表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

89/92

89.婚約-1

 

 馬車の揺れは一定で、揺れるたびに窓の外の景色が一段ずつ、静かなものへ変わっていった。

 王都の喧噪は背中に遠ざかり、石畳の音が規律のある響きに収まり、屋敷の並ぶ通りに入るころには、会話というもの自体が贅沢に思えるほど、空気が薄く整っていた。


 エルディオは、膝の上で指を組み直した。

 組み直して、ほどいて、また組む。

 自分でも気づくほど、手の動きだけが落ち着きなく動いている。剣を握るときは、こんな風に指が迷うことはない。

 迷いは、刃の上では命取りになるからだ。


 だが、今日の相手は刃では切れない。


 婚約。


 その言葉が、祝福として胸を温める前に、契約として胃の底を冷やす。

 喜びがないわけではない。

 シャルロットが隣にいる。

 彼女が自分の名前を呼び、視線をくれる。

 それだけで呼吸が戻る瞬間がある。

 けれど、同じくらいの確かさで、別のものが喉に張りついている。


 ――家。


 家に入ると、言葉が死ぬ。


 そのことを、エルはもう何度も知っていた。

 自分の過去を思い出すというより、自分の身体が先に覚えている。


 背筋が伸びる。

 呼吸が浅くなる。

 心臓が冷たくなる。

 口の中の唾液が乾く。


 挨拶の言葉は組み立てられるのに、そこに自分が乗らない。


 馬車の向かいに座るシャルロットは、窓の外を見ていた。

 薄い微笑みを浮かべているわけでもない。

 硬く構えているわけでもない。

 彼女はいつも、必要以上に感情を誇示しない。

 だからといって冷たいわけでもない。

 言葉の代わりに、呼吸と目線と距離で、隣にいることを示す。


 ふと、シャルロットが視線を戻し、エルの手元を見た。

 次に、何も言わず、軽く自分の指先を伸ばす。

 触れるか触れないかの距離で、彼の手の上に影を落とすだけ。


 その“触れない”という選択が、ひどく優しかった。


「……緊張してる?」


 小さな声。馬車の揺れに紛れるような音量。


 エルは、首を振ろうとして、やめた。


 否定は嘘になる。

 肯定は格好がつかない。


 いつもなら、そのどちらも簡単に切り捨てられるのに、今日は切り捨てられない。


「……していない、と言ったら嘘になる」


 ようやく出た声は低く、乾いていた。


 シャルロットは頷く。


「そう。じゃあ、嘘じゃない方でいい」


 その言い方が、妙に胸に刺さった。“嘘じゃない方”。


 彼女は、管理しない。

 矯正しない。

 正しい答えを押し付けない。


 エルが息を吐ける場所を作るだけだ。


「ねえ、エル」


「……何だ」


「今日、私の家で話がどう進んでも、あなたはあなたのままでいて」


 それは命令でも励ましでもない。

 確認に近い。

 彼女自身に言い聞かせているようでもあった。


 エルは答えられず、視線を落とした。

 馬車の床板の小さな傷が目に入る。

 戦場なら気づかない傷。

 平和だから見える傷。


「……難しい」


「うん。知ってる」


 知っている、と言われるだけで、胸がほんの少し緩む。

 知っているのに、責めない。

 それは救いだ。

 救いがあるほど、失う未来が怖い。


 馬車は門をくぐった。

 ヴァルシュタイン家の紋章が掲げられ、衛兵の敬礼が無音に近い速度で行われる。

 敷地に入った瞬間、空気の匂いが変わった。

 土と石と、整えられた草木の匂い。

 そこに混じるわずかな香料。

 貴族の邸宅が持つ、あの均衡した匂い。


 玄関前で馬車が止まり、扉が開く。

 使用人が深く頭を下げる。

 動きは滑らかで、必要以上に音がしない。

 規律が空気に染み込んでいる。


 エルの背筋が、勝手に伸びた。


 この感覚が嫌いだ。

 落ち着くような気がすることが、もっと嫌いだ。

 落ち着くということは、過去に適応していた証拠だ。

 支配に馴染んでいた証拠だ。


 シャルロットは先に降りた。

 動きに迷いがない。

 家の娘として、屋敷の温度を知っている。

 けれど彼女は、その温度に飲まれていない。

 温度を使いこなしている。


 エルが降りると、使用人が視線を下げたまま案内を告げる。


「客間へお通し申し上げます。皆様、すでにお揃いでございます」


 ――すでに。


 その言葉が、耳の奥で硬く鳴った。

 胸の奥が冷える。

 何が待っているかは分かっているはずなのに、現実が近づくほど、身体が拒否する。


 廊下を進む。

 絨毯の踏み込みは柔らかく、足音が吸われる。

