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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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88/90

88.幕間【正しさの中で、父は遅れて気づく】

 

 封蝋の色を見た瞬間、胸の奥がわずかに沈んだ。


 ヴァルシュタイン家の紋章。

 過剰でも不足でもない装飾。

 厚みのある紙質。折り目一つない端正な処理。


 そこには、感情を挟む余地が一切なかった。


 ――儀礼として、完璧だ。


 アイン・アルヴェインは、すぐには封を切らなかった。

 机の上に置き、ただそれを眺める。


 数秒。

 あるいは数分。


 時間感覚は曖昧だった。


 戦場なら、この沈黙は致命的だ。

 だが今、彼は将ではなかった。


 ――来たか。


 思ったよりも、早い。

 いや、早いのではない。

 自分が、遅すぎただけだ。


 覚悟はしていた。

 していたつもりだった。


 だが、実物が目の前に置かれると、その覚悟は形を変えた。

 これは「備えていた未来」ではない。

「すでに決まっていた現実」を、今さら突きつけられる感覚だった。


 敗北、という言葉が浮かぶ。


 それは戦の敗北ではない。

 誰かに負けたわけでもない。


 ――自分の“正しさ”に、負けた。


 そう理解した瞬間、胸の奥が、ゆっくりと軋んだ。


 紅茶の香りが、鼻先をかすめる。

 ミレイユが、静かにカップを置いた。


 音は、ほとんどしなかった。

 だからこそ、置かれたという事実だけが残る。


「……それが?」


 問い詰める響きはない。

 だが、逃げ場もない声。


「ああ」


 短く答えると、ミレイユはそれ以上聞かなかった。


 彼女はそういう女だ。

 責めない。感情をぶつけない。

 だが、見なかったことにはしない。


 アインは、ようやく封を切った。


 内容は簡潔だった。

 文面は整っている。

 余計な言葉は、どこにもない。


 婚約の報告。

 列席の要請。


 それだけ。


 机に紙を戻したとき、木目が目に入った。

 戦場では意識しない、平穏の象徴のような模様。


 平穏があること自体が、今はひどく皮肉に思えた。


「……先手を打たれたな」


 呟きは独り言のようでいて、ミレイユに向けた言葉でもあった。


「ええ」


 彼女は、否定しない。


「もう……どうしようもないわね」


 穏やかな声だった。

 怒りも、驚きもない。


 ただ、事実をそのまま受け取る声。


 アインは、背もたれに深く身を預け、天井を見上げた。

 灯りの輪郭が、少しだけ滲む。


 ――エルディオ。


 息子の名を、心の中で呼ぶ。


 声に出したことは、ほとんどない。

 呼べば返事が返る。

 命じれば従う。


 だから、名を呼ぶ必要がなかった。


 その理由が、どれほど薄く、どれほど冷たい言い訳だったのかを、

 今になって理解する。


 ♢


 思い出すのは、いつも同じ場面だ。


 生まれたばかりの、小さな手。

 薄い爪。皺のある皮膚。

 握り返す力だけが、妙に強かった。


 泣かなかった。

 驚くほど、静かな子だった。


 産声は上げた。

 だが、それが続かなかった。


 周囲は不安がった。

 医師も、乳母も、様子を見ようと言った。


 アインは、正直に思った。


 ――賢い子だ。


 泣かないことを、良い兆しだと解釈した。

 感情に振り回されない。

 弱さに溺れない。


 英雄の子として、これ以上ない。


 最初は、誇らしかった。

 誇らしさは、安心とよく似ている。


 そして、安心は人を鈍らせる。


 成長とともに、それは変わっていった。


 力の発現が、早すぎた。

 急激だった。

 そして――歪んでいた。


 暴走はない。

 無駄もない。

 制御は、ほとんど完璧だった。


 ――だからこそ、怖くなった。


 感情を介さずに力を使う。

 必要と判断したことを、迷いなく選ぶ。


 それは、かつての自分と同じだった。


 アインは気づいてしまった。


 この子は、放っておけば、

 自分よりも“正しく”、

 自分よりも“冷たく”なる。


 正しいことを、より迅速に、より徹底して行う。

 迷いがないぶん、壊れるときも徹底的だ。


 だから、距離を取った。


 近づけば、揺らぐ。

 揺らげば、判断が鈍る。


 それは、戦場で最も忌むべきことだった。


 ――そう言い聞かせた。


 言い聞かせ続けた。

 だから、長く続いた。


 長く続いたから、戻れなくなった。


 ♢


 ミレイユは、紅茶に口をつけなかった。


 湯気は弱まり、香りも薄れている。

 それでも彼女は、カップに触れない。


 ――飲めば、落ち着いてしまう。

 今は、落ち着いてはいけない。


