嫌な音を立てる。
血が冷える。
エルは、儀礼としての挨拶を口にしようとした。
けれど声が出ない。
出そうとした気配だけが喉を擦る。
シャルロットが一歩前に出た。
彼女は、ごく自然に、家の娘として頭を下げる。
「お待たせいたしました」
それだけ。
余計な情を乗せない。
けれど冷たいわけでもない。
その絶妙な温度が、客室の空気と戦わずに、しかし負けてもいない。
エルは隣に立っている。
言葉がない。
そのことが、痛いほど浮き彫りになる。
父と母の視線がこちらに向いているかどうかさえ分からない。
見られている気配だけがある。
視線は刃よりも厄介だ。
刃は避けられる。
視線は避けると負ける。
――負けたくない。
だが、勝てない。
ミレイユの手が膝の上で重ねられているのが見えた。
白い指。
爪は整えられ、飾りは少ない。
母はいつもそうだった。
過剰を嫌い、必要を選び、余分を切り捨てる。あの選び方が、自分を切り捨てた選び方でもあったのだと、最近ようやく分かるようになった。
アインは、こちらを見ているのか、見ていないのか分からない顔で座っていた。
彼の背筋は自然に伸び、両手は膝に置かれている。
戦場の将が、客間に座っている。
そのこと自体が、客間を戦場に変える。
沈黙。
短いのに、長い沈黙。
そこへ、扉が再び開いた。
「待たせたかな」
低く朗らかな声が入るだけで、空気が少しだけ動いた。
アルベルト・ヴァルシュタイン。
その隣に、エレオノーラ・ヴァルシュタインが続く。
彼女の歩き方は静かで、しかし確かな主の足取りだった。
視線ひとつで場を整えられる人間の目をしている。
アルベルトが笑う。
「アイン、久しいな」
アインは立ち上がらない。
立ち上がらないのは無礼ではない。
互いに同格の、互いに“場を乱さない”男同士の挨拶だ。
「あぁ、そうだな、アルベルト」
短い。温度のない、しかし敵意のない返答。
エレオノーラがミレイユに視線を向け、口元だけで微笑む。
「ミレイユも久しぶりね」
ミレイユの目が、わずかに揺れた。ほんの一瞬だけ。すぐに整う。
「魔術学院以来ね、エレオノーラ」
学院。
若い頃の時間。
その言葉がこの場に出てくるだけで、遠い日常がひとつ、刺さるように蘇る。
エルは、その会話の端で、父と母が“人間”だった時間を想像する。
想像するだけで腹が痛い。
自分の知らないところで、父と母は笑っていたのかもしれない。
自分の知らないところで、母は友と呼べる女と冗談を言い合っていたのかもしれない。
――その時間に、自分はいない。
アルベルトが客間の中央を見渡し、形式を整えるように告げる。
「では、座ろう。今日は祝いの場――と言いたいところだが、我々にとってはまず“取り決め”の場だ」
祝いではない、と最初に言うのがヴァルシュタイン流なのだろう。
感情を外に置き、秩序を先に立てる。
それは冷たい。
けれど同時に誠実でもある。
曖昧な祝福で誤魔化さない。
全員が席に着く。
エルとシャルロットは並んで座る。
エルの背筋が勝手に伸びる。
伸びるほど、胸が息苦しい。
シャルロットは、自然な姿勢だ。
自然なまま、背筋が通っている。
アルベルトが文書を取り出す。
厚みのある紙。
封蝋。
署名欄。
そこに並ぶ言葉の列は、人生を“条項”にするための言葉だ。
「まず、婚約の正式な発表について」
アルベルトは淡々と述べる。
発表の場、時期、参列者。
王都社交界への通知。
神殿への届け。
形式の整え方。
すべてが整理されている。
エルは頷く。
頷くことはできる。
言葉は出ない。
エレオノーラがシャルロットを見た。
「シャルロット、異論は?」
「ございません」
短い。
だが目は逃げない。
言葉を短くすることで、自分の核を守っている。
「エルディオ卿は?」
アルベルトがエルに向ける。“卿”。
その呼び方が、微かに引っかかった。
卿は敬称だが、同時に距離を作る。