 壁の装飾は過剰ではなく、むしろ“整い過ぎている”。

 ここでは、感情さえも余計なものとして削ぎ落とされる。


 客室の扉が開く。


 最初に見えたのは、座っている二人の影だった。


 アイン・アルヴェイン。


 ミレイユ・アルヴェイン。


 ――なぜ。


 喉まで出た言葉は、そこで止まった。

 止まるのは予想していた。

 予想していたのに、止まった瞬間、心臓が嫌な音を立てる。

 血が冷える。


 エルは、儀礼としての挨拶を口にしようとした。

 けれど声が出ない。

 出そうとした気配だけが喉を擦る。


 シャルロットが一歩前に出た。

 彼女は、ごく自然に、家の娘として頭を下げる。


「お待たせいたしました」


 それだけ。

 余計な情を乗せない。

 けれど冷たいわけでもない。

 その絶妙な温度が、客室の空気と戦わずに、しかし負けてもいない。


 エルは隣に立っている。

 言葉がない。

 そのことが、痛いほど浮き彫りになる。

 父と母の視線がこちらに向いているかどうかさえ分からない。

 見られている気配だけがある。


 視線は刃よりも厄介だ。

 刃は避けられる。

 視線は避けると負ける。


 ――負けたくない。


 だが、勝てない。


 ミレイユの手が膝の上で重ねられているのが見えた。

 白い指。

 爪は整えられ、飾りは少ない。

 母はいつもそうだった。

 過剰を嫌い、必要を選び、余分を切り捨てる。あの選び方が、自分を切り捨てた選び方でもあったのだと、最近ようやく分かるようになった。


 アインは、こちらを見ているのか、見ていないのか分からない顔で座っていた。

 彼の背筋は自然に伸び、両手は膝に置かれている。

 戦場の将が、客間に座っている。

 そのこと自体が、客間を戦場に変える。


 沈黙。


 短いのに、長い沈黙。


 そこへ、扉が再び開いた。


「待たせたかな」


 低く朗らかな声が入るだけで、空気が少しだけ動いた。


 アルベルト・ヴァルシュタイン。


 その隣に、エレオノーラ・ヴァルシュタインが続く。

 彼女の歩き方は静かで、しかし確かな主の足取りだった。

 視線ひとつで場を整えられる人間の目をしている。


 アルベルトが笑う。


「アイン、久しいな」


 アインは立ち上がらない。

 立ち上がらないのは無礼ではない。

 互いに同格の、互いに“場を乱さない”男同士の挨拶だ。


「あぁ、そうだな、アルベルト」


 短い。温度のない、しかし敵意のない返答。


 エレオノーラがミレイユに視線を向け、口元だけで微笑む。


「ミレイユも久しぶりね」


 ミレイユの目が、わずかに揺れた。ほんの一瞬だけ。すぐに整う。


「魔術学院以来ね、エレオノーラ」


 学院。


 若い頃の時間。

 その言葉がこの場に出てくるだけで、遠い日常がひとつ、刺さるように蘇る。

 エルは、その会話の端で、父と母が“人間”だった時間を想像する。

 想像するだけで腹が痛い。

 自分の知らないところで、父と母は笑っていたのかもしれない。

 自分の知らないところで、母は友と呼べる女と冗談を言い合っていたのかもしれない。


 ――その時間に、自分はいない。


 アルベルトが客間の中央を見渡し、形式を整えるように告げる。


「では、座ろう。今日は祝いの場――と言いたいところだが、我々にとってはまず“取り決め”の場だ」


 祝いではない、と最初に言うのがヴァルシュタイン流なのだろう。

 感情を外に置き、秩序を先に立てる。

 それは冷たい。

 けれど同時に誠実でもある。

 曖昧な祝福で誤魔化さない。


 全員が席に着く。

 エルとシャルロットは並んで座る。

 エルの背筋が勝手に伸びる。

 伸びるほど、胸が息苦しい。

 シャルロットは、自然な姿勢だ。

 自然なまま、背筋が通っている。


 アルベルトが文書を取り出す。


 厚みのある紙。

 封蝋。

 署名欄。


 そこに並ぶ言葉の列は、人生を“条項”にするための言葉だ。


「まず、婚約の正式な発表について」


 アルベルトは淡々と述べる。


 発表の場、時期、参列者。

 王都社交界への通知。

 神殿への届け。

 形式の整え方。


 すべてが整理されている。


 エルは頷く。

 頷くことはできる。

 言葉は出ない。


 エレオノーラがシャルロットを見た。


「シャルロット、異論は?」


「ございません」


 短い。


 だが目は逃げない。

 言葉を短くすることで、自分の核を守っている。


「エルディオ卿は?」


 アルベルトがエルに向ける。“卿”。

 その呼び方が、微かに引っかかった。

 卿は敬称だが、同時に距離を作る。