 そんなふうに思っているのだと、アインには分かった。


「ねえ、アイン」


 彼女は、招待状から目を逸らさずに言う。


「私ね……あの子が泣かないこと、誇らしかった」


 穏やかな声。

 だが、それは“穏やかであろうとする声”だった。


「抱いても、揺すっても、取り乱さない。

 夜泣きも、ほとんどしなかった」


 一拍。


「楽だったの」


 言い切る。

 逃げない。


「母として……とても、楽だった」


 アインは何も言わない。

 否定も、慰めもしない。


「泣かない子は手がかからない。

 感情をぶつけてこない子は、心を乱さない」


 ミレイユは、視線を落とした。


「私は……母親として、あの子に甘えられなかったことを、

 どこかで安堵していたの」


 それは、罪の告白だった。


「甘えられたら応えなきゃいけない。

 泣かれたら、抱きしめなきゃいけない」


 小さく息を吐く。


「そういうことから……私は、逃げていた」


 そして、静かに言った。


「だって、私も怖かったから」


 アインの肩が、わずかに揺れる。


「あなたの息子で、あなたと同じ目をしていて……

 それでいて、あなたよりずっと静かな子だった」


 ミレイユは視線を上げる。


「怖くないわけ、ないでしょう」


 責める声ではない。

 共有する声だ。


「だから私は、“母であること”より先に、

 “伯爵夫人であること”を選んだ」


 戦場へ行く夫を支える役割。

 家を守る役割。


「それを果たすことが、あの子を守ることだと……

 思い込もうとした」


 だが――


「違った」


 静かに、だがはっきりと。


「守っていたのは役割だけ。

 あの子の心じゃない」


 その言葉は、剣よりも深く刺さった。


 ♢


 リィナの件は、想定外だった。


 息子が、あれほどまでに一人の娘に感情を向けるとは、

 アインは本気で思っていなかった。


 否定しようとした。

 切り離そうとした。


 ――感情は、管理できる。


 そう信じていた。

 いや、信じたいだけだったのかもしれない。


 だが、間に合わなかった。


 結果として、息子は壊れた。


 感情を取り戻したのではない。

 感情に、沈んだ。


 怒り、執着、喪失、自己否定。

 それらが整理される前に、一気に押し寄せた。


 あのとき、アインは理解した。


 ――これは、失敗だ。


 だが、戻れなかった。


 戦場があった。

 責任があった。

 そして何より――


「今さら父親面をする資格がない」と思っていた。


 資格がない。

 それは謙虚ではない。


 自分を、免責するための言い訳だ。


 そう気づいても、当時のアインは認めなかった。

 認めれば、行動しなければならなくなるからだ。


 ミレイユも、同じだった。


 二人とも後悔はしていた。

 だが、後悔は行動にならなかった。


 息子が戦場に出るようになってから、余計に分からなくなった。


 剣を振るう姿は正確で、冷静で、無駄がない。

 だが、どこか――空だった。


 そこに感情はある。

 だが、それは刃の内側に封じ込められている。


 父として声をかけるには、あまりにも遠い。


 ――遠いのではない。


 遠ざけたのは、自分だ。


 その事実を、アインはようやく認め始めていた。


 ♢


「リィナのことも……」


 ミレイユが、その名を口にしたとき、

 声がわずかに震えた。


「私は、最初から分かっていたわ」


 何を、とは言わない。

 それでも、十分だった。


「あの子が、あの娘に向けていたものが、

 ただの執着じゃないことも。

 救いを求めていたことも」


 一拍。


「でも……見ないふりをした」


 視線を伏せる。


「だって、それを“本気”だと認めてしまったら、

 私は母として、何かをしなければならなくなる」


 それが、いちばん怖かった。


「結果として、あの子は壊れた」


 声が、かすれる。


「壊れたのは……あの子だけじゃないわ」


 顔を上げる。


「私たちも、よ」


 アインは、返す言葉を持たなかった。


 反論はできる。

 理屈はいくらでも組み立てられる。


 だが、今それを言えば、

 自分が“今まで通りである”と宣言するだけだ。


 だから、沈黙した。


 ♢


 メイリスのことを知ったとき、

 アインは一瞬、目を閉じた。


 ――やはり、管理が必要だ。


 それが、最初の結論だった。


 息子は、危うい。

 力がある分、なおさらだ。


 だから整える。

 家に戻す。

 役割を与える。


 子を持たせる。

 責任を背負わせる。


 愛ではない。

 秩序だ。


 秩序が、いかに多くの命を救ってきたかを、

 アインは戦場で知っている。


 秩序がなければ死ぬ。

 秩序があれば、生き残る。


 だから、秩序は正しい。


 ――正しい、はずだった。