エルは喉を動かし、言葉を出そうとした。
声は、思ったよりも出た。
「……異論はない」
たったそれだけの言葉が、喉を擦り、胸を削る。
出せたことに安堵するのが悔しい。
次に指輪の話が出る。
婚約指輪はどの工房に依頼するか、形式はどうするか。
宝石の種類は何か。
ヴァルシュタイン家としての体裁。
アルヴェイン家としての贈与。
エルはここでも頷く。
シャルロットは「家の意向に従います」と答える。
しかし彼女の声には、わずかな間がある。
その間が、“従う”が“屈する”ではないことを示す。
従うのは場のためで、彼女の意思は別の場所にある。
住まいの話になる。
婚約後、結婚までの期間。
エルは前線任務が続く。
シャルロットは王都の社交界を抜けられない部分もある。どこを拠点にするのか。
エレオノーラが言う。
「娘を閉じ込めるつもりはないわ。ヴァルシュタインの名のために娘を囲うなら、それはこの家が娘に負けるということ。私はそれを選ばない」
負ける、という言葉を平然と出す女だ。
強い。
シャルロットの“管理しない強さ”は、母の背中に根があるのかもしれないとエルは思う。
アインは淡々としている。
反応は薄い。
だが、彼の指先がほんのわずかに動いた。
エレオノーラの言葉が刺さった証拠だ。
刺さっても、顔には出さない。
「前線に同行させるのは危険だろう」
アインが言った。
声は低く、事務的だ。
そこに父の心は見えない。
シャルロットは答えない。
答えないまま、エルの方を見た。
ほんの一瞬。
問いではない。
確認だ。
エルは、その視線に救われる。
彼女は“決めろ”と言わない。
彼女は“私が正しい”と言わない。
彼女はただ、隣にいる。
アルベルトが整理する。
「危険は承知だ。だが、これからの時代は護衛の形も変わる。軍の体系も変わる。――今の王国は、直轄の動きを強めている」
その言葉が、場の温度を一段落とした。
直轄。
王国直轄部隊。
王の手足として動く、家の指揮系統から切り離された部隊。
名誉であり、同時に拘束だ。
自由が増えるように見えて、逃げ道が消える。
エレオノーラが頷く。
「陛下がそう望むなら、貴族の意向だけでは止められないわ」
ミレイユが、そこで初めて少しだけ声を落とした。
「……エルディオの編入の件、正式にはまだ……」
アルベルトが言葉を継ぐ。
「まだ“示唆”の段階だ。しかし、戦況と功績と――何より、本人の力を考えれば、いずれ正式になる」
本人の力。
その言葉が、エルの胸を冷やす。
力はいつも、彼から何かを奪っていく。
力を得るたび、何かが壊れる。
守るために力がいるのに、力があるほど守れない未来が近づく。
アインは淡々と告げた。
「直轄部隊に入るなら、家の名で動く時間は減る。アルヴェインの伯爵家の“息子”としてではなく、王国の剣として動く時間が増える」
その言い方は、事実の説明だ。
だが、エルの内側では別の意味に変換される。
――息子ではなくなる。
息子であることは、鎖だった。
鎖が外れるなら、自由だ。
自由のはずだ。
なのに胸が痛い。
鎖が外れると同時に、鎖の存在が自分を形作っていたことを思い知らされるからだ。
アルベルトがさらに続ける。
「直轄の剣に対して、王国は“個”に爵位相当の権限を与える場合がある。伯爵家の息子であることが必要ではない。むしろ、独立した権限が必要になる」
それは政治の話として語られる。
だが、エルにとっては自分の人生の話だ。
伯爵相当。
家を背負うのではなく、自分が地位になる。
自分単独で、伯爵相当。
聞こえは良い。
出世だ。
栄誉だ。
だがそれは同時に、逃げ場のない責任だ。
家に縛られない代わりに、王に縛られる。
家を失う代わりに、国家に所属する。
シャルロットは、その話を聞いても表情を変えない。
変えないが、目だけが少し鋭くなった。
彼女は理解している。