 エルは喉を動かし、言葉を出そうとした。

 声は、思ったよりも出た。


「……異論はない」


 たったそれだけの言葉が、喉を擦り、胸を削る。

 出せたことに安堵するのが悔しい。


 次に指輪の話が出る。

 婚約指輪はどの工房に依頼するか、形式はどうするか。

 宝石の種類は何か。

 ヴァルシュタイン家としての体裁。

 アルヴェイン家としての贈与。


 エルはここでも頷く。

 シャルロットは「家の意向に従います」と答える。

 しかし彼女の声には、わずかな間がある。

 その間が、“従う”が“屈する”ではないことを示す。

 従うのは場のためで、彼女の意思は別の場所にある。


 住まいの話になる。

 婚約後、結婚までの期間。

 エルは前線任務が続く。

 シャルロットは王都の社交界を抜けられない部分もある。どこを拠点にするのか。


 エレオノーラが言う。


「娘を閉じ込めるつもりはないわ。ヴァルシュタインの名のために娘を囲うなら、それはこの家が娘に負けるということ。私はそれを選ばない」


 負ける、という言葉を平然と出す女だ。


 強い。


 シャルロットの“管理しない強さ”は、母の背中に根があるのかもしれないとエルは思う。


 アインは淡々としている。

 反応は薄い。

 だが、彼の指先がほんのわずかに動いた。

 エレオノーラの言葉が刺さった証拠だ。

 刺さっても、顔には出さない。


「前線に同行させるのは危険だろう」


 アインが言った。

 声は低く、事務的だ。

 そこに父の心は見えない。


 シャルロットは答えない。

 答えないまま、エルの方を見た。


 ほんの一瞬。

 問いではない。

 確認だ。


 エルは、その視線に救われる。

 彼女は“決めろ”と言わない。

 彼女は“私が正しい”と言わない。

 彼女はただ、隣にいる。


 アルベルトが整理する。


「危険は承知だ。だが、これからの時代は護衛の形も変わる。軍の体系も変わる。――今の王国は、直轄の動きを強めている」


 その言葉が、場の温度を一段落とした。


 直轄。


 王国直轄部隊。

 王の手足として動く、家の指揮系統から切り離された部隊。

 名誉であり、同時に拘束だ。

 自由が増えるように見えて、逃げ道が消える。


 エレオノーラが頷く。


「陛下がそう望むなら、貴族の意向だけでは止められないわ」


 ミレイユが、そこで初めて少しだけ声を落とした。


「……エルディオの編入の件、正式にはまだ……」


 アルベルトが言葉を継ぐ。


「まだ“示唆”の段階だ。しかし、戦況と功績と――何より、本人の力を考えれば、いずれ正式になる」


 本人の力。


 その言葉が、エルの胸を冷やす。

 力はいつも、彼から何かを奪っていく。

 力を得るたび、何かが壊れる。

 守るために力がいるのに、力があるほど守れない未来が近づく。


 アインは淡々と告げた。


「直轄部隊に入るなら、家の名で動く時間は減る。アルヴェインの伯爵家の“息子”としてではなく、王国の剣として動く時間が増える」


 その言い方は、事実の説明だ。

 だが、エルの内側では別の意味に変換される。


 ――息子ではなくなる。


 息子であることは、鎖だった。


 鎖が外れるなら、自由だ。

 自由のはずだ。


 なのに胸が痛い。

 鎖が外れると同時に、鎖の存在が自分を形作っていたことを思い知らされるからだ。


 アルベルトがさらに続ける。


「直轄の剣に対して、王国は“個”に爵位相当の権限を与える場合がある。伯爵家の息子であることが必要ではない。むしろ、独立した権限が必要になる」


 それは政治の話として語られる。

 だが、エルにとっては自分の人生の話だ。


 伯爵相当。


 家を背負うのではなく、自分が地位になる。


 自分単独で、伯爵相当。

 聞こえは良い。

 出世だ。

 栄誉だ。


 だがそれは同時に、逃げ場のない責任だ。

 家に縛られない代わりに、王に縛られる。

 家を失う代わりに、国家に所属する。


 シャルロットは、その話を聞いても表情を変えない。

 変えないが、目だけが少し鋭くなった。

 彼女は理解している。

 これは祝福ではない。

 エルを“個”にすることで、彼から家を剥がし、王国の手の中に置く話だ。


 エレオノーラが穏やかに言った。


「それならなおさら、婚約の意味は変わるわね。家と家ではなく、個と個――いえ、個と“王国”の接点になる」


 アルベルトが頷く。


「そうだ。シャルはヴァルシュタインの娘であると同時に、シャルロットという個人だ。エルディオ卿も同じだ。今後、彼は“伯爵家の息子”の枠から外れる」