 だが、王都に出したら出したで、

 息子は、新しい女を捕まえた。


 注意したつもりだった。


「家の習慣を、外に持ち込むな」


 叱ったつもりだった。


 だが今思えば、それは忠告ではない。

 拒絶だった。


 息子の生を、

 息子が掴もうとした日常を、

 丸ごと拒んだ言葉だった。


 アインは、拳を膝の上で握る。


 ――俺は、息子を整えたかったのではない。


 ――俺自身の、不安を整えたかったのだ。


 その答えは、あまりにも明白で、

 だからこそ、痛かった。


 ♢


 ミレイユは、静かに言った。


「メイリスのことを、私は止めなかった」


 声に、揺れはない。


「あなたの判断だと分かっていても、

 私は異を唱えなかった」


 理由は、単純だった。


「整えれば、元に戻ると思ったから」


 家に。

 役割に。

 あるべき場所に。


「でも、それは……」


 ミレイユは、はっきりと言う。


「私たちが安心するための選択だった」


 息子のためではない。

 家のためでもない。


「“これ以上、間違えたくなかった”だけ」


 失敗を確定させたくなかった。

 自分たちの誤りを、

 自分たちの口で認めたくなかった。


「だから……」


 視線が、招待状に落ちる。


「シャルロット嬢を選んだと知ったとき、

 私は……少し、安心してしまったの」


 アインが、ゆっくりとこちらを見る。


「だって、あの子は――」


 一拍。


「初めて、自分で選んだんだもの」


 それが、どれほど遅く、

 どれほど歪んでいたとしても。


「……私は、もう止めない」


 きっぱりと。


「母として、してこなかったことを、

 今さら取り繕うつもりもない」


 ただし、と付け足す。


「見届けることだけは、させて」


 それは、贖罪でもあり、

 最後の役割だった。


 ♢


 シャルロット・ヴァルシュタイン。


 その名は、以前から知っていた。


 旧知の仲。

 アルベルトの娘。


 情報も集めさせた。

 評判も、素性も、性格も。


 強い娘だ。

 だが、管理しない。


 息子を縛らない。

 導かない。

 正そうとしない。


 ――だから、危険だと判断した。


 だが、今なら分かる。


 危険なのは、彼女が息子を壊すからではない。

 危険なのは、彼女が息子を“そのままにする”からだ。


 整えない。

 刃にしない。

 役割で囲わない。


 それは、アインにとって理解できない方法だった。

 理解できないものは、恐怖になる。


 だから、排除しようとした。


 だから、メイリスを使おうとした。


 子を孕んでいる事実を公にする。

 婚姻させる。

 家に戻す。


 正しい手順だった。


 だが――


 息子は、選んだ。


 シャルロットを。


 その事実が、今も胸に残る。


 腹立たしいのではない。

 悔しいのでもない。


 ただ、眩しい。


 ――選べたのか。

 ――俺の知らない場所で。


 ♢


 回想が、静かに終わる。


 アインは、再び招待状を見る。


 ――先手を打たれた。


 もう、どうしようもない。


 ミレイユが、静かに言った。


「私は……もう、口出ししないわ」


 アインは、視線を向ける。


「息子の人生に」


 彼女の声は、揺れていなかった。


「私たちは、十分に介入した。

 十分に縛った。

 もう……いいでしょう」


 アインは、息を吐く。


「俺は……いや」


 一拍。


「俺たちは、どこで間違えたんだろうな」


 ミレイユは、少しだけ目を伏せた。


「……愛し方を、知らなかったのよ」


 責める声ではない。

 断じる声でもない。


 ただ、事実を置く声。


 アインは、何も言い返せなかった。


 ♢


「俺たちの負けだ」


 アインが言う。


 それは将の敗北ではない。

 父の敗北だ。


「メイリスも、覚悟している」


 ミレイユが、頷く。


「ええ。あの子は……

 覚悟した上で、

 エルディオの人生の邪魔にならないことを選んだ」


 一拍。


「本当に、強い女性よ」


 アインは、苦く笑った。


「……俺の、負けだな」


 首を振る。


「いや、負けというのも違うか」


 拳を、膝の上で握る。


「息子を家に縛り付けていた……

 その報いを、受けるんだろう」


 ミレイユは、何も言わない。


「……あいつは、もう家には戻ってこないだろうな」


 その言葉に、初めて感情が滲んだ。


 怒りではない。

 悲しみでもない。


 理解だ。


 戻らないのではない。

 戻れない場所にしてしまった。


 それが、自分の選択の結果だ。


 ♢


 沈黙が落ちる。


 長い沈黙。


 言葉を挟めば壊れる沈黙ではない。

 むしろ、言葉を挟めば嘘が混じる沈黙だ。


 アインは、ゆっくりと立ち上がった。


「婚約を、認めよう」


 ミレイユが、顔を上げる。