これは祝福ではない。
エルを“個”にすることで、彼から家を剥がし、王国の手の中に置く話だ。
エレオノーラが穏やかに言った。
「それならなおさら、婚約の意味は変わるわね。家と家ではなく、個と個――いえ、個と“王国”の接点になる」
アルベルトが頷く。
「そうだ。シャルはヴァルシュタインの娘であると同時に、シャルロットという個人だ。エルディオ卿も同じだ。今後、彼は“伯爵家の息子”の枠から外れる」
外れる。
その言葉の響きが、胸に刺さる。
外れた先に自由があるのか、孤独があるのか、エルには分からない。
ただ、外れることが“決まっていく”感覚だけがある。
アインが言う。
「ならば、護衛の配置を王国直轄の体系に寄せる必要がある。ヴァルシュタイン家の護衛、アルヴェイン家の護衛、そういう枠では足りない」
淡々と。
どこまでも淡々と。
父の声は、常に制度の声だ。
人の声ではない。
エルは、それに苛立つほどの感情を持ち始めていることに驚いた。
かつてなら、苛立つことすらしなかった。
父は父で、制度は制度で、自分は自分で――切り離していた。
今は、切り離せない。
シャルロットが、そこで初めて自分の意思をほんの少しだけ言葉にした。
「私の護衛のことは、私が決めます」
客室の空気がわずかに動く。
反抗ではない。
宣言だ。
これ以上でも以下でもない。
管理される対象ではない、と示す。
エレオノーラが微笑んだ。
「ええ。あなたが決めなさい」
アルベルトは軽く頷く。
娘の意思を否定しない。
だが、政治の手綱は握ったままだ。
「ただし、王国直轄の話が進むなら、我々も王都の動きを無視できない。エルディオ卿――いや、エルディオ殿。今後、あなたの“肩書”は変わる可能性がある」
殿。
呼び方が変わる。
呼び方が変わるだけで、世界が変わる。
呼び方が変わるほど、本人は削られる。
エルは頷いた。
頷くことはできる。
言葉は少ない。
「……承知している」
承知している、と言いながら、承知していない。
承知できるほど整理されていない。
ただ、受け取るしかない現実として、飲み込む。
話は誓約文書へ進む。
署名と封蝋。
婚約を、形にする手順だ。
手順があるほど安心する。
手順があるほど、逃げ道が消える。
ペンが用意される。
インクの匂い。
紙の乾いた手触り。
署名欄の空白が、ひどく大きく見えた。
シャルロットが先に署名する。
迷いがない。
彼女は“家の娘”として署名するのではなく、“自分の選択”として署名している。
その違いが、筆圧に出る。
重すぎず、軽すぎず、しかし芯がある。
次にエルの番が来る。
ペンを握る。
指が迷う。
戦場で迷わない指が、紙の上で迷う。
自分の名前を書くことが、こんなに難しいとは知らなかった。
名前はいつも、命令に使うものだった。署名はいつも、手続きを進めるためのものだった。
今日は違う。
名前を書くことで、未来が確定する。
エルは、一瞬だけペン先を止めた。
その止まり方は震えではない。
拒絶でもない。
むしろ、確認だ。ここで書けば戻れない。
その戻れなさを、自分の身体に刻むための静止。
シャルロットの気配が隣にある。
彼女は何も言わない。
何も言わないことで、選択を奪わない。
管理しない。
矯正しない。
ただ、隣にいる。
エルは署名した。
自分の名。
エルディオ。
文字の形が紙に残る。
残った瞬間、胸の奥が軽くなる……わけではなかった。
むしろ重くなる。
重くなるのに、どこか救われる。
逃げないと決めたことで、逃げたい気持ちがやっと形になる。
封蝋が押され、文書が完成する。
アルベルトが形式的に言う。
「これで、家同士の取り決めは整った」
整った。
それは祝福の言葉ではない。
締結。
完了。
決定。
そういう種類の言葉だ。
客室の空気がわずかに緩む。
緩むというより、次の段階へ移るための間ができる。
エレオノーラがエルを見た。