 外れる。


 その言葉の響きが、胸に刺さる。

 外れた先に自由があるのか、孤独があるのか、エルには分からない。

 ただ、外れることが“決まっていく”感覚だけがある。


 アインが言う。


「ならば、護衛の配置を王国直轄の体系に寄せる必要がある。ヴァルシュタイン家の護衛、アルヴェイン家の護衛、そういう枠では足りない」


 淡々と。

 どこまでも淡々と。


 父の声は、常に制度の声だ。

 人の声ではない。


 エルは、それに苛立つほどの感情を持ち始めていることに驚いた。

 かつてなら、苛立つことすらしなかった。

 父は父で、制度は制度で、自分は自分で――切り離していた。


 今は、切り離せない。


 シャルロットが、そこで初めて自分の意思をほんの少しだけ言葉にした。


「私の護衛のことは、私が決めます」


 客室の空気がわずかに動く。

 反抗ではない。

 宣言だ。


 これ以上でも以下でもない。

 管理される対象ではない、と示す。


 エレオノーラが微笑んだ。


「ええ。あなたが決めなさい」


 アルベルトは軽く頷く。

 娘の意思を否定しない。

 だが、政治の手綱は握ったままだ。


「ただし、王国直轄の話が進むなら、我々も王都の動きを無視できない。エルディオ卿――いや、エルディオ殿。今後、あなたの“肩書”は変わる可能性がある」


 殿。


 呼び方が変わる。

 呼び方が変わるだけで、世界が変わる。

 呼び方が変わるほど、本人は削られる。


 エルは頷いた。

 頷くことはできる。

 言葉は少ない。


「……承知している」


 承知している、と言いながら、承知していない。

 承知できるほど整理されていない。

 ただ、受け取るしかない現実として、飲み込む。


 話は誓約文書へ進む。

 署名と封蝋。

 婚約を、形にする手順だ。

 手順があるほど安心する。

 手順があるほど、逃げ道が消える。


 ペンが用意される。

 インクの匂い。

 紙の乾いた手触り。


 署名欄の空白が、ひどく大きく見えた。


 シャルロットが先に署名する。


 迷いがない。


 彼女は“家の娘”として署名するのではなく、“自分の選択”として署名している。

 その違いが、筆圧に出る。

 重すぎず、軽すぎず、しかし芯がある。


 次にエルの番が来る。


 ペンを握る。

 指が迷う。


 戦場で迷わない指が、紙の上で迷う。

 自分の名前を書くことが、こんなに難しいとは知らなかった。

 名前はいつも、命令に使うものだった。署名はいつも、手続きを進めるためのものだった。


 今日は違う。


 名前を書くことで、未来が確定する。


 エルは、一瞬だけペン先を止めた。


 その止まり方は震えではない。

 拒絶でもない。

 むしろ、確認だ。ここで書けば戻れない。

 その戻れなさを、自分の身体に刻むための静止。


 シャルロットの気配が隣にある。

 彼女は何も言わない。

 何も言わないことで、選択を奪わない。


 管理しない。

 矯正しない。

 ただ、隣にいる。


 エルは署名した。


 自分の名。


 エルディオ。


 文字の形が紙に残る。

 残った瞬間、胸の奥が軽くなる……わけではなかった。

 むしろ重くなる。

 重くなるのに、どこか救われる。

 逃げないと決めたことで、逃げたい気持ちがやっと形になる。


 封蝋が押され、文書が完成する。


 アルベルトが形式的に言う。


「これで、家同士の取り決めは整った」


 整った。


 それは祝福の言葉ではない。


 締結。

 完了。

 決定。


 そういう種類の言葉だ。


 客室の空気がわずかに緩む。

 緩むというより、次の段階へ移るための間ができる。


 エレオノーラがエルを見た。


「……エルディオ殿」


 声は柔らかい。だがその柔らかさは、鋭さを隠すための布ではない。元から柔らかく、元から鋭い。


「あなた、随分と顔が変わったわね」


 褒めでも責めでもない。

 事実の観測。


 エルは答えられなかった。

 答えようとしたが、喉が詰まる。

 自分でも分からない。

 変わったのか、壊れたのか、戻ったのか。

 変わった理由を説明するには、あまりにも多くの血が必要だ。


 シャルロットが、ほんの少しだけ息を吸う音がした。


 怒りではない。

 守りでもない。


 ただ、場に漂う刃を見逃さない呼吸。


 アルベルトが場を整えるように続けた。


「王国直轄の話は、正式な通達があれば改めて“二家”として対応する。だが、エルディオ殿が“個”として地位相当を得るなら、ヴァルシュタインとしても姿勢を示す必要がある」