「それで……」


 一拍。


「息子に、会いに行こう」


「アイン……」


「招待を、受ける」


 それは命令でも、覚悟でもない。


 遅すぎた父親の、

 ただの願いだった。


 ♢


 その夜、ミレイユが部屋を出たあと、

 アインは書斎に残った。


 灯りは落とさない。

 暗闇にすると、思考が過去に引きずられる。


 ――だが、無駄だった。


 思考は、勝手に遡る。


 エルディオの背中。

 剣を振るう姿。

 戦場での判断。


 どれも正確で、冷静で、

 “父の教え通り”だった。


 だからこそ、胸が痛む。


「……よくできた息子だ」


 呟きは、空虚だった。


 称賛ではない。

 確認だ。


 ――俺が、作った。


 だが、その続きを言えない。


「だから安心だ」

「だから誇らしい」


 言えない。


 その完成度が、

 息子の幸福と結びついていないと、

 今は分かるからだ。


 ♢


 アインは、己の手を見つめる。


 この手で、多くの命を奪ってきた。

 この手で、部下を導いてきた。


 だが――


 この手で、息子を抱いた記憶は、

 驚くほど少ない。


 必要がなかったからだ。

 そう思っていた。


 泣かない。

 訴えない。

 求めない。


 だから、放っておいた。


「……違うな」


 小さく否定する。


 放っておいたのではない。

 見ないようにしていた。


 息子の中に、

 自分を見てしまったからだ。


 感情を切り捨て、

 正しさを優先し、

 孤独を当然のものとして受け入れる。


 それは、かつての自分だ。


 そして――

 今の自分だ。


 ♢


「……怖かったんだ」


 誰に言うでもなく。


 息子が、自分を超えてしまうことが。


 力ではない。

 冷酷さでもない。


 “迷いなく選ぶこと”において。


 自分より正しく、

 自分より早く、

 自分より多くを切り捨てられる存在。


 それは英雄ではない。

 怪物だ。


 ――怪物にしたくなかった。


 だが、結果は逆だった。


 父が距離を取るほど、息子は学んだ。

 感情を捨てることを。

 頼らないことを。

 自分で決めることを。


「だから……縛った」


 距離で。

 沈黙で。

 役割で。


 父親であることを、

 戦場の論理に押し込めた。


 押し込めたのは、息子ではない。

 自分の恐怖だ。


 ♢


 結果、どうなった。


 息子は壊れた。


 いや――


「壊したのは、俺だ」


 直接ではない。

 だが、確実に。


 リィナの件も。

 メイリスの件も。

 シャルロットの件も。


 すべては、

 “管理できると思い上がった父親”の末路だ。


「……今さら、会ってどうする」


 自嘲が漏れる。


 謝るのか。

 許しを乞うのか。


 どれも、違う。


 許される権利などない。

 父としての資格も、とうに失っている。


 それでも――


 会わずに終わることだけは、

 選べなかった。


 ♢


「……エルディオ」


 今度は、声に出す。


 返事は、ない。


 それでも、呼ぶ。


「お前が選んだ道を……」


 一拍。


「俺は、否定しない」


 それが、せめてもの償いだ。


 導けなかった。

 守れなかった。

 理解もしなかった。


 だからこそ。


「見届ける」


 それだけを、選ぶ。


 ♢


 窓の外は、静かだった。


 世界は、まだ壊れていない。


 だが、確実に歯車は動き始めている。


 アインは、知っていた。


 ――これは、終わりではない。


 これは、取り返しのつかない選択の始まりだ。


 それでも、行く。


 父としてではなく、

 一人の人間として。


 息子の選んだ道を、

 この目で見るために。


 そして、願う。


 願うことだけは、

 今さらでも許されるだろう。


 ――どうか、あいつが、もう壊れませんように。


 その祈りが、

 どれほど遅すぎるかも、分かっている。


 分かっていても、祈ってしまう程度には――


 彼は、ようやく父親になった。

この話は、誰かを裁くための章ではありません。

正しかったはずの選択が、積み重なった末に何を残したのか――

それを、ただ静かに見つめるための章です。


アインは間違えました。

けれど彼は、悪ではありません。

ミレイユもまた、逃げました。

けれど彼女も、冷酷ではありません。


「正しかったからこそ、遅れた」

その事実だけが、この章に残ります。


そして物語は、

彼らがようやく“父”と“母”になったその瞬間から、

もう一度、前へ進み始めます。


次に描かれるのは、

彼らの知らない場所で選ばれていく未来です。


それを、どうか見届けてください。


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