「……エルディオ殿」
声は柔らかい。だがその柔らかさは、鋭さを隠すための布ではない。元から柔らかく、元から鋭い。
「あなた、随分と顔が変わったわね」
褒めでも責めでもない。
事実の観測。
エルは答えられなかった。
答えようとしたが、喉が詰まる。
自分でも分からない。
変わったのか、壊れたのか、戻ったのか。
変わった理由を説明するには、あまりにも多くの血が必要だ。
シャルロットが、ほんの少しだけ息を吸う音がした。
怒りではない。
守りでもない。
ただ、場に漂う刃を見逃さない呼吸。
アルベルトが場を整えるように続けた。
「王国直轄の話は、正式な通達があれば改めて“二家”として対応する。だが、エルディオ殿が“個”として地位相当を得るなら、ヴァルシュタインとしても姿勢を示す必要がある」
姿勢。
政治の言葉。
「娘は、誰かの付属物ではない」
エレオノーラが淡々と言う。
「だから私は、娘が選んだ相手が“家”から切り離されるなら、その切り離された相手を“個”として見る」
それはシャルロットを守る言葉であり、同時にエルを試す言葉でもあった。
個として見る。つまり、個として責任を問う。
エルは、頷いた。
「……その通りだ」
その通りだ、と言える。
言えるのに、胸が苦しい。
責任を持つ。
責任を持つことは、エルにとっては救いではなく罰に近い。
罰のように責任を背負ってきたからだ。
会議は終わりに向かう。
形式的な挨拶、食事の段取り、次の会合の日程。
そうした話が淡々と積み上げられていく。
積み上げられるたびに、人生が削られ、箱に詰められていく。
そのときだった。
アインが、ゆっくりと口を開いた。
それまで、制度の声だった男が、ほんの少しだけ人の声を混ぜたように聞こえた。
錯覚かもしれない。
錯覚だとしても、エルの耳はそれを逃さなかった。
「エルディオ」
名前を呼ばれる。
父が息子の名を呼ぶ。
たったそれだけのことが、胸を痛めた。
呼ばれた瞬間、身体が条件反射で硬くなる。
幼い頃から染み込んだ反応が、今も残っている。
「……ゆっくり話がしたい」
ゆっくり。
そんな言葉を、父の口から聞く日が来るとは思わなかった。
父の時間はいつも短かった。父の言葉はいつも結論だった。
ゆっくり話す、という概念は父の世界に存在しないはずだった。
そして、アインは続けた。
「シャルロット嬢を連れて――『二人で』帰ってきなさい」
客室の空気が、凍ったわけではない。
むしろ、奇妙に揺れた。
揺れが生まれたのは、この言葉が一つの意味ではないからだ。
“連れて帰れ”という命令にも聞こえる。
“彼女を同席者として認める”という譲歩にも聞こえる。
“お前は一人で戻るな”という、遅すぎる保護にも聞こえる。
そのどれが本当なのか、エルには分からない。
分からないのに、胸が締め付けられる。
言葉が欲しかったのは自分なのに、今は言葉が怖い。
シャルロットは笑わなかった。
笑えばこの場は丸く収まる。
笑顔で受ければ、父の言葉は“祝福”に変換される。
だが彼女は、それをしない。
ほんの一拍、真面目な目でアインを見る。
それは挑発ではない。
牽制でもない。
もっと静かなものだ。
――私は道具ではない。
無言でそう告げる目だった。
エレオノーラが、その目を見逃さず、口元だけで小さく息を吐く。
アルベルトは政治家の顔で頷いた。
「承知した。日取りは追って合わせよう」
場は整った。
整ったからこそ、整わなかった部分が心に残る。
ミレイユが目を伏せた。
伏せた瞬間だけ、母の後悔が今の空気に溶けた。
彼女は何も言わない。
言えない。
言わない。
どれも混ざった沈黙。
エルは、返事が遅れた。
返事をすれば、言葉が鎖になる気がした。
返事をしなければ、拒絶になる気がした。
拒絶したいわけではない。
鎖になりたくないだけだ。
だから、エルは短く言う。
「……承知した」
承知した。