 姿勢。

 政治の言葉。


「娘は、誰かの付属物ではない」


 エレオノーラが淡々と言う。


「だから私は、娘が選んだ相手が“家”から切り離されるなら、その切り離された相手を“個”として見る」


 それはシャルロットを守る言葉であり、同時にエルを試す言葉でもあった。

 個として見る。つまり、個として責任を問う。


 エルは、頷いた。


「……その通りだ」


 その通りだ、と言える。

 言えるのに、胸が苦しい。

 責任を持つ。

 責任を持つことは、エルにとっては救いではなく罰に近い。

 罰のように責任を背負ってきたからだ。


 会議は終わりに向かう。

 形式的な挨拶、食事の段取り、次の会合の日程。

 そうした話が淡々と積み上げられていく。

 積み上げられるたびに、人生が削られ、箱に詰められていく。


 そのときだった。


 アインが、ゆっくりと口を開いた。


 それまで、制度の声だった男が、ほんの少しだけ人の声を混ぜたように聞こえた。

 錯覚かもしれない。

 錯覚だとしても、エルの耳はそれを逃さなかった。


「エルディオ」


 名前を呼ばれる。

 父が息子の名を呼ぶ。

 たったそれだけのことが、胸を痛めた。

 呼ばれた瞬間、身体が条件反射で硬くなる。

 幼い頃から染み込んだ反応が、今も残っている。


「……ゆっくり話がしたい」


 ゆっくり。


 そんな言葉を、父の口から聞く日が来るとは思わなかった。

 父の時間はいつも短かった。父の言葉はいつも結論だった。

 ゆっくり話す、という概念は父の世界に存在しないはずだった。


 そして、アインは続けた。


「シャルロット嬢を連れて――『二人で』帰ってきなさい」


 客室の空気が、凍ったわけではない。

 むしろ、奇妙に揺れた。

 揺れが生まれたのは、この言葉が一つの意味ではないからだ。


 “連れて帰れ”という命令にも聞こえる。


 “彼女を同席者として認める”という譲歩にも聞こえる。


 “お前は一人で戻るな”という、遅すぎる保護にも聞こえる。


 そのどれが本当なのか、エルには分からない。

 分からないのに、胸が締め付けられる。

 言葉が欲しかったのは自分なのに、今は言葉が怖い。


 シャルロットは笑わなかった。

 笑えばこの場は丸く収まる。

 笑顔で受ければ、父の言葉は“祝福”に変換される。

 だが彼女は、それをしない。


 ほんの一拍、真面目な目でアインを見る。


 それは挑発ではない。

 牽制でもない。

 もっと静かなものだ。


 ――私は道具ではない。


 無言でそう告げる目だった。


 エレオノーラが、その目を見逃さず、口元だけで小さく息を吐く。

 アルベルトは政治家の顔で頷いた。


「承知した。日取りは追って合わせよう」


 場は整った。

 整ったからこそ、整わなかった部分が心に残る。


 ミレイユが目を伏せた。

 伏せた瞬間だけ、母の後悔が今の空気に溶けた。


 彼女は何も言わない。

 言えない。

 言わない。


 どれも混ざった沈黙。


 エルは、返事が遅れた。


 返事をすれば、言葉が鎖になる気がした。

 返事をしなければ、拒絶になる気がした。

 拒絶したいわけではない。

 鎖になりたくないだけだ。


 だから、エルは短く言う。


「……承知した」


 承知した。


 それが父への同意なのか、場への同意なのか、自分でも分からない。

 分からないまま、言葉は出てしまった。

 出てしまった言葉は戻らない。


 会談は終わった。


 客室を出る廊下は、入ってきたときよりも静かだった。

 静けさが増したわけではない。

 エルの耳が、余計な音を受け付けなくなっただけだ。


 扉が閉まる。


 世界が少しだけ縮む。


 シャルロットが隣を歩く。

 歩幅が合っている。

 彼女はエルに合わせていない。エルが彼女に合わせている。

 そのことが、不思議なくらい自然だ。


 廊下を曲がったところで、シャルロットが足を止めた。

 立ち止まるというより、歩みの終点をそこに置いたという感じだった。


「……帰るの?」


 問い詰めない声。

 責めない声。

 確認するだけの声。


 エルは答えられない。

 答えは、まだ形になっていない。

 帰るべきなのか、帰ってはいけないのか。

 帰れば父の鎖に戻るのか、帰れば父の人間の部分に触れられるのか。


 王国直轄。


 伯爵相当。


 個になる。


 その未来が、すでに自分の足元で形を作り始めている。

 家に戻る前に、家から外れる。

 外れる前に、家が呼ぶ。

 歯車が噛み合わないまま回り始める。


 エルは、喉の奥で言葉を探した。


「……分からない」


 それが正直だった。正直だと言えたことが、少しだけ救いだった。


 シャルロットは頷く。


「うん。じゃあ、分からないままでいい」


 分からないままでいい、と言われる。

 普通なら無責任だ。

 けれど、エルにとっては責任より重い救いだった。

 分からないままでいい。

 つまり、今すぐ決めなくていい。

 つまり、ここで壊れなくていい。


 エルは、息を吐いた。


 息を吐けたことが悔しい。

 吐けるようになったことが怖い。

 息を吐けるようになったのは、シャルロットが隣にいるからだ。

 隣にいるから息ができる。

 息ができるほど、失ったときに死ぬ。


 ――失う未来が近い。


 そういう予感だけが、ずっと胸の奥で冷たく光っている。


 シャルロットは、エルの顔を見た。

 そこに何かを求めない。ただ、確認する。


「ねえ、エル。今日、あなたが一度でも自分の言葉で返事をした。……それだけで、私は嬉しい」


 嬉しい。


 祝福じゃない場で、祝福じゃない言葉。

 軽いようで重い。

 重いのに、押し付けない。


 エルは、目を伏せた。


「……俺は、まだ……」


 言葉が続かない。

 続けると、自分の弱さを言葉にしてしまう気がした。

 弱さを言葉にした瞬間、また管理される気がした。

 父の声で、制度の声で、矯正される気がした。


 けれどシャルロットは、矯正しない。


 だから、エルは言う。


「……ありがとう」


 それだけ。


 ありがとう。


 たったそれだけの言葉が、胸の奥のどこかを痛くした。

 言えたことが痛い。

 言えなかった時間が痛い。

 言えるようになったのに、未来で奪われる気がして痛い。


 廊下の向こうで、使用人が静かに頭を下げた。

 屋敷は整っている。

 整っているから、壊れるときは派手に壊れる。


 エルは思う。


 婚約は、祝福ではない。


 婚約は、契約だ。


 契約は、人を守る。


 契約は、人を縛る。


 そして今日、父の口から落ちた言葉は、招待状より重かった。


 “二人で”。


 その二文字が、鎖にも救いにも聞こえた。


 エルは、隣を歩くシャルロットの気配だけを確かめながら、歩く。


 まだ壊れていない世界の中で、確実に動き始めた歯車の音を、胸の奥で聞いていた。


89話婚約-1は、「婚約=祝福」ではなく「婚約=契約」として描きました。

家と家の取り決めが淡々と進むほど、エルの中で“言葉が死ぬ感覚”だけが濃くなる――その対比がこの回の核です。


そしてもう一つ。

王国直轄、伯爵相当、“個”になる未来は栄誉であり同時に拘束でもある。

エルが自由に近づくほど、別の鎖が用意されていく不穏さを、静かに置きました。


次回、父の「二人で」が何を意味するのか。

答え合わせではなく、さらに苦しくなる方向で進みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