それが父への同意なのか、場への同意なのか、自分でも分からない。
分からないまま、言葉は出てしまった。
出てしまった言葉は戻らない。
会談は終わった。
客室を出る廊下は、入ってきたときよりも静かだった。
静けさが増したわけではない。
エルの耳が、余計な音を受け付けなくなっただけだ。
扉が閉まる。
世界が少しだけ縮む。
シャルロットが隣を歩く。
歩幅が合っている。
彼女はエルに合わせていない。エルが彼女に合わせている。
そのことが、不思議なくらい自然だ。
廊下を曲がったところで、シャルロットが足を止めた。
立ち止まるというより、歩みの終点をそこに置いたという感じだった。
「……帰るの?」
問い詰めない声。
責めない声。
確認するだけの声。
エルは答えられない。
答えは、まだ形になっていない。
帰るべきなのか、帰ってはいけないのか。
帰れば父の鎖に戻るのか、帰れば父の人間の部分に触れられるのか。
王国直轄。
伯爵相当。
個になる。
その未来が、すでに自分の足元で形を作り始めている。
家に戻る前に、家から外れる。
外れる前に、家が呼ぶ。
歯車が噛み合わないまま回り始める。
エルは、喉の奥で言葉を探した。
「……分からない」
それが正直だった。正直だと言えたことが、少しだけ救いだった。
シャルロットは頷く。
「うん。じゃあ、分からないままでいい」
分からないままでいい、と言われる。
普通なら無責任だ。
けれど、エルにとっては責任より重い救いだった。
分からないままでいい。
つまり、今すぐ決めなくていい。
つまり、ここで壊れなくていい。
エルは、息を吐いた。
息を吐けたことが悔しい。
吐けるようになったことが怖い。
息を吐けるようになったのは、シャルロットが隣にいるからだ。
隣にいるから息ができる。
息ができるほど、失ったときに死ぬ。
――失う未来が近い。
そういう予感だけが、ずっと胸の奥で冷たく光っている。
シャルロットは、エルの顔を見た。
そこに何かを求めない。ただ、確認する。
「ねえ、エル。今日、あなたが一度でも自分の言葉で返事をした。……それだけで、私は嬉しい」
嬉しい。
祝福じゃない場で、祝福じゃない言葉。
軽いようで重い。
重いのに、押し付けない。
エルは、目を伏せた。
「……俺は、まだ……」
言葉が続かない。
続けると、自分の弱さを言葉にしてしまう気がした。
弱さを言葉にした瞬間、また管理される気がした。
父の声で、制度の声で、矯正される気がした。
けれどシャルロットは、矯正しない。
だから、エルは言う。
「……ありがとう」
それだけ。
ありがとう。
たったそれだけの言葉が、胸の奥のどこかを痛くした。
言えたことが痛い。
言えなかった時間が痛い。
言えるようになったのに、未来で奪われる気がして痛い。
廊下の向こうで、使用人が静かに頭を下げた。
屋敷は整っている。
整っているから、壊れるときは派手に壊れる。
エルは思う。
婚約は、祝福ではない。
婚約は、契約だ。
契約は、人を守る。
契約は、人を縛る。
そして今日、父の口から落ちた言葉は、招待状より重かった。
“二人で”。
その二文字が、鎖にも救いにも聞こえた。
エルは、隣を歩くシャルロットの気配だけを確かめながら、歩く。
まだ壊れていない世界の中で、確実に動き始めた歯車の音を、胸の奥で聞いていた。
89話婚約-1は、「婚約=祝福」ではなく「婚約=契約」として描きました。
家と家の取り決めが淡々と進むほど、エルの中で“言葉が死ぬ感覚”だけが濃くなる――その対比がこの回の核です。
そしてもう一つ。
王国直轄、伯爵相当、“個”になる未来は栄誉であり同時に拘束でもある。
エルが自由に近づくほど、別の鎖が用意されていく不穏さを、静かに置きました。
次回、父の「二人で」が何を意味するのか。
答え合わせではなく、さらに苦しくなる方向で進みます。